離婚前提の夫が記憶喪失になってから溺愛が止まりません

沖田弥子

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1巻

1-1

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 今日が、私の離婚記念日になる。
 深い溜息をついた私――華僑院かきょういん由梨ゆりは、テーブルに置いてある離婚届を陰鬱いんうつな気持ちで眺めた。
 結婚してから一年という月日は短い気もするけれど、愛のない結婚生活を過ごす期間としては長い。監獄に閉じ込められているかのように重苦しく、つらい日々だった。

「まさか、こんなことになるなんてね……」

 自嘲を込めてつぶやき、私は栗色の髪を掻き上げる。
 肩下まであるセミロングの髪は、ゆるく跳ねているだけ。薄化粧をほどこした顔は、目が大きいけれど、絶世の美人なんていう部類ではなく凡庸だった。
 マンションのリビングの窓に映った自分の顔は、二十六歳という年齢のわりに老けているように見えた。結婚生活について悩みすぎて、疲弊しきってしまったせいだろう。
 一年前、社長令嬢の私は、会社経営者である華僑院斗真とうまと結婚した。
 華僑院家は元華族の流れを汲むホールディングスの創業者一族であり、斗真の地位も収入も結婚相手として申し分のないものだった。しかも、父の会社が経営難におちいっていたため、斗真が資本提携を申し出てくれたのだ。資本提携を交換条件にした私との結婚を、両親は大喜びで承諾した。
 いわゆる政略結婚なので、愛はない。
 私たちは交際しないまま結婚に至った。
 だけど、初対面のパーティーで斗真に声をかけられたときに紳士的で優しそうな人だと思ったので、好意は持っていた。それに彼のほうからアプローチしてきたこともあって、結婚生活はうまくいくと思ったのだ。

『由梨さん、俺と結婚してください』

 その台詞せりふを自宅へ挨拶あいさつに訪れた斗真に言われたときは、舞い上がった。しかも彼は、大粒のダイヤモンドが輝く婚約指輪まで用意していたのだ。
 すでに資本提携の話はまとまっていたので、予定調和ではあったが、きちんとプロポーズしてくれた斗真に信頼が持てた。
 幸せになれる――
 そう確信したから、私はプロポーズに応じた。なんの疑問も持たず、未来の幸せだけを夢見ていた。
 これまで交際した男性はいたものの、いまだに処女だというコンプレックスを払拭したいという思いが強かったのもある。
 だが、私が幸福だと浮かれていられたのは結婚式の日までだった。
 初夜どころか、夫婦の営みは一度もないまま今に至る。
 夫とはセックスレスにおちいっていたため、結局、私は処女のままだった。
 斗真は私に興味がないのか、それとも性欲そのものがないのか、あるいはなんらかの男性のコンプレックスを抱えているのか――もしかしたら愛人がいるのではないか、と考えたこともある。
 そんな様々な疑問が湧き、それとなくたずねてみたこともあるが、いつも答えをはぐらかされた。
 なにが原因なのかはわからないけれど、判明したところで、もはや夫婦関係を修復するのは困難だろう。私たち夫婦は、あらゆるところですれ違っているのだから。

「もう疲れた……」

 何度目かわからない重い溜息をつく。
 結婚して幸せになるどころか、擦り切れていくばかりの日々に終わりを告げたい。こんなにも悲しい思いを一生続けていくなんて、無為の極みだ。お互いのためにも離婚するべきだと、私はとうとう決意した。
 白い離婚届の用紙をあらためて見やる。
 今日はちょうど結婚して一年になる結婚記念日だけれど、お祝いするなんていう状況ではなかった。
 私は斗真に離婚を切り出すため、彼の帰宅を待っているのだ。
 父の会社に勤務している私のほうが帰りが早いことが多いため、いつもなら夕食を作って待っているのだが、もうそんなことはしなくていい。
 そもそも食事なんて作っても意味がなかった。斗真は私の作る食事を見ても、眉間に深いしわを寄せて箸を手に取ろうとしないのだから。理由をたずねても、そのたびにはぐらかされて……の繰り返しだ。
 要するに夫は、私のすべてが気に入らないのだろう。
 私が優しい人だと勝手に解釈していただけで、本当の斗真は冷酷な人柄だったのだ。
 そんなふうに思い返すのも、もう何回目なのか数え切れない。
 だけどそんな懊悩おうのうは今日限りだ。
 そのとき、玄関扉が開いた音が耳に届く。
 斗真が帰宅したのだ。
 彼がここへやって来るのを、私は離婚届に眼差しを注ぎながら待つ。

