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第三章 孤独な女の未来
30.渇望したもの
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大陸のナリア山脈を背に、ヴェルス平原に向けて再び走り出した馬車は、爽やかな風の中順調に大陸内部に向かっていた。珍しく草地が長く続き、ステラは顔を輝かせて御者席のイールに話しかけた。
「ここは神力の結晶がなくても植物が多いのね」
故郷に近いその土地は、イールにも馴染みの場所だった。
「ここにはネーと呼ばれる草食動物の群れが多かった。食料不足で周辺の集落の人々が根こそぎ狩って食べてしまった。ネーが絶滅してから少しずつ植物が増えてきた気がする」
土は固く、生えているのは逞しい雑草だ。
農地にするには少し土が乾き過ぎている。
「ねぇ、ちょっとまって!」
ステラの声でイールは馬車を止め、ゆっくり草地に乗り入れた。
馬が足を止めると、ステラは荷台から滑り降り、地面を歩き回る。
「どうした?」
馬車止めを置き、イールはステラに近づいた。
ステラは短剣の刃で固い地面を掘っていた。
「この草、持って帰れないかと思って。ほら、案内所の周りは崖に囲まれた固い土ばかりでしょう?あとは砂地。この乾いて固い土地に生える草ならあの土地にも生えるかもしれない」
ステラの言葉に、イールもそこにしゃがみ、根を傷つけないように気を付けて草を抜き取った。
根を土に包み皮の袋に入れる。
何種類か選び、ステラはそれを馬車に積み込んだ。
「雑草ならきっと丈夫よね」
前向きなステラの言葉に、イールは一瞬ステラを城に連れていくと言っていたエルダムのことを考えたが、そのことには触れず、「そうだな」と頷いた。
その日は平原の町、タナトスに宿をとろうと思っていたが、少し寄り道をして遅くなった。
町の灯はまだ遠く、イールが馬車を路肩に寄せた。
「ステラ、野宿をした方がいいかもしれない」
ステラも旅慣れている。すぐに場所を探そうと同意した。
地図を見ると、道が二手に分かれている。
町に向かわないのであれば、少し細い道に入って闇に紛れた方がいいかもしれないと二人は話し合った。
まだ日が残るうちに草地の奥に野営地を決め、二人は手際よく火を焚き、食事の準備をした。
火が落ちる前に焚火の始末を終わらせ、二人は荷台に戻った。
ステラが寝袋に入るのを見届けて、イールは剣を抱いて荷台の後ろに座る。
静けさが訪れ、馬車は平原の闇に包まれた。
その時、かすかな音が聞こえてきた。
それは少し調子のおかしい馬車の車輪の音だった。
ステラは飛び起き、声も出さずにイールの後ろに近づいた。
近づいてくる馬車の音はやはり少しおかしい。
馬蹄の音が恐ろしく速く、馬車を引く速さではない。
誰かから逃げているのかもしれない。
ステラがイールに合図をするより速く、イールが武器を携え外に飛び降りる。
すっかり日は落ち、暗闇の中を猛スピードでランタンを吊り下げた馬車が近づいてくる。
と、吊り下げられた灯りを大きく揺らし、猛スピードで走っていた馬車が止まった。
馬車から誰かが下りてきて、ランタンをかかげている。
車輪を確認し、うろうろし始めたのはほっそりとした女性の姿だった。
女一人で暗闇の中をうろつくなど危険極まりない。
用心深く息をひそめるイールの傍らをステラが駆け抜けた。
いつの間にか手にランタンを掲げている。
慌ててイールも追いかける。
闇に沈む平原から近づいてくる明かりを見つけ、車輪を覗き込んでいた女性が、逃げるように走り出す。
ステラがすかさず叫んだ。
「私はステラ、旅の者です。どうされました?」
馬車に逃げようとしていた女性は、聞こえた声が女のものであったことにほっとして足を止めた。
「車輪が壊れて……具合の悪いお嬢様が……乗っていて、その、どうしたらいいか。私はただの使用人で……」
「どちらに?」
走り出した召使の後ろを、ステラが追いかけた。
馬車の荷台に一人の女性が横たわっていた。
大きなお腹を抱え、苦悶の表情で脂汗を浮かべている。
車輪の交換をする準備は無いし、修理にどれだけかかるかわからない。
すぐにステラは後ろに向かって叫んだ。
