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世界の異変
3. 世界に潜る
しおりを挟む自分の分身であるアバターのキャラについて要望を伝えた後、高村は準備のため一旦席を外した。
一時間ほどで戻るというので、その間に通販でのんびり生活雑貨を注文し、お湯を沸かしてドリップ式のコーヒーを淹れた。挽いた豆が一杯分ごとにパック包装になっているものだ。
肺いっぱいに香りを吸い込んだ後、スティックシュガーの中身を半分ほど入れ、スプーンでかき混ぜる。甘党ではないけれど、苦いのは好きではなかった。
コーヒーの香り自体は好きなので、少し苦みを抑えれば美味しく飲めるようになる。フゥとカップに息を吹きかけながら、ぼんやりと部屋を見渡した。
普通の住宅地にある十五階建ての賃貸マンション。六階の南向きにある部屋は、そこそこ広さのある1LDKだ。
自炊が苦手なので、ほとんど使われていないカウンターキッチンは綺麗なまま。掃除だけはあまり苦ではないから、フローリングのどこを見ても埃ひとつないのだけが取り柄だ。
キッチンからはゲーミングチェアとサイドデスク、ベランダに続く広い窓が見える。すぐ前に公園と広い川があって、高い建物がなく、遥か遠くまでよく見える。
このキッチンからも、うっすらと地面から突き出たビル群が、オモチャのように霞んで見えた。
コーヒーを飲み終えてシンクに片付けた後、ずっと座りっぱなしだった身体をほぐすために簡単なストレッチを始め、一時間を少し過ぎたあたりでコール音が鳴った。
《お待たせ、社用のアカウントをひとつ手配できたよ。調査用のアバターも作ったから、要望通りになっているか確認してもらえるかな》
高村の姿の下に画像が表示された。
くせのない白い髪と琥珀色の瞳。頭部から伸びた長い耳。細身で俊敏そうな、兎族の少年だ。
僕が個人的に最も使いやすいと感じた種族。意外と運動能力が高く、鍛えれば魔法も使えるようになって、一番バランスが良かった。
ちなみに大型種と小型種も選択できる。
大型種はややパワー型で、男の成体はおよそ百七十センチ程度。
小型種はスピード型で、およそ百六十センチ程度。実年齢より少し幼く見える。
今回は小型種にした。一見すれば十五~六歳だが、実年齢の設定は二十歳。こちらで指定しなければ、自動的にこの年齢になる。
「レベルは九十九が上限のままですか?」
《上限を解放するアップデートの前に、異常が見つかっちゃったからね》
スクロールしながらひとつひとつ確認すれば、少年のレベルは九十九、ステータスも兎族として上げられる最大値にしてくれていた。
特に魔力とスピードに多く数値を割り振ってもらっている。
スキルも希望通り。
魔法も地、水、火、風の四属性があり、兎族としては最高の中魔法まで憶えている。
四つもの属性に適性を持つ種族は少ない。兎族は高位魔法を習得できないのがデメリットで、後半は火力が足りないと言われがちだったけれど、全体のバランスの良さはそれを補って余りあると僕は思っていた。
《どのみち今はレベルの概念がなくなってるから、上限解放していても意味はないんだけど》
「どういうことです?」
《レベルアップの仕組み自体が消えてるんだ。体力値も魔力値も見られなくなる》
つまりそれ以上のレベルに上げられるようになっていたとしても、新たな経験値が入ることはなく、体力・魔力の残量もわからないってことか。結構ハードモードなゲームになりそうだな。
《そんな感じのキャラでよさそう?》
「はい、これで問題ないです」
《名前はどうする? 自由につけられるけど》
「そうなんですね。……カタカナ表記の『レン』でお願いします」
《了解。……レン、と》
本来なら世界観に合った名前がランダムで表示され、気に入ったものを登録するようになっていた。キャラに実名をつける者が増えたから、その対策だそうだ。
レンは本名の『蓮』の読みだが、キャラ名としてはありふれているし、僕以外でダイブする者はいないから問題ないだろう。