「……ただいま」

 リビングへ入ってきた斗真は、さっそく紙一枚だけが置かれたテーブルに気づき、硬い表情をしている私と見比べた。
 柔らかそうな黒鳶色くろとびいろの髪に、まなじりの切れ上がった涼やかな双眸そうぼう。すっと通った鼻梁びりょうと、薄いけれど形のよい唇。シャープな顎のラインは、美麗なのに勇猛な雄を思わせた。一八〇センチを超える鍛え上げた体躯たいくを、三つ揃えの上質のスーツに包んでいる。
 端整な顔立ちと恵まれた体格を併せ持つ夫は、どこから見ても魅力的な二十九歳の男性だ。
 こんな人と結婚したら、誰もが幸せになれると夢見るだろう。
 けれどそれは、私には遠すぎる夢だった。
 室内の様子を見て、私が言いたいことをすでに悟ったのか、夫は愛用のビジネスバッグを持ったまま立ち尽くしていた。
 私は「おかえり」の代わりに、決定的な言葉を口にする。

「離婚しましょう」

 瞠目どうもくした斗真は無言だった。
 だけど彼だって、こうなることは予期していたのではないか。
 セックスレスなので当然のごとく子を望めない私たちは、いわゆる仮面夫婦で、信頼関係や絆が築けなかった。しかも理由があってのセックスレスではなく、斗真は原因を明かそうとしない。つまり私を信頼していないから言えないのである。それがとても悲しかった。
 しばらくして、斗真は歩を進めて私の向かいの席に座った。そして持っていたビジネスバッグを静かに床に置く。
 彼は離婚届を一瞥すると、私をまっすぐに見た。

「急になにを言い出すんだ」

 焦ったような声を出したのは演技なのだろうか。離婚したら世間体が悪いので、彼としては困るのかもしれない。
 でも、私はもうこの状態を続けることはできなかった。
 私は無表情のまま、用意していた台詞せりふをつらつらと述べる。

「私たち、初めから夫婦でもなんでもないわよね。だってセックスレスなんだから」
「それは……」
「あなたは私といてもつらそうだし、いつも眉間にしわを寄せていたわ。私の作った食事に手をつけないし、一緒に出かけたこともない。子どもができるわけでもない。……私はもう疲れたの。この結婚生活にどんな意味があるのかわからない」

 そこまで言って、始まりには意味があったことを思い返す。
 政略結婚で、会社同士のつながりが重要だった。父にはまだなにも相談していないが、離婚に反対するのはわかりきっているので事後報告にするつもりだ。
 会社のためとか、世間体とか、そのためにこの空虚な結婚生活を維持するのはもう限界だった。
「子どもはまだ?」と挨拶あいさつ代わりに、友人や職場、義理の両親などからたずねられる。そのたびに頬を引きつらせて言葉を濁していると、屈辱で涙が溢れそうになった。
 セックスレスなので、妊娠する可能性はゼロ。
 しかも最初からないのだ。結婚しているのに処女なのは世界で私ひとりではないかと、暗闇に取り残されたみたいな絶望を感じる。
 初夜のとき、斗真は気まずげに目を逸らし、なにもしなかった。あのときは内心で首を傾げつつも、疲れているのかもと思い、そっとしておいた。その後もこちらから優しい言葉をかけてみたが、彼が求めてくることはいっさいなかった。
 どうしてだろう。
 私のなにがいけないのだろう。
 一生懸命になって笑顔を作り、場を盛り上げようと話題を振って、料理教室に通って美味おいしい食事を用意し、綺麗な奥さんでいるために外見にも気を配り、外で仕事をして家の中だけにいないようにして……
 よき妻になろうと、あらゆる努力をした。
 しかし斗真は変わらなかった。彼が眉根を寄せて目を逸らすたび、徐々に自分の心がすさんでいくのがわかった。夫は妻である私に向き合う気がないのだ。
 結婚した頃は相手に好意を抱いていたはずなのに、灯火が消えるかのようにその気持ちがなくなるのがわびしい。
 そうして辿り着いた答えが、目の前の離婚届だった。
 だけど斗真は、そんな私の懊悩おうのうなんて知るよしもなく、どうでもいいようなことを拾い上げる。

