愛があってもやっぱり難しい

丸井竹

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10.愛があってもやっぱり難しい

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厨房に入ったアロナは、小さく悲鳴を上げた。
中央の作業台の向こうに、ナリアが立っていたのだ。

「な、ナリア様?!一体ここで何を……」

「そろそろ帰ろうと思っていたの」

結局、何をしにきたのかよくわからないままだったが、アロナはほっとした。

「そうですか。ではお食事はいつまでお届けすればいいですか?」

「お昼には発つわ。それより、あなたに聞きたいことがあるの。そこに座りなさい」

急に高慢な口調になり、ナリアは傍の丸椅子を指さした。
アロナは用心深く丸椅子に近づき、少し後ろに引き寄せて腰を下ろした。

「あなた……ドルバイン様のことをどう思っているの?」

きょとんとしたアロナは、すぐに顔を赤くし目を伏せた。

「そ、それは……尊敬しております。素晴らしい方だと思っています。その、紳士的でとても優しいですし、私達のような身分の者達のことまで気にかけてくださいます。それに、夫がとても慕っておりますし、私も……夫と同じ気持ちです」

「本当に?禿げていてお腹も出ているし、毛深くて顔も怖いでしょう?私の連れていた護衛達をどう思った?」

ナリアの意図がわからず、アロナは困ったようにナリアの表情を窺った。

「禿げていて太っているのは確かですし、毛深いこともわかっています。お顔は……最初は怖かったですが、今は怖くありません。ナリア様の護衛のジーン様もドム様も、とても素敵な容姿だと思いますが……。内面的なものはわかりませんから、比べようもありません。
でも、少なくともドルバイン様は無理矢理私をどうこうしようとはなさいません」

ジーンに襲われかけたことを急速に思い出し、アロナの声は不機嫌になった。
自分の物差しに忠実に生きてきたナリアには、やはり信じ難い話だった。

「ドルバイン様が好きなの?」

耳まで赤くなり、アロナは困ったように目を泳がせた。
夫を愛しているが、ドルバインに惹かれていることも事実だ。最初はそうではなかったが、その人柄を知り、その優しい腕に何度も抱かれるうちに慕う心は大きくなった。

「す、好きですが……。夫以上に好きなわけではありません」

「禿げでも?太っていても?獣みたいでも?」

なぜそんなに容姿にこだわるのかと、アロナは首を傾けた。

「そうですけど……。ナリア様はドルバイン様の容姿が駄目だったのですか?」

その率直な物言いに、ナリアはつられて頷いた。

「そうよ……。大丈夫だと思ったのよ……。でも、目移りしちゃうでしょう?夜会に行けば素敵な男性がたくさんいるのに、私の隣には卵に手足が生えたような毛むくじゃらの獣みたいな男だけ。私は美人で求婚者だってたくさんいたのに」

「そうでしょうか……。私は……夫以外の男性に求婚されたこともありますが、夫以外の男性に心を奪われたことはありません。自分の心に迷いさえなければ、周りの男性のことは気にならないのでは?それに、一人の男性を愛し抜くことは意外と大変なことです。他を気にしている暇はないぐらいです」

「大変なの?夫を愛することは?それは迷っているからじゃないの?」

「愛とは永遠に続くものではありません。夫が……自分の性癖に気づいて私を抱いてくれなくなった時、私は本当に悩みました。愛はあったのに、それが通じ合わないことに気づいたのです。二人でいるのに寂しくて、遠くて、なぜ抱き合って愛し合えないのか本当に悩みました。努力なしに夫婦を続けていくことが出来なくなったのです。
でもそれは、当然だということにも気づきました。喧嘩をしたり、ちょっとしたすれ違いがあったり、それに向き合い、二人で道を見つけて乗り越えていかなければ、夫婦の道は続いていかないのです。
愛は努力なしに続けることは出来ません。ナリア様も……ドルバイン様と話し合うべきだったと思います。
髭ぐらいは剃ってくださったかもしれませんよ?」

髭を剃ることで何がかわるのかと、ナリアが問いかけるように首を傾けたが、アロナの次の一言でその意図を察した。

「素顔はお気に召したかもしれません」

もしドルバインが好んで生やしていたとしても、ナリアが頼めば少しでも見た目を良くしようと剃ってくれたかもしれない。
ナリアは結婚した当時を思い出し、遠い目をして頷いた。

「そうね……」

ドルバインであれば、ナリアの悩みに真剣に向き合い、一緒に考えてくれたはずだ。
それをせずにナリアは逃げたのだ。
自分の気持ちを守るために、あるいはうまくいかないことを全て夫のせいにしたかったからかもしれない。

ドルバインが自分に触れないことが全て悪いと決めつけた。
人妻好きになったドルバインだけが悪かったわけじゃないのに、思い描いていた結婚生活とは違った責任の全てをドルバインに押し付け、他の男に走ったのだ。

ドルバインとは全く違う顔だけが良い、優しい男達とロマンチックな遊びを楽しんだ。
心は虚しくなる一方だったのに、ドルバインを頼ることは出来なかった。

「あなたは……自分の夫が変態だと分かっても逃げなかったのね……」

「わかって良かったです。隠されていた方がずっと辛かったです。驚きはありましたが、夫への愛が深まりました。私を信頼して全てを告白してくれたのだとわかっていましたし、それに、夫が幸せそうにしていると、私も幸せですから」

ナリアは何かを吹っ切るように、大きく息を吐き出した。

「なんだかすっきりしたわ。帰り支度を始めるから。食事はいつも通り部屋に運んでね」

「はい」

ナリアが出て行き、しばらくして、カインが厨房に飛び込んできた。
寝起きの頭で、眠そうに目をこすっている。

「アロナ!起こしてくれたらよかったのに」

並べられたお皿を見ると、カインは申し訳なさそうな顔をした。
お皿には既に熱々のハムと付け合わせの火を入れた野菜が盛られている。
椀にはスープが注がれ、お盆に乗せられるのを待っている。

「ナリア様たちの分よ。私達とドルバイン様の分はもう少し遅れるわ。お昼前には帰られるそうよ」

「そうか……。いろいろあったが、良かったな」

複雑な表情でカインはお皿をお盆に乗せていく。
そこに、大きな足音が近づいてきた。
扉が乱暴に開き、すっかり身支度を終えたドルバインが入ってくる。

「俺の朝食はいらないぞ。これから村々を回ってくる。カイン、少し手伝えるか?」

「はい!」

厨房を横切り、ドルバインは荷物をカインに押し付け、裏口から厩舎を出ていった。
登場したかと思ったら、もう退場したドルバインを追いかけるため、カインも急いで壁から外套を取り上げた。

押し付けられた荷物を一旦、調理台に置くと、剥き出しの書類がばらばらとこぼれ落ちた。
慌ててカインがそれを拾い集め、固い革表紙のファイルに挟み込む。

アロナも駆けつけ、それを手伝った。
拾い上げた一枚を、カインはアロナに手渡した。

「南国の炎虫だ。北の農地を駄目にしてしまう。オツの実を配って、どこに放置されているか調べる必要がある」

アロナは渡された注意書きを読んだ。
そこにはえらが三個も連なる、ふいごのような形の虫の絵が描かれていた。
膨らんだところが三つの段になっていて、尻尾に向けて細くなっている。
鎖虫に似ているが、少し大きい。

「冬には死んでしまいそうだけど……」

「だから発覚が遅れた。これからの季節に増殖されたら困るだろう?」

カインの言葉に、アロナも深刻な顔で頷いた。
馬蹄の音が聞こえてくると、カインは調理台の荷物をリュックに詰め込み、アロナに手伝