離婚前提の夫が記憶喪失になってから溺愛が止まりません

沖田弥子

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1巻

1-2

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 受話器を置いたときにはすでに腰を上げていた。
 慌ただしくバッグを手にした私は、後ろに立っていた湊さんにたどたどしく伝える。

「あのっ、夫が交通事故に遭いまして、病院に……」
「わかっているわ。すぐに行ってちょうだい。社長にはわたしからも言っておくから、あとのことは任せて」

 今は、父は現場に赴いているので会社にはいない。
 とにかく妻である私がすぐに病院へ向かい、斗真の様子を確認しなければならない。
 心配そうに表情を曇らせている社員たちに仕事を任せて、私は急いで会社を出た。


 湾岸総合病院にタクシーで到着すると、すぐに救急入口へ駆け込む。
 受付で事情を伝えると、待合室に通された。平日の昼間のためか、救急外来は閑散としていて、待合室には私ひとりしかいない。
 事故の規模すらまだわかっていないので、不安が募る。
 待合室の硬いソファに座り、ひとまず斗真の実家に連絡を入れた。義母は驚いた様子で、すぐに病院へ向かうとのことだった。斗真の父親は華僑院グループの会長で多忙な人なので、会社に電話を入れるべきか少し悩む。
 そのとき、処置室のドアを開けて看護師が出てきた。
 彼女は私に目を向けると、柔らかな声をかける。

「華僑院斗真さんのご家族の方ですか?」
「はい、そうです。妻の華僑院由梨です」
「奥様ですね。ご主人はこちらにいます。処置は終わっていますので、先生からお話を聞いてください」
「はい……」

 看護師が落ち着いた口調で話しているが、それが逆に恐怖心を煽る。
 どれほどの怪我なのだろうか。意識はあるということなのか。処置が終わったということは、骨折なのか。ともかく今から斗真に会えるので、自分の目で確かめるしかない。
 どきどきしつつ、案内されて処置室のひとつに足を踏み入れる。
 狭いその部屋はパーティションで仕切られており、壁際にデスクがあった。反対側には救急用のベッドが設置されている。そこに毛布をかけて横たわっていた斗真は、青白い顔をして目を瞑っていた。
 静かに眠っているような彼の顔を見た途端、込み上げてくるものを感じ、声が震える。

「と、斗真……」

 まなじりに涙が滲みかけた、そのとき――声に反応した斗真が、うっすらとまぶたを開けた。
 そしてぼんやりしている様子でこちらを見た。

「あれ……由梨さんじゃないか。どうしてここに?」

 夫の穏やかな声に、私は目をまたたかせた。
 命に別状はなさそうだし、重傷というわけでもないように見える。

「どうしてって、あなたが交通事故を起こしたと聞いたから駆けつけてきたのよ」
「ああ……そうなのか。俺は事故を起こしたんだ……よく覚えてないな」

 まだ朦朧もうろうとしているから、事故当時の記憶が曖昧あいまいになっているのだろう。
 意識はあるし、激痛というほどの痛みもないようだ。命にかかわる状態ではなかったと知り、私の胸は安堵感に包まれる。

「無事でよかったわ。大怪我したかと思ったのよ」
「いや、大丈夫だ。大怪我なんてしたら、結婚式がキャンセルになってしまうからね」
「……えっ?」

 私は再び、ぱちぱちと目をまたたかせた。
 結婚式をキャンセル……?
 まるでこれから誰かと結婚するかのように聞こえたが、どういうことなのか。
 確かに私たちは離婚する予定ではあったけれど、まさか斗真には愛人がいて、その人と結婚するつもりだったのだろうか。
 驚愕のまま、私はベッドに横たわっている彼を見下ろした。