「イール!」
暗がりからイールが現れる。
召使の女が悲鳴をあげて荷台に逃げた。
「私の奴隷なの。大丈夫」
ステラは早口で説明し、すぐにイールに頼んだ。
「イール!タナトスの町に馬で向かって、治癒師を連れてきて!」
イールはすぐに身を翻し、暗闇に消えていく。
それを見送り、ステラが女性の体に触れる。
「温かくしましょう。清潔な布か、あるいは毛布がある?」
召使の女は青くなり、震えていたが、ステラの言葉に従い装飾を施した立派な木箱を開けて、豪華なドレスや布地を引っ張り出した。
馬を走らせ、大急ぎでタナトスの町に飛んだイールは、門番に事情を話し、大急ぎで新しい馬を借り受け治癒師を連れて戻ってきた。
馬車に近づくと、聞きなれない小さな泣き声が聞こえてきた。
大急ぎで馬車の後ろを覗き込み、イールは茫然と立ち尽くした。
そこには、子供を抱くステラの姿があった。
幸福な微笑みを浮かべ、その腕に生まれたばかりの命を抱いている。
夢にまで見たその光景に、イールは言葉を失い、目を見開いた。
しかしステラは、イールに気づくとすぐに厳しい表情になった。
「イール!早く!」
ステラの鋭い声にイールは我に返り、急いで治癒師を馬車に押し上げた。
子供を産んだばかりの女は下半身を赤く染め、紙のような白い顔をして横たわっている。
「出血が止まらないの。早く!」
老いた治癒師がよろよろと進み出て女の傍らに座り、魔力で体の不調を探る。
ステラは出産を終えたばかりの母親の隣に座り、その手を握りしめた。
「大丈夫よ。赤ちゃんも無事だった。あなたもきっと助かる」
召使は子供を産んだ女よりもさらに若く、この状況にすっかり怯え切っている。
母親が身も知らぬ自分を励ますステラを見上げてかすかに口を動かした。
「あ……赤ちゃん……ありがと……」
ステラは顔を近づけて母親の声を聞き取ると、首を横に振る。
「気にしないで。赤ちゃんは元気よ。あなたもきっと助かる」
生きる気力を失いそうな母親に、ステラは力強く語り掛ける。
若い母親は涙を浮かべ首を横に振った。
「もし……もしも……私が死んだら……その子を、あげる……」
ステラがはっとしたように顔を強張らせた。
今にも消えそうなか細い声だったのにその言葉は、その場にいる全員の耳に確かに聞こえた。
「夫のもとに帰るところだった……私が死んで……その子だけ残されても、迷惑になる……。見も知らぬ私に親切にしてくれるあなたなら……その子をどうか……育てて……」
あまりにも思いがけない母親の言葉に、馬車の中はさらに静まり返る。
馬車の後ろに控えていたイールは息が詰まりそうだった。
イールはどれほどステラが子供を欲しがっているか知っている。
今すぐにでも目の前の母親の息の根を止めてしまいたい衝動に駆られ、全身が震え出した。
この女の言葉は召使も治癒師も聞いている。これは遺言だ。
この女が死ねば、ステラは子供が持てる。
生まれたばかりで母親の愛を知らない。
ステラが愛を存分に注げる子供になる。
そうなれば、ステラがエルダムに子種をもらう必要もなくなる。
ステラが他の男に抱かれている声や物音を聞くこともなくなる。
かわりにステラの楽しそうな笑い声や赤ん坊の無垢な声が小屋に溢れ、イールは父親のように傍に寄り添い、ステラと子供を守ってやれる。
これ以上の結末があるだろうか。
この女さえ死ねば。
イールが伏せていた目をあげて、治癒師を見る。
治癒師を追い返すことができれば、あるいは治癒を諦めてもらえれば、この母親はこのまま死ぬのではないだろうか。
そんな悪魔のような考えがイールの頭を埋め尽くす。
その時、ステラの強い声が馬車の中で響いた。
「駄目よ!あなたが産んだのよ。命がけで産んだのよ。ちゃんと育てるの。愛して、たくさん愛して、旦那さんと育てるのよ。生きるの!頑張って!」
ステラは母親の手を握りしめ、赤ん坊を近づけた。
「ほら、見て。この子にはあなたが必要なのよ」
若い母親が泣きながら、生まれたばかりの子供に目を向ける。
その弱々しい手がゆっくり持ち上がった。
ステラは片腕を枕のようにして赤ん坊を母親の隣に寝かせ、もう一方の手で母親の手を取り、子供の頬にそっと触れさせた。
「あ……ああ……私の……赤ちゃん……」
母親が感動したように囁いた。
