恋は薔薇の香りに溶かして

沖田弥子

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盲目の魔術師 1

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 その日は夕暮れになっても、歩夢はぼうっとしていた。
 達筆な久遠のサインを見返しては、書かれた文字を指先でなぞる。

「あゆたん、ただいまー!」

 店内に闊達な声が響き渡る。保育園から悠が帰宅したのだ。
 その声に我に返った歩夢は、ようやく領収書を手放した。 

「おかえりなさい、悠」

 甥の悠は突進する勢いで、カウンターにいた歩夢に抱きついてきた。父親である一樹より、どちらかといえば歩夢のほうに懐いている。

「あゆたん、おしごと、どうだった?」

 舌足らずなので、歩夢お兄ちゃんと言えずに『あゆたん』と省略されている。こうして一日のできごとを報告し合うのが悠との日課だ。

「今日はね、お客さんのところに薔薇を届けに行ったよ」
「ばらー、これね」

 悠は小さな指で、フラワーショーケース内の薔薇を指し示す。 
 久遠の部屋にも、同じ薔薇が咲いているのだ。今日の久遠との出会いは特別なものであると、歩夢の心に刻まれていた。
 エプロンを装着した一樹が店に顔を出す。今日は交代で店番をしていたので、久遠から定期注文をいただいたことはまだ話していない。

「兄さん、定期の注文取れたよ。今日の午前中に薔薇を買ってくれた神嶋久遠さん。週一で薔薇の花束を届けてほしいんだって」

 華奢で中性的な容貌の歩夢と違い、兄の一樹は大柄で男らしい顔立ちをしている。一樹は思い出したように手を打った。

「そう、おまえ、神嶋久遠といえば『盲目の魔術師』だろ⁉」
「えっ? なにそれ」
「有名なピアニストだよ。よくテレビでやってるだろ。歩夢はピアノ習ってたのに知らなかったのか?」
「え……」

 そういえば、盲目のピアニストが国際コンクールで優勝したと大きくメディアに取り上げられた時期があった。まさかその人が、久遠だというのか。
 一樹はスマホを操作すると、表示された画像を示した。
 そこにはピアノを弾いているタキシード姿の久遠が映っていた。どうやらCDパッケージの画像のようだ。

「ほら、この人じゃないか?」
「そうだよ……。久遠さんだ。部屋にグランドピアノが置いてあったけど、まさか、プロのピアニストだったなんて……」

 久遠はCDを発売するほど有名なピアニストだったようだ。歩夢はピアノを習い事にしていた時期があったのだが、レッスンをやめてからはピアノから遠ざかっていたので、久遠のことも知らなかった。
 一樹は領収書や作成した見積書を見て小躍りする。

「神嶋久遠が顧客になってくれるなんてラッキーだぞ。ピアニストなら公演でスタンドの注文も入るかもしれないし、上得意様だ」

 久遠のおかげで店の売上が良くなることに、一樹は喜んでいる。歩夢は微苦笑を零した。

「あまり期待しないでよ。注文はなかったことになるかもしれないから」

 文鎮の一件がある。久遠は家を出入りする者に不信感を抱いているはずだ。歩夢の挙動にも注意を払っていた気がする。それなのに歩夢は黙って文鎮を花瓶の傍に置いてきた。
 久遠は物を同じ場所にしか置かないと言っていたので、うっかり自分が置き忘れたなどと思わないだろう。
 俺は、久遠さんを騙した……。
 文鎮に気づいた久遠は怒って、注文を取り消すかもしれない。そのときは正直に謝ろう。

「なかったことに? 今日入ったばかりの注文だろ。どうしてだ」
「それは……」

 口ごもる歩夢の足許に、悠が絡みついてくる。

「あゆたん、アイスたべゆ」
「おい、悠。アイスは夕ごはんのあとだ。パパと約束しただろ」
「やーだよー。ぼく、あゆたんにおねがいしてゆの。パパにいってないの」
「このクソガキ!」

 きゃあきゃあと楽しげな声を上げながら、悠は捕まえようとする一樹から走り回って逃げている。日常茶飯事の賑やかさに、歩夢は暗い気持ちを振り切った。



『盲目の魔術師』とは、神嶋久遠に付けられた敬称らしい。
 音楽家の両親を持つ久遠は三歳からピアノを始め、十代で視力を失った。二三歳のときに国際コンクールで優勝。盲目であることが注目されて一躍脚光を浴び、数々のソロリサイタルや交響楽団との共演を成功させる。作曲活動も精力的に行い、代表曲の『魔術師』はコマーシャルに起用されている。
 歩夢はネットに掲載されていた久遠のプロフィールを一読して、瞬きを繰り返した。
 こんなに有名な人だったんだ……。
 大手企業のコマーシャルソングはテレビで幾度も流されているので、歩夢も知っている。鮮烈で力強いフレーズは耳奥に残るものだ。『魔術師』という曲名と併せて、『盲目の魔術師』と呼ばれる由縁になったのだろう。
 歩夢はスマホから顔を上げ、ちらりと店の時計を見た。
 久遠が佐藤花店を訪れてから、一週間が経過した。今日は再び久遠に薔薇を届ける指定の日にあたる。 
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