「食事に手をつけないわけじゃない。きちんと食べている」
「……完食しているということ? でもすぐに食べないのは、どうしてなの?」
「それを説明すると話が長くなる」
「いいわよ。言ってみて」
「いや……まだその必要はない」

 夫はきっぱりと言い切った。
 今、この場で言わなければ、いつ説明する機会があるというのか。
 彼はいつもこんな調子だった。かといって、私の苦悩をすべてぶつけるのは品がないし、なによりそんなことをしてもなんの意味もない。
 溜息をこぼした私は左手の薬指から結婚指輪を抜き取り、薄い用紙の上に置いた。

「もうあなたと話し合おうとか、わかり合おうなんて思っていないわ。一度も夫婦の営みがないのが答えよね。父にはあとから言っておくから、これにサインしてちょうだい」

 彼が離婚届に記入してくれさえすれば、すべてが終わる。
 こういう結論になってしまったけれど、私たちはただ縁がなかったのだ。
 これからは仕事のことだけを考えて、自分の心が穏やかに過ごせるように生きていこう。斗真だって離婚したほうが幸せになれるに違いない。
 そう結論づけたのだが、斗真は離婚届に手を伸ばさなかった。
 なぜか、ちらと床に置いたビジネスバッグに目をやる。
 仕事の書類でも入っているのだろうか。こんなときなのに夫は仕事のことしか頭にないらしい。少しは家庭の問題を真剣に考えてほしいものだ。
 しばらく黙していた彼は、やがて強い眼差しでこちらを見た。

「由梨、待ってくれ。少し考えさせてほしい」
「……いつまで?」
「そうだな……。明日の夜までに、俺の答えを用意しておく」
「わかったわ。明日ね」

 私は頷いた。
 彼にも心の準備が必要だろう。永久に考えさせてもらうと言われても困るので、念のため期限をたずねたが、明日までならいい。
 差し出した離婚届はまだ空白だが、明日には書き込まれる。
 私は結婚指輪を薬指にめ直すと、目の前にある薄い用紙を折りたたみ、それを手にして席を立った。

「夕食は適当に済ませてね。私はいらないから」

 自分でも冷めていると思うけれど、明日離婚したら他人同士だ。もう料理を作らなくていいし、食卓をともにする必要もない。
 斗真はテーブルから動かずにじっとしていた。この先どうするかを考えているのだろう。
 彼が離婚を決断するのは明白だ。
 だって引き留めたいなら、先ほど私にそう言っただろう。そもそも彼がこの結婚生活を継続していきたいと考えているのなら、なぜセックスがないのか、なぜ食事に手をつけようとしないのか、そしてなぜいつも眉間にしわを寄せて不機嫌そうにしているのか、といった数々の疑問に対して答えるはず。
 すぐに承諾せず「考えさせてほしい」と時間をほしがったのは、どうしたら離婚しても世間体を保てるか、もしくは会社の事業のためにどうすべきか、思案したかったからだろう。
 なにを考える必要があるのかと問いつめ、「おまえが嫌いだからだ」という最悪な答えを掘り出したくもない。どうせ私のことなんて初めから好きではなかったのだろうけれど。
 また重い溜息をつき出した私は寝室へ入り、ナイトテーブルの引き出しを開ける。
 そこへ離婚届をしまった。