「そうよ。だから、諦めないで。魔力は意思に宿ると聞く。だから、強く念じればその力は増すのよ」
「その通りです。血が止まりますよ。大丈夫」
ステラの言葉の通りだと、治癒師も強く頷いて見せた。
治癒師の両手からは小さなやわらかな光が放たれ、ふわりと母親の下半身を包んでいる。
もしここに神力の結晶があれば、あっという間に治せたかもしれない。
しかし、誰もそれを口にしなかった。
夜を徹して治療は続き、二日がかりでやっと若い母親は命をとりとめた。
その間、食料や水を運び、体を拭いたり日陰を作ったりと、ステラとイールは若い母親の世話を続け、召使も落ち着きを取り戻し子供の世話をした。
タナトスの町の門番に護衛をお願いできないかと頼むと、町の警備兵と共に里帰り中の妻を迎えに行こうとしていた夫がかけつけた。
三日目にはステラとイールは必要なくなった。
そろそろ自分たちの旅に戻ろうとステラがイールに声をかけると、若い母親が急いでステラを呼び止めた。
「待って!待ってください!ステラさん、本当にありがとうございました。あなたは私たちの命の恩人です。どうか、どうか、この子に名前を付けてくれませんか?」
生まれた子供は男の子だった。
もし自分に息子が出来たらつけようと思っていた名前を、ステラはその子のために差し出した。
「リオン……どうかしら?」
若い母親は喜んだ。
「ありがとうございます。リオンが大きくなったら、あなたのことを必ず話します」
ステラは微笑み、イールと共に馬車に戻った。
馬車が走り出すと、ステラはイールの隣に座り、若い母親たちの横を通り過ぎながら手を振った。
それから後ろに引っ込み、夜まで出て来なかった。
それから二日間、静かな旅が続いた。どちらも口数は少なく、必要最低限の会話しかしなかった。
マウリの町が近づいてきたその日、ステラは寄り道がしたいと言い出した。
「エルダムと結婚の宣誓をした遺跡の祭壇に寄れないかな?」
イールはすぐに地図で道を確認した。そこはイールとシリラが結婚した場所でもある。
すぐそばにステラを閉じ込めた滝の洞窟もある。
イールは、エルダムとステラの結婚の宣誓を奴隷として見守った時のことを思い出した。
自分のものになるはずだった愛を他の人に奪われる。その痛みは想像以上に辛いものだ。
ステラもイールとシリラが祭壇で結婚の宣誓をする様子を滝の裏から見て、同じ痛みを感じたに違いない。
四日間孤独に耐え、愛する男を待っていたステラは、他の女と結婚するイールを目撃したのだ。
イールの心の痛みは自業自得だが、ステラには何の罪もなかった。
愛を知らない孤独な少女を、自分勝手に傷つけたのだ。
その罪の意識から逃れることのできないイールは、無意識に俯き顔を隠した。
ステラは地図上の滝を指さした。
「滝の上に行ってみたいから、馬車をどこかに隠せない?」
これはステラの復讐だろうかと、イールはちらりと考えた。
罪悪感を抱えるイールをわざと罪を犯した場所に連れていき、苦しめようとしているのかもしれない。
ステラはそんな女性ではないと思いながらも、やはりイールにはその気持ちが捨てきれない。
愛に飢えた孤独なステラの心を利用したせいで、ステラはいまだに真の愛も知らず、孤独なままだ。
ステラがイールへの恨みを捨てきれていないとしても不思議ではない。
ステラは暗い思考に囚われていくイールの様子に気づかず、地図上の道を指でなぞった。
「こことか」
滝の根元に細い道が書きこまれている。
それはイールが探索してきた情報をもとにステラが付け加えたものだった。
馬車を入れるのは難しいが、人目につかず、馬や荷物を隠しておくにはぴったりの場所だ。
「そうだな」
イールは罪悪感を抑え込み、目的地をそこに決めた。
「ここは神力の結晶がなくても植物が多いのね」
故郷に近いその土地は、イールにも馴染みの場所だった。
「ここにはネーと呼ばれる草食動物の群れが多かった。食料不足で周辺の集落の人々が根こそぎ狩って食べてしまった。ネーが絶滅してから少しずつ植物が増えてきた気がする」
土は固く、生えているのは逞しい雑草だ。
農地にするには少し土が乾き過ぎている。
「ねぇ、ちょっとまって!」
ステラの声でイールは馬車を止め、ゆっくり草地に乗り入れた。