「……誰と、結婚式を挙げるの?」
「もちろん由梨さんとだよ。この前、式場を見学しただろう」
「……は?」

 なにを言っているのだろう。
 確かに結婚式を挙げる前に式場見学をしたが、それは一年以上前の話だ。
 それに彼はなぜ、さっきから私を「由梨さん」と呼ぶのか。
 やたらと他人行儀である。いつもは「由梨」と呼び捨てなのに。
 首をひねった私は、ひとまず疑問を口にすることにした。

「もうとっくに結婚式は終わったけど」
「えっ?」

 今度は彼が驚いたように目をまたたかせた。
 その反応に、さらに混乱が深まる。

「どういうことだ? 結婚式は終わった……ということは、俺たちはすでに結婚しているというのか?」
「結婚して一年経ってるけど……覚えてないの?」

 私の言葉に、斗真は信じられないといった顔で息を呑んでいる。

「俺と由梨さんが結婚して、一年も経っているだって……? どういうことなんだ。まったく記憶にない」

 私は眉をひそめて思わず彼のひたいに手を当てたが、平熱だった。
 そんなことをしなくても、とうに看護師が確認済みなのだが、どうにも斗真の態度がおかしくてつい体が動いてしまったのだ。

「私たちが結婚している間のことを忘れたの?」
「忘れたというか、どうして時間を飛び越えているのか不思議なんだが」

 彼の言い分に呆気にとられる。
 まるで未来へやってきた人みたいなことを言っている。そんなことがあるわけがない。

「……今日が何年の何月何日か、わかる?」

 斗真は少し考えてから、一年前の西暦を答えた。月日も少しずれている。
 ぴったり一年前ではなく少々ずれがあるところが、逆に彼が嘘や冗談を言っているのではないと思えた。それに斗真が告げた年月日は、確かに結婚式の少し前の日付だ。
 現在の住所や自宅の電話番号もたずねてみると、いずれも実家のものを答えた。私たちが結婚してからの住まいはいっさい記憶にないようだ。
 本当に彼は一年分の記憶を失っていて、私と結婚する以前のことまでしか覚えていないらしい。

「もしかして、事故のときに頭を打ったんじゃない?」

 事故の衝撃で、一時的に記憶が混乱しているのかもしれない。斗真は事故のこともほとんど覚えていないようだし、その可能性はある。

「よくわからないが、頭は痛くもなんともない。どうしてここにいるのかと思ったけど、事故を起こしたから病院に運ばれたんだな。とにかく帰るよ」

 身を起こした斗真は毛布を剥がした。
 もしも頭を打ったのなら、すぐに動いてはいけないのではないか。

「待って、急に動いたら危ないわ」

 慌てて止めたそのとき、パーティションの向こうから白衣をまとった男性医師が姿を現した。

「どうですか、華僑院さん」
「なんともありませんので帰ります」
「奥様にも検査結果をお知らせしますので、そのままベッドにいてくださいね。――奥様、こちらにどうぞ」

 医師にうながされたので、そばにあった丸椅子に腰かけた。斗真はベッドの上で呆然として「奥様……」とつぶやく。私が妻であるという事実に驚いているらしい。
 デスクについた医師は、シャウカステンにかけられてほのかに光っているレントゲンの画像を見つめて口を開いた。

「交通事故に遭われたとのことで、こちらに救急搬送されましたが、外傷はありません。CTの結果も異常ありませんね。本人の意識もしっかりしていますから、お帰りになってけっこうです。もし帰宅してから気分が悪くなったり嘔吐おうとしたりしたら、すぐに救急外来に来てください」

 事故に遭ったのにまったく怪我がなく、このまま帰っていいなんて奇跡だ。
 しかし、気になることがある。
 斗真は一時的に記憶を失っているのではないか、ということだ。
 ちらと彼に目を向けながら、私は医師に問いかけた。

「あの……夫が私のことを覚えていないようなのですが……いえ、正確には結婚した一年間のことを忘れてしまったみたいなんです」
「なるほど。一年以上前のことは覚えているんですか?」
「そうみたいです。もしかして頭を打ったんじゃないでしょうか」