《ちなみに今、仮想空間内の時間は停まっている。どういうわけか、誰かがダイブした瞬間から時間が進み出すんだよ》
オンラインRPGは通常、プレイヤーが入っていない時も時間が流れ続ける仕組みだが、それが勝手に停止してしまったそうだ。
《向坂くんには時間加速でダイブしてもらうことになる。加速率は十倍。現実世界の一時間で、ゲーム内では十時間行動できる。その間は外から中の様子が見られず、通信もできない》
「時間加速なんて、できるようになってたんですね」
《結構前からね。実装許可が下りないだけで》
「……脳の負荷ですか?」
ピンときて尋ねると、高村はうん、と軽く答えた。
《休めば全然何ともないけど、休まずに遊ぼうとするゲーマーがいるだろ? そこらへんが解決すれば、いつか実装できるようになるんじゃないかな》
「そうですね。……そこが問題というのなら、道は遠そうな気もします」
《だね》
高村はあまり感情のこもらない笑顔で肩をすくめた。
僕も感情豊かとは言えないし、はっきり言って根暗なほうだが、なんとなく「解決しなくてもどうでもいいけど」と続けそうな相手の雰囲気は少し引っかかる。
さっきの通信でいきなりバカにされたと感じて、苦手意識から悪い方向へ受け取ってしまうのだろうか。
《まずはゲーム内で十時間経過したら中断、現実で一時間休んで再開、これを何度か続けてもらう。じゃあ早速だけど、ダイブしてみてくれる?》
「ほかに注意点はありませんか?」
《ほかに……あ、そうそう。蘇生用の魔法とアイテムが消えてて、もしキャラが死ぬと生き返る方法がないんだ》
あ、そうそう、じゃないだろ!
いよいよ怒鳴りたくなってきたが、グッと我慢した。
《しかも何故かアカウントまで消えて、別のにも登録し直せなくなる。その人は完全に続行不可になるんだ》
それは……キャラではなく、中のプレイヤーが死んでしまったと、その世界に見做されたということじゃないのか。
どうせ真面目に聞かないだろうから言わないが、だんだん不気味になってきた。
《向坂くんはそうならないよう、くれぐれも気を付けてくれよ。社用アカウントも数に限りがあるし、また別の人に一から説明するの面倒だからさ》
面倒。これが高村の一番の本音だろう。
この依頼を受けてよかったんだろうかと不安になってきたけれど、もう断れる段階ではない。高村の後出しジャンケン話法、もしわざとだったら大したものだ。
それ以降も気になることをいくつか訊いて、高村が苛立ち始めるより先に僕の疑問が尽きた。あとは報告の都度、気になったことを尋ねるしかない。
サイドデスクに携帯を置いて、ゲーミングチェアに身を委ね、VRゴーグルを装着する。
ログインの可否を問う見慣れた画面が表示され、僕は選択した。
Yes、と。
違和感もなく脳波による認証が完了し、僕の精神は仮想空間の世界に誘われる。
エレベーターに乗った時の浮遊感を覚えた直後、とてつもなく眩しい光に包まれた。
光がやわらいで、僕は自分の瞼が閉じていたことを知る。目の前の血管が赤く透け、徐々に感覚が鮮明になり、指先がぴくりと動いた。
僕は立っている。靴を履いて。
それから――……
「――っ!?」
ひとつ呼吸をした瞬間、ガッと目を見開いた。
土のにおい。踏みしめた草のにおい。
樹の幹のにおい。枝葉のにおい。揺れる野花のにおい。
何だこれは。
何だこれは?
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こんな、五感に迫ってくるような、全身で周りの世界を感じ取る、本当の意味での嗅覚なんてなかったんだ。
それなのに。
「なんだよ……これ……」
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前回プレイした時もこうやって天を見上げ、「まあまあかな」と呟いた。
あの時はこんなにも、純度の濃い色をしていただろうか。
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