馬が足を止めると、ステラは荷台から滑り降り、地面を歩き回る。
「どうした?」
馬車止めを置き、イールはステラに近づいた。
ステラは短剣の刃で固い地面を掘っていた。
「この草、持って帰れないかと思って。ほら、案内所の周りは崖に囲まれた固い土ばかりでしょう?あとは砂地。この乾いて固い土地に生える草ならあの土地にも生えるかもしれない」
ステラの言葉に、イールもそこにしゃがみ、根を傷つけないように気を付けて草を抜き取った。
根を土に包み皮の袋に入れる。
何種類か選び、ステラはそれを馬車に積み込んだ。
「雑草ならきっと丈夫よね」
前向きなステラの言葉に、イールは一瞬ステラを城に連れていくと言っていたエルダムのことを考えたが、そのことには触れず、「そうだな」と頷いた。
その日は平原の町、タナトスに宿をとろうと思っていたが、少し寄り道をして遅くなった。
町の灯はまだ遠く、イールが馬車を路肩に寄せた。
「ステラ、野宿をした方がいいかもしれない」
ステラも旅慣れている。すぐに場所を探そうと同意した。
地図を見ると、道が二手に分かれている。
町に向かわないのであれば、少し細い道に入って闇に紛れた方がいいかもしれないと二人は話し合った。
まだ日が残るうちに草地の奥に野営地を決め、二人は手際よく火を焚き、食事の準備をした。
火が落ちる前に焚火の始末を終わらせ、二人は荷台に戻った。
ステラが寝袋に入るのを見届けて、イールは剣を抱いて荷台の後ろに座る。
静けさが訪れ、馬車は平原の闇に包まれた。
その時、かすかな音が聞こえてきた。
それは少し調子のおかしい馬車の車輪の音だった。
ステラは飛び起き、声も出さずにイールの後ろに近づいた。
近づいてくる馬車の音はやはり少しおかしい。
馬蹄の音が恐ろしく速く、馬車を引く速さではない。
誰かから逃げているのかもしれない。
ステラがイールに合図をするより速く、イールが武器を携え外に飛び降りる。
すっかり日は落ち、暗闇の中を猛スピードでランタンを吊り下げた馬車が近づいてくる。
と、吊り下げられた灯りを大きく揺らし、猛スピードで走っていた馬車が止まった。
馬車から誰かが下りてきて、ランタンをかかげている。
車輪を確認し、うろうろし始めたのはほっそりとした女性の姿だった。
女一人で暗闇の中をうろつくなど危険極まりない。
用心深く息をひそめるイールの傍らをステラが駆け抜けた。
いつの間にか手にランタンを掲げている。
慌ててイールも追いかける。
闇に沈む平原から近づいてくる明かりを見つけ、車輪を覗き込んでいた女性が、逃げるように走り出す。
ステラがすかさず叫んだ。
「私はステラ、旅の者です。どうされました?」
馬車に逃げようとしていた女性は、聞こえた声が女のものであったことにほっとして足を止めた。
「車輪が壊れて……具合の悪いお嬢様が……乗っていて、その、どうしたらいいか。私はただの使用人で……」
「どちらに?」
走り出した召使の後ろを、ステラが追いかけた。
馬車の荷台に一人の女性が横たわっていた。
大きなお腹を抱え、苦悶の表情で脂汗を浮かべている。
車輪の交換をする準備は無いし、修理にどれだけかかるかわからない。
すぐにステラは後ろに向かって叫んだ。
「イール!」
暗がりからイールが現れる。
召使の女が悲鳴をあげて荷台に逃げた。
「私の奴隷なの。大丈夫」
ステラは早口で説明し、すぐにイールに頼んだ。
「イール!タナトスの町に馬で向かって、治癒師を連れてきて!」
イールはすぐに身を翻し、暗闇に消えていく。
それを見送り、ステラが女性の体に触れる。
「温かくしましょう。清潔な布か、あるいは毛布がある?」
召使の女は青くなり、震えていたが、ステラの言葉に従い装飾を施した立派な木箱を開けて、豪華なドレスや布地を引っ張り出した。
馬を走らせ、大急ぎでタナトスの町に飛んだイールは、門番に事情を話し、大急ぎで新しい馬を借り受け治癒師を連れて戻ってきた。
馬車に近づくと、聞きなれない小さな泣き声が聞こえてきた。
大急ぎで馬車の後ろを覗き込み、イールは茫然と立ち尽くした。
そこには、子供を抱くステラの姿があった。
幸福な微笑みを浮かべ、その腕に生まれたばかりの命を抱いている。
夢にまで見たその光景に、イールは言葉を失い、目を見開いた。