 私の言葉に動揺を見せず、医師は斗真に目を向けた。

「華僑院さん。ご自分のお名前と年齢、家族構成を教えていただいてもよろしいですか?」
「華僑院斗真、二十八歳。株式会社カキョウインホールディングスに勤務していて、家族は父と母、弟は大学生。それから仁藤にとう由梨さんと婚約中で、来月に結婚式を予定しています」

 すらすらと語る斗真の情報は、やはり古いものだ。

「ほら、やっぱり。今の夫は二十九歳なんです。それに結婚したのはもう一年前です」
「この一年間で、ご主人に大きなストレスがかかるような出来事がありましたか?」

 医師の質問に、私は口をつぐんだ。
 大きなストレスは……あったのかもしれない。たとえば、家庭が離婚の危機にあるだとか。
 うつむいた私を見た斗真は、不思議そうに目をまたたかせている。

「……あったかもしれません。仕事が忙しいので……でも、忘れたきっかけは事故だと思うんですけど……」

 まさか今夜離婚する予定だったとは言えず、私は口ごもる。
 医師はパソコンのキーボードを叩きながら落ち着いた口調で述べた。

「事故のショックにより記憶が混乱しているといったことも考えられますが、わたしの専門は心臓ですので、精神科の受診をお勧めします。うちには精神科もありますから、予約を取っておきますね」

 もしかしたら、斗真は離婚について悩んでいたのだろうか。事故に遭ったのは、それも関係しているのかもしれない。
 そうだとしたら、私にも責任がある。思い返してみると、昨夜は一方的に言い過ぎたところもあった。
 結局、一年間のみの記憶が抜け落ちているだけで日常生活に支障はないということで、今日はこのまま帰宅して、のちに通院という形になった。私は医師に礼を言い、立ち上がる斗真に手を貸して処置室を出た。
 彼の腕の温かさに、なぜかほっとする。関係の冷めきった相手ではあるけれど、命にかかわるほど傷ついてほしいわけではないのだ。
 そういえば、こんなふうに斗真に触れたのは初めてかもしれない。
 だけどそんなことを知らないであろう斗真は、朗らかに微笑んでいる。

「大丈夫だよ。どこも痛くはないから。由梨さんには心配かけたね」
「ううん、いいのよ。入院や手術なんてことにならなくて、よかったわね」

 待合室に戻ると、制服の警察官が待機していた。会社に電話をくれた湾岸警察署の巡査だろう。
 事故処理を行うために一連の出来事の確認が始まった。
 斗真の運転する車が道路脇の電柱に衝突し、自損事故を起こした。事故当時は斗真の意識が朦朧もうろうとしていたため、事故の目撃者が救急車を呼んだという。
 自損事故なので物損のみで済み、こちらの怪我もなかったから処理はすぐに終わるらしい。ただ事故車両が現場に残ったままなので、保険会社か業者に連絡して早期にレッカー移動することを求められた。
 警察が用意した書類を記入していると、待合室に斗真の両親が入ってきた。
 威風堂々としていて恰幅のよい義父と、柳のように細く淑やかな雰囲気の義母の組み合わせは、いつ見ても威厳がある。

「斗真! おまえ、事故に遭ったと聞いたが、なんともないのか」

 駆け寄ってきた義父は、斗真の肩を両手で掴んだ。
 義母が義父の会社に連絡してくれたようだ。
 だが、斗真は平然とした様子でさらりと答える。

「ああ。救急車で運ばれたけど、怪我はないんだ。検査の結果も問題ない」
「なんだ、人騒がせだな。母さんの話では意識不明だと言うから、覚悟していたんだぞ」

 安心したのか、義父は非難めいた視線を義母に向ける。涙を目に浮かべた義母は、ハンカチを口元に当てた。

「だって交通事故に遭ったなんて聞いて、気が動転したのよ。まだ孫の顔も見ていないのにどうしようって。でも無事だったみたいで安心したわ」

 孫の顔――という単語に、ちくりと胸を刺される。
 義母には悪気はないのだろうけど、定期的に「孫はいつ生まれるのか」と聞かれては、胸の奥をえぐられてきた。まさか、初夜すらないので永久に生まれませんとは言えない。
 いつものように私が唇を引き結んでいると、斗真が小首を傾げる。