「明日には出番が来るわ。それまで眠っていてちょうだい」

 パタンと引き出しを閉じる。
 つい物に話しかけてしまったが、子どももペットもおらず、仮面夫婦という寂しい日々を過ごしているうちにこんな癖がついてしまった。
 寝室には、夫婦のベッドがふたつ並んでいる。ひとりずつひとつのベッドに寝る以外の使い方を、私は知らない。
 結婚した頃は、セックスするときはどちらのベッドに行くのだろうなんて、胸をときめかせながら考えたこともあったが、無用な心配だった。
 寝室を別にすることも考えたが、大きめのベッドなのでほかの部屋に運ぶのは難しいし、寝室を出ていくほうが別の寝床を用意するのも面倒で、そのままの状態で過ごしてきた。
 私はかぶりを振り、二台のベッドから顔を背ける。
 今夜だけ我慢して、身を焦がす苦悩を押さえ込めばいいだけ。

「そうよ。もうすぐ全部、終わるんだから」

 明日は平日なので仕事があるが、退勤したら不動産屋へ足を運ぼう。
 すでに新居にちょうどいい物件には目をつけている。すぐに契約して、引っ越しの手配をすればいい。
 これからは悠々と独身生活を謳歌おうかするのだ。
 そう頭を切り換えた私は、入浴するためにバスルームへ向かった。


 翌日、早朝に起きた私は身支度を整えると、会社へ出勤した。
 まだ早いのだけれど、昨日のことが気まずくて斗真と顔を合わせたくなかったのだ。
 マンションから出ると、朝陽がまぶしくて目を細める。
 今日こそ、離婚する。
 夜になったら斗真が離婚届にサインするだろう。
 クリスマスや誕生日などの記念日に合わせて婚姻届を提出するという話をよく聞くが、離婚するときもなんらかの日に合わせるなんて話は一度も耳にしたことがない。
 つまりそれは、世の中の破綻した夫婦は、日取りなんてどうでもいいからすぐに離婚したいと思っているという証拠だ。
 今ならその気持ちがよくわかる。一刻も早く輝かしいはずの本来の自分の人生を取り戻したい。そして傷ついてばかりの自分の心を守りたい。ただそれだけ。

「今夜こそ、すっきりできるわ……」

 私は独りごちながら最寄り駅まで歩く。
 湾岸の新都心には、壮麗なタワーマンションが建ち並んでいる。港湾の隙間から見える海はいでおり、陽射しを受けて光り輝いていた。通りかかった公園は初夏の緑に溢れている。
 陰鬱いんうつな心を薙ぐような清涼な景色も見納めかと思うと、寂しく感じる。でも、明日からは幸せに向かって歩み出せるのだ。
 意識して口角を上げ、颯爽さっそうと脚を動かしていると、五分ほどで駅に到着した。
 グレーのパンツスーツにビジネスバッグをたずさえ、早出の会社員の波に加わる。
 電車を使い、整然とオフィスビルが建ち並ぶ都心の一角に辿り着いた。ここに私が勤める『株式会社ニトウデザイン』の社屋がある。
 父が社長を務めているデザイン会社で、商業施設や店舗などの設計と施工を中心に、インテリアデザインにかかわるすべてをサポートしている。
 私は大学卒業後に入社して四年目になるインテリアデザイナーだ。
 現在はヘアサロンの内装デザインを担当しているが、常に顧客の要望に沿った丁寧な提案を心がけている。
 会社に到着すると、ほかの社員とともに玄関の自動ドアを通り、エレベーターに乗り込む。
 近くのカフェで朝食を取ったので、ちょうどいい出勤時間になった。