しかしステラは、イールに気づくとすぐに厳しい表情になった。
「イール!早く!」
ステラの鋭い声にイールは我に返り、急いで治癒師を馬車に押し上げた。
子供を産んだばかりの女は下半身を赤く染め、紙のような白い顔をして横たわっている。
「出血が止まらないの。早く!」
老いた治癒師がよろよろと進み出て女の傍らに座り、魔力で体の不調を探る。
ステラは出産を終えたばかりの母親の隣に座り、その手を握りしめた。
「大丈夫よ。赤ちゃんも無事だった。あなたもきっと助かる」
召使は子供を産んだ女よりもさらに若く、この状況にすっかり怯え切っている。
母親が身も知らぬ自分を励ますステラを見上げてかすかに口を動かした。
「あ……赤ちゃん……ありがと……」
ステラは顔を近づけて母親の声を聞き取ると、首を横に振る。
「気にしないで。赤ちゃんは元気よ。あなたもきっと助かる」
生きる気力を失いそうな母親に、ステラは力強く語り掛ける。
若い母親は涙を浮かべ首を横に振った。
「もし……もしも……私が死んだら……その子を、あげる……」
ステラがはっとしたように顔を強張らせた。
今にも消えそうなか細い声だったのにその言葉は、その場にいる全員の耳に確かに聞こえた。
「夫のもとに帰るところだった……私が死んで……その子だけ残されても、迷惑になる……。見も知らぬ私に親切にしてくれるあなたなら……その子をどうか……育てて……」
あまりにも思いがけない母親の言葉に、馬車の中はさらに静まり返る。
馬車の後ろに控えていたイールは息が詰まりそうだった。
イールはどれほどステラが子供を欲しがっているか知っている。
今すぐにでも目の前の母親の息の根を止めてしまいたい衝動に駆られ、全身が震え出した。
この女の言葉は召使も治癒師も聞いている。これは遺言だ。
この女が死ねば、ステラは子供が持てる。
生まれたばかりで母親の愛を知らない。
ステラが愛を存分に注げる子供になる。
そうなれば、ステラがエルダムに子種をもらう必要もなくなる。
ステラが他の男に抱かれている声や物音を聞くこともなくなる。
かわりにステラの楽しそうな笑い声や赤ん坊の無垢な声が小屋に溢れ、イールは父親のように傍に寄り添い、ステラと子供を守ってやれる。
これ以上の結末があるだろうか。
この女さえ死ねば。
イールが伏せていた目をあげて、治癒師を見る。
治癒師を追い返すことができれば、あるいは治癒を諦めてもらえれば、この母親はこのまま死ぬのではないだろうか。
そんな悪魔のような考えがイールの頭を埋め尽くす。
その時、ステラの強い声が馬車の中で響いた。
「駄目よ!あなたが産んだのよ。命がけで産んだのよ。ちゃんと育てるの。愛して、たくさん愛して、旦那さんと育てるのよ。生きるの!頑張って!」
ステラは母親の手を握りしめ、赤ん坊を近づけた。
「ほら、見て。この子にはあなたが必要なのよ」
若い母親が泣きながら、生まれたばかりの子供に目を向ける。
その弱々しい手がゆっくり持ち上がった。
ステラは片腕を枕のようにして赤ん坊を母親の隣に寝かせ、もう一方の手で母親の手を取り、子供の頬にそっと触れさせた。
「あ……ああ……私の……赤ちゃん……」
母親が感動したように囁いた。
「そうよ。だから、諦めないで。魔力は意思に宿ると聞く。だから、強く念じればその力は増すのよ」
「その通りです。血が止まりますよ。大丈夫」
ステラの言葉の通りだと、治癒師も強く頷いて見せた。
治癒師の両手からは小さなやわらかな光が放たれ、ふわりと母親の下半身を包んでいる。
もしここに神力の結晶があれば、あっという間に治せたかもしれない。
しかし、誰もそれを口にしなかった。
夜を徹して治療は続き、二日がかりでやっと若い母親は命をとりとめた。
その間、食料や水を運び、体を拭いたり日陰を作ったりと、ステラとイールは若い母親の世話を続け、召使も落ち着きを取り戻し子供の世話をした。
タナトスの町の門番に護衛をお願いできないかと頼むと、町の警備兵と共に里帰り中の妻を迎えに行こうとしていた夫がかけつけた。
三日目にはステラとイールは必要なくなった。
そろそろ自分たちの旅に戻ろうとステラがイールに声をかけると、若い母親が急いでステラを呼び止めた。
