恋は薔薇の香りに溶かして

沖田弥子

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文鎮

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 その呼び名は恥ずかしいのでやめてほしいのだけれど、自分が名乗らないせいなのだから仕方ない。
 歩夢は埃の被った花瓶を手にした。久遠は先立って扉を開き、歩夢を隣の小部屋へ案内してくれた。
 そこは洗濯機や掃除用具の入った収納棚などが置かれている部屋で、小さなシンクが備え付けてある。専用の水場があるのは、ありがたい。
 まずは花瓶を水洗いして綺麗にする。花の鮮度を保つためには、花瓶に付着した汚れを取り去るのは必須の作業だ。次に花束のラフィアをほどいてステムティッシュをはがし、ラッピングを解いていく。薔薇を花瓶に活けて形を整えれば、辺りに薔薇の芳香が漂う。
 久遠は背後の扉に凭れて、ずっと歩夢の作業する音を聞き取っていた。

「薔薇を飾るのは、ピアノのある部屋でよろしいですか?」
「ああ。そこでいい」

 花瓶を抱えた歩夢は部屋に戻り、元の飾り台に花瓶を置く。布巾で台を拭き、埃や萎れた花弁を取り去って綺麗にした。
 部屋中に薔薇の香気が溢れる。

「ああ……いいね。私の好きな薔薇の香りだ。ピアノを弾いているときにこの香りがすると、とても落ち着ける」

 久遠は恍惚として、芳しい香りを堪能していた。ピアノが趣味らしい久遠が演奏するときに、薔薇の香りが心を和ませてくれるのだろう。

「喜んでいただけて、良かったです」
「しかし時間が経てば枯れてしまう。薔薇のきみに頼みがあるのだが、週に一度、ここを訪れて新しい薔薇を活けてはくれないだろうか。薔薇の品種や量などは任せる」

 定期的に注文を申し込むということだ。花瓶に活けるところまでは普段は行っていないサービスだが、久遠の環境を考えればこのくらいは手を貸してあげたい。

「わかりました、神嶋様。御注文ありがとうございます」
「私のことは、久遠と呼んでくれ。神嶋という音の響きが好きではないので、皆に名前で呼んでもらっている」
「はい、久遠さん」

 つい先程ハウスキーパーの盗難に遭遇したばかりの久遠だが、歩夢のことは信用してくれたらしい。
 ふと、胸ポケットに入れたままの文鎮の存在が急に重みを増す。
 玄関でのできごとを正直に久遠に話すべきだとは思うが、あの女性にも家族がいて、子どももいるかもしれない。母親が仕事先で盗みを働いたと知ったときの子どもの衝撃はいかほどであるか、考えただけで胸が痛む。歩夢の脳裏に無垢な悠の顔が浮かんだ。
 それに、彼女が確かに文鎮を盗んだという証拠はないのだ。間違ってポケットに入ったものが、偶然落ちたのかもしれない。
 歩夢は胸ポケットに手を差し入れ、そっと文鎮を取り出した。久遠はこちらに顔をむけているけれど、義眼らしき青い双眸には何も映っていない。
 花瓶の傍に寄り添わせるように、鶯の形をした文鎮をそっと置く。意外に重く、ことりと小さな音を立てた。
 久遠は少々顎を引いたが、何も言わなかった。
 彼を騙すようで、罪悪感に捕らわれる。うろうろと視線を彷徨わせる歩夢に、久遠は掌を差し出した。
 気づかれた……?
 どきりと心臓が跳ねる。

「サインを、しなくてもいいのかな? 私はまだ代金を支払っていないが」
「あ……そ、そうでした。お願いします」

 慌ててポケットから領収書と万年筆を取り出す。久遠は澱みのない所作で財布から代金を支払い、歩夢の差し出した万年筆を手にした。

「サインするところは、ここです」
 
 お客様からサインしてもらう欄へ、万年筆を握った久遠の手に触れて誘導する。
指が長く、男らしく骨張っていて、とても美しい手だ。歩夢は好ましく思った。
 久遠さんがピアノを弾いたら、素敵なんだろうな……。
 久遠は流麗な文字を綴ると、万年筆を指先でなぞる。くるりと持ち替え、柄のほうを歩夢に差し出してくれた。
 万年筆を受け渡しするときに、また少しだけ久遠の手が触れる。熱い体温に、なぜか歩夢の鼓動はとくりと甘く昂ぶる。
 鼓動が跳ねるのはきっと、文鎮のことがあるからだ。
 歩夢はちらりと花瓶の傍に止まっている銀色の鶯に目をむけると、久遠に頭を下げた。

「それでは、失礼します」
「また、来週」

 歩夢は静かに扉を閉めると、早足で退出した。
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