「おはようございます」

 明るく挨拶あいさつして部署に入り、フロア内にある自分のデスクに向かう。
 主任のみなと靖子やすこさんはすでにデスクについていた。

「おはよー、由梨さん」

 長い髪を後ろに束ねた彼女は、パソコンを見つめながら片方の手にサンドイッチを持っていた。いつも気怠けだるげな挨拶あいさつをするが、頼れる上司であり、私たちのチームリーダーでもある。
 ちなみに、私は職場のみんなからは名前で呼ばれていた。
 今の姓は華僑院だけれど、会社では旧姓を使っている。でも社長と同じ苗字なので、社内では名前で呼んでもらっているのだ。
「由梨さん」にしようというアイデアを出したのは、主任の湊さんである。
 たまたまチームのメンバーが名前のような苗字の人ばかりだったため、私だけ名前呼びでも違和感がなかった。
 自分のデスクに着いてパソコンを起ち上げ、メールチェックを行う。
 取引先からのメールに返信していると、隣から明るい声がかかった。

「おはようございまぁす、由梨さん」
「おはよう、カンナさん」

 後輩の貫名かんな佳奈かなさんが、栗色のボブカットを揺らして隣の席に腰かける。
 彼女は上機嫌でスマホを取り出すと、ケーブルにつないだ。

「嬉しそうね。なにかいいことでもあったの?」
「えへへ。わたし、ついに彼氏ができそうなんです。見てくださいよ」

 常に充電が満タンのスマホをタップしたカンナさんは、一枚の写真を表示してこちらに向ける。
 そこには居酒屋で撮ったと思しきカンナさんと、見知らぬ若い男性が映っていた。

「この人が彼氏候補?」
「はい、アプリで知り合ったんですけど、昨日で会ったのが三回目なんですよね。いい雰囲気だから、付き合えるかなーって感触です」

 独身のカンナさんは、最近アプリで恋人を探している。
 アプリでの出会いは条件や顔が初めからわかるので、効率がいいらしい。
 政略結婚の私はカンナさんから話を聞くまでそういったアプリの存在すら知らなかったが、自由に恋愛を楽しめそうな印象を受けた。
 離婚したら、私もやってみようかな……
 そんな考えが一瞬頭を掠めたけれど、すぐに追い払った。
 なぜか斗真の顔が浮かんだから。
 別に未練なんてないはずなのに、どうして離婚する夫のことが気にかかるのだろう。とにかくすべては離婚届にサインしてからだ。今はアプリで出会いを探そうなんて考えている場合ではない。
 溜息をつきかけたが、それを押し込めて返事をする。

「いいなぁ、恋してるって感じよね」
「由梨さんは素敵な旦那様がいるじゃないですか。うらやましいです。……って、結婚式に招待されたときから百万回言ってますけど」
「あはは……結婚となると、いろいろと大変だから……」
「ですよね。早くわたしも誰かのたったひとりの特別な人になって、左手の薬指に結婚指輪をめたいです」

 写真を眺めながらカンナさんは理想を語る。
 結婚する前の私とまったく同じ思考だ。
 誰もが幸せな家庭を夢見て、相手を探し、結婚さえすれば幸せになれると信じている。離婚する夫婦が世の中にはたくさんいると知っていたはずなのに、なぜか結婚前は自分がそうなるなんてつゆほども思わなかった。
 私は自らの左手の薬指をそっと見下ろした。
 そこにはプラチナの結婚指輪がある。
 結婚した当初はこれを栄光のあかしのように思っていたが、今は違う。急に外して周囲になにかあったと勘繰られても困るので、離婚するまでは外さないでいるつもりだ。
 もともと、職場では斗真との不仲は話していない。
 会社の経営にもかかわることなので、結婚を条件に斗真の会社と資本提携を結んだことも、初めからおおやけにしていなかった。
 ゆえに斗真とは会社関係のパーティーで知り合い、プロポーズされたということになっている。実際にそれは嘘ではない。初めにパーティーで話しかけてきたのは、斗真のほうだった。
 社内で結婚生活について問われても、ずっと「結婚したら意外と大変」と言って濁している。ほかの既婚者も同じことを言っているので、もしかすると誰もが似たような悩みを抱えているのかもしれない。
 苦笑いを噛み殺し、私はひたすらパソコンのキーボードを叩く。
 ほかの社員も出勤してきて、席でそれぞれが業務を開始している。
 そのとき、渋い顔をした湊さんが、まだスマホを見ているカンナさんを手招きした。