「待って!待ってください!ステラさん、本当にありがとうございました。あなたは私たちの命の恩人です。どうか、どうか、この子に名前を付けてくれませんか?」
生まれた子供は男の子だった。
もし自分に息子が出来たらつけようと思っていた名前を、ステラはその子のために差し出した。
「リオン……どうかしら?」
若い母親は喜んだ。
「ありがとうございます。リオンが大きくなったら、あなたのことを必ず話します」
ステラは微笑み、イールと共に馬車に戻った。
馬車が走り出すと、ステラはイールの隣に座り、若い母親たちの横を通り過ぎながら手を振った。
それから後ろに引っ込み、夜まで出て来なかった。
それから二日間、静かな旅が続いた。どちらも口数は少なく、必要最低限の会話しかしなかった。
マウリの町が近づいてきたその日、ステラは寄り道がしたいと言い出した。
「エルダムと結婚の宣誓をした遺跡の祭壇に寄れないかな?」
イールはすぐに地図で道を確認した。そこはイールとシリラが結婚した場所でもある。
すぐそばにステラを閉じ込めた滝の洞窟もある。
イールは、エルダムとステラの結婚の宣誓を奴隷として見守った時のことを思い出した。
自分のものになるはずだった愛を他の人に奪われる。その痛みは想像以上に辛いものだ。
ステラもイールとシリラが祭壇で結婚の宣誓をする様子を滝の裏から見て、同じ痛みを感じたに違いない。
四日間孤独に耐え、愛する男を待っていたステラは、他の女と結婚するイールを目撃したのだ。
イールの心の痛みは自業自得だが、ステラには何の罪もなかった。
愛を知らない孤独な少女を、自分勝手に傷つけたのだ。
その罪の意識から逃れることのできないイールは、無意識に俯き顔を隠した。
ステラは地図上の滝を指さした。
「滝の上に行ってみたいから、馬車をどこかに隠せない?」
これはステラの復讐だろうかと、イールはちらりと考えた。
罪悪感を抱えるイールをわざと罪を犯した場所に連れていき、苦しめようとしているのかもしれない。
ステラはそんな女性ではないと思いながらも、やはりイールにはその気持ちが捨てきれない。
愛に飢えた孤独なステラの心を利用したせいで、ステラはいまだに真の愛も知らず、孤独なままだ。
ステラがイールへの恨みを捨てきれていないとしても不思議ではない。
ステラは暗い思考に囚われていくイールの様子に気づかず、地図上の道を指でなぞった。
「こことか」
滝の根元に細い道が書きこまれている。
それはイールが探索してきた情報をもとにステラが付け加えたものだった。
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――すまないが、その縁談は無効にさせてもらう!
エナを救ってくれたのは、幼馴染のリアハルト皇子……ではなく、今は皇帝となったリアハルト陛下。
彼は先帝の第一皇子だったけれど、父帝とその愛妾により、都から放逐され、エナの父のもとに身を寄せ、エナとともに育った人物。
――結婚の約束、しただろう?
昔と違って、堂々と王者らしい風格を備えたリアハルト。驚くエナに妻になってくれと結婚を申し込むけれど。
(わたし、いつの間に、結婚の約束なんてしてたのっ!?)
記憶がない。記憶にない。
姉弟のように育ったけど。彼との別れに彼の無事を願ってハンカチを渡したけれど! それだけしかしてない!
都会の洗練された娘でもない。ずっと幽閉されてきた身。
若くもない、リアハルトより三つも年上。婚期を逃した身。
後ろ盾となる両親もいない。幼い弟を守らなきゃいけない身。
(そんなわたしが? リアハルト陛下の妻? 皇后?)
ずっとエナを慕っていたというリアハルト。弟の後見人にもなってくれるというリアハルト。
エナの父は、彼が即位するため起こした戦争で亡くなっている。
だから。
この求婚は、その罪滅ぼし? 昔世話になった者への恩返し?
弟の後見になってくれるのはうれしいけれど。なんの取り柄もないわたしに求婚する理由はなに?
ずっと好きだった彼女を手に入れたかったリアハルトと、彼の熱愛に、ありがたいけれど戸惑いしかないエナの物語。
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