「孫の顔? ……ああ、そういえば俺と由梨さんはもう結婚しているんだったな。彼女から、結婚して一年が経過していると聞いたよ」

 義両親は目をまたたかせた。息子がなにを言っているのかよくわからない、といった表情をしている。私にも斗真の脳内がどうなっているのかわからない。
 斗真は私に目を向けて、言葉を継ぐ。

「ということは、俺たち夫婦にまだ子どもはいないんだな」

 私は無言で頷いた。
 初めて斗真の口から「子ども」という単語を聞いた。初夜がないので、そこからつながる子どものことなんて私たちの間で話題に上らないからだ。
 彼が一年前の世界からトリップしてきた斗真でないとしたら、記憶喪失なのは間違いないと思えた。
 義父は息子の違和感に気づいたらしく、眉をひそめる。

「おまえ、なにを言ってるんだ? なんだかいつもと違うというか、妙だな」
「あの、斗真は事故のショックで記憶が混乱しているみたいなんです。少し休養して様子を見てみます」

 私がそう言うと、はっとしたような顔をして義父は大きく頷いた。
 義母は心配そうに斗真を見て口を開く。

「そうよね。大変な目に遭ったんだから、まずは休まないといけないわ。実家に来る?」
「いや、いいよ。俺たちの住んでいる家があるはずだから、そこに戻る」

 またしても斗真の奇妙な発言に、義両親は顔を見合わせた。
 当然のことを推測する言い回しをしているので、違和感を覚えるのだ。一年間の記憶を失っている斗真としては、昨日まで住んでいたマンションも知らないという認識になっているはずだ。
 私の背に軽く手を添えた斗真は、呆然としている両親に告げた。

「それじゃあ、また。事故のことは会社でおおやけにしないでくれ。仕事についてはこちらから秘書に連絡しておく」

 そつなく事後処理について語る斗真に、義父は「ああ……わかったが……」とつぶやく。一年前も斗真は華僑院グループの会社社長だったので、仕事のことだけは以前のままの認識のようだ。
 記憶喪失というと、当人が一番混乱しているイメージがあったが、斗真にそんな様子はない。事故なんてなかったかのごとく、さわやかに微笑んでいる。

「俺たちの家に案内してくれるかな、由梨さん」
「え、ええ……そうね。マンションの場所がわからないんだものね」
「新居はマンションなんだね。どんな部屋なのか楽しみだ」

 屈託のない彼の笑顔に、不覚にもどきんと胸が高鳴る。斗真のこんな笑みを見るのは初めてではないか。
 なんだか今までの夫とは違うような感じがする――
 私はそわそわと落ち着かない気持ちになりながらも、斗真とともに救急外来の自動ドアをくぐった。


 私たちはタクシーで、湾岸沿いに建つタワーマンションの自宅に帰った。
 コンシェルジュデスクの前を通り、エレベーターホールへ向かう。斗真は物珍しげに周りに目をやりつつ、私の少し後ろをついてきた。
 ふたりでエレベーターに乗り込み、私が最上階のボタンを押す。

「最上階なんだね。眺めがよさそうだ」
「……そうね。斗真が選んだ部屋なのよ」
「へえ」

 まるで初めて自宅へ行くみたいな感想だが、それもそのはずだ。彼は一年間の結婚生活をなにひとつ覚えていないのだから。
 斗真の左手の薬指には、私のものとお揃いの結婚指輪がめられている。
 昨夜も斗真は自分の指輪を外していなかった。常につけているので、頓着していなかったのだろう。

「俺がここを選んだっていうのも納得するな。由梨さんとの新婚生活を送るなら、やっぱりセキュリティがしっかりしていて、見晴らしのいいところが一番だからね」

 そんな理由があったとは知らなかった。このマンションは華僑院グループが手がけた物件なので、彼の会社も施工にかかわっているとは義父に聞いたことがあったけれど。
 斗真は婚約当時から饒舌じょうぜつなほうではなかったので、彼の考えを初めて聞いた気がする。ふつうの夫婦は、こんなふうに会話をするものなのかもしれない。
 昨日まではなにを言っても否定していたのに……変な感じがするわ……
 エレベーターを降りた私たちは瀟洒しょうしゃな廊下を通り、自宅の扉を解錠した。
 今日は離婚するために家に帰る予定だったのに、まさかこんな状況になるなんて夢にも思わなかった。
 私は先に玄関に入り、斗真を案内する。

「廊下の向こうがリビングよ。お手洗いはそこだから」
「うん。マンションの間取りは見慣れているから問題ないよ。俺は今でも不動産部門なんだろう?」
「そうね。一年前も今も、斗真は華僑院グループの不動産会社の社長よ」

 ふたりでリビングに入ると、窓辺に近寄った斗真は陽射しをねてきらめく海を眺めた。

「そういえば、ここはうちの会社が手がけた物件なんだ。この部屋に住めたら素敵だと思ったから、俺はこの部屋を新居にしたんだと思う」
「えっ、思い出したの!?」
「いや、その辺りの記憶だけだね。最近のことはまったく覚えていない」
「そう……」

 このマンションが建設されたのは一年以上前で、私たちが結婚するより昔のことだ。
 やはり彼は一年分の記憶だけが抜け落ちているらしい。
 ソファに腰を下ろした斗真は、スマホを取り出した。

「とりあえず事故車のレッカーを頼まないとな。保険会社の連絡先は……」

 斗真は保険会社に電話をかけた。彼の車は結婚前から乗っていたものだが、全壊してしまったのであれば廃車にするしかないだろう。
 私も会社へ連絡する必要がある。そのままバッグを抱え、ダイニングキッチンへ入った。
 スマホを手にしてダイニングテーブルの自分の席に着くと、ふと昨夜のことを思い返す。
 ここで斗真に離婚を切り出した。
 今夜には離婚が成立するものと思い込んでいたけれど、それどころではなくなってしまった。なにしろ斗真は結婚したことすら覚えておらず、私たちが不仲だったのも知らないのだ。
 離婚するには、まず夫の記憶を取り戻さなければならない。今夜記入予定だった離婚届の出番は先になりそうだ。
 なんだか、ややこしい話になったわ……
 会社に電話をかけた私は、主任の湊さんに事情を話した。事故を起こしたものの自損で、たいした怪我はなかったこと。入院の必要はなく、今は自宅に戻ってきたことなどを手短に伝える。もちろん、記憶喪失の件は伏せておいた。
 余計な心配をさせてしまうし、本当に記憶喪失かどうかは精神科の診察を経ないと確定しないからだ。内心ではまだ、彼は過去からタイムスリップしてきたのかもしれないという荒唐無稽こうとうむけいな疑念がぬぐえていない。
 湊さんは、「みんな心配してたわよ」という言葉とともに、明日は有休を取ることを勧めてきた。斗真は頭を打った可能性があるので、少しの間は異常がないか様子を見たい。彼も数日は養生するため会社を休むだろうから、せめて明日だけは私も一緒にいよう。
 湊さんの申し出を快く受け、礼を述べて電話を切る。
 一息ついた私は、コーヒーでもれようと思い、席を立った。
 コーヒーメーカーをセットすると、リビングから斗真の話し声が聞こえた。

真鍋まなべか。……うん、大丈夫だ。病院から家に戻っている。……そうだな、数日は休む」

 保険会社のあとは、会社の秘書と話しているようだ。
 秘書の真鍋さんとは何度か会ったことがあるが、体躯たいくのよい男性だった。もちろん真鍋さんだけではなく、会社には補佐をする女性の秘書もいて、もしかしたら斗真はその秘書と浮気しているのかも、なんて疑心暗鬼になった時期があった。
 だけど真偽はわからないままだ。問い詰めるのもどうかと思い、はっきりと斗真に確かめていない。
 浮気相手がいるから私とセックスしないのではないか、と思うのは自然な流れだ。もしも斗真が愛人と知り合ったのが一年以上前なら、その人のことは忘れていないわけだけれど……
 斗真は記憶を失ったことなんてなかったかのように滑らかに話している。
 私はふたつのコーヒーをれると、リビングに持っていった。

「今進行している鎌倉のマンションだが……えっ、二か月前に終わった? ああ、そうか。いや、俺の思い違いだ。事故の影響かわからないが混乱した。……そうだ、頼んだぞ」

 電話を切った斗真は嘆息を漏らしつつ、スマホをテーブルに置く。
 コーヒーカップを差し出すと、すっと彼は自然に受け取った。

「ありがとう」

 さわやかな笑みを向けられ、どきん、と私の胸が音を立てる。それとともに、結婚したばかりの頃の淡い気持ちも湧き上がった。
 思い出した。あのときの私は確かに、斗真に対して好意を抱いていたのだ。
 けれど、それは一年前の結婚当初のことだ。
 そもそも、斗真とこうして物を受け渡ししたことなんてあっただろうか。
 私の心の内などまったく知らないであろう斗真は、品のある仕草でコーヒーをひとくち飲んだ。

「どうやら俺は仕事のことも含めてすべて、一年間の記憶を失っているようだ」
「そうなのね。でも、真鍋さんのことは忘れてないんでしょう? それならどうにかなるんじゃないかしら」
「真鍋とは俺が入社したときからの付き合いだからね。もとは親父の秘書だった男だ。仕事は少し休むことにしたよ。その間に記憶が戻るといいけどな」
「ええ……そうよね。だって、昨日のことも覚えていないのよね?」

 斗真は今夜、離婚についての答えを出すはずだった。だけどそれも覚えていないのなら、結論は先送りになる。
 彼がなんと言うつもりだったのか知りたかったので、私は念のため確認したのだ。
 すると不思議そうに目をまたたかせて斗真がたずねる。

「昨日? なにかあったのか?」
「えっと……ちょっとしたことで喧嘩けんかしたから……斗真がなんて言うのか気になって……」

 なにも知らない今の彼に、まさか「離婚するつもりだった」とは言えずに誤魔化す。
 神妙な顔をした斗真は、音もなくコーヒーカップをテーブルに置いた。

「だから、由梨さんは座らないでずっと立っていたのか」
「えっ?」

 なにを指摘されたのか咄嗟とっさに理解できず、私は固まった。
 斗真にコーヒーを渡してから、私はずっと自分の分のカップを手にしてソファのそばに立っていた。そうするのが私たち夫婦の距離感だったから。
 斗真の隣に座るなんていう選択肢はこれまで存在しなかった。私はダイニングテーブルに戻り、ひとりでコーヒーを飲むつもりでここに立っていたのである。
 だけど結婚生活のすべてを忘れている斗真は、昨日私たちが喧嘩けんかをしたから離れていると解釈したらしい。
 彼に言われて、これまでの私たち夫婦がいかに心も物理的な距離も離れていたのかを自覚した。
 ソファから立ち上がった夫は、私の背にそっと触れてソファに座るよううながす。
 一緒に座りたくない、なんて拒否することもないので、彼とともにソファに腰を下ろした。

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