「ちょっと、カンナさん」
「なんでしょう、主任」

 スマホを置いたカンナさんが、湊さんのデスクに向かう。

「シーリングライトの件についてはどうなってるの? 依頼主に何点かプランを提案するわけだけど、もう企画書はできた?」
「あっ……まだです。今から見直して、すぐに提出します」

 頭を下げたカンナさんは、そそくさとデスクに戻ってきた。
 インテリアデザイナーの仕事は、家具や建築、素材に関する知識はもちろんのこと、創造性や汎用性も求められる。完成した図面をもとに依頼主とディティールを詰め、施工業者と打ち合わせをしてデザインの監理も行うため、とてもやりがいのある仕事だ。
 湊さんをチームリーダーとして、私とカンナさんを含めた六名で今回の案件を請け負っていた。
 必死にパソコンに向き合っているカンナさんの隣で、私は素材のサンプルを発注することにした。途中で電話対応をしつつ、ようやく発注作業を終える。

「由梨さん……この企画書なんですけど、ちょっと見てもらっていいですか?」

 不安げなカンナさんに声をかけられたので、隣のパソコンを覗き込む。
 普段は優しい湊さんだが、仕事となると何度でもリテイクを出すからだ。

「どれどれ……」

 企画書を読み込んでいた、そのとき。
 電話を取った湊さんが、不穏な雰囲気をかもし出していることに気づいた。

「えっ? ええ……華僑院はいますが……はい、はい……そうですけど、どういったご用件でしょうか」

 私の苗字が出たので、どきりとする。
 湊さんの対応を見ると、電話の相手は顧客ではなさそうだ。なにやら深刻そうだけど、いったいなんだろう。
 すぐに湊さんは「少々お待ちください」と伝えて受話器を置いた。彼女はわざわざ席を立ち、私のそばにやってくると、身を屈めてささやいた。

「由梨さん、警察から電話よ。旦那さんのことで」
「……えっ」

 私は一瞬硬直した。
 ――警察?
 警察から会社宛てに電話がかかってくるなんて、只事ではない。しかも内容は斗真にかかわることらしい。どういうことなのだろうか。
 すぐに私はデスクの受話器を取った。

「もしもし、お電話代わりました。……ええ、私が華僑院由梨ですが……」

 電話の相手は湾岸警察署の巡査だと名乗った。自宅近くのエリアを管轄する警察官らしい。
 彼は私の名前を確認したあと、淡々と述べる。

『ご家族の華僑院斗真さんが、交通事故に遭われました。現在、湾岸総合病院の救急外来に搬送されています』
「えっ!? 交通事故……ですか?」

 息を呑んだ私に呼応するように、部署内が静まり返る。カンナさんやほかの社員も手を止めて、こちらを見守っていた。
 警察官の説明によると、免許証と車検証の住所から自宅の電話番号を照会して連絡したものの、誰も出なかったので、免許証が入っていたケースから私の名刺を見つけて会社に電話をかけたという。

「それで……夫の怪我はどんな感じなんですか?」

 斗真は車で通勤しているので、車の衝突事故だと思われるが、彼は無事なのか。命はあるのか。
 焦りを覚えて声が震え、受話器を持つ手に力が入る。

『処置中のため、警察のほうでは現時点の詳しい容体はわかりかねます。すぐに病院にお越しください』
「わかりました。すぐに行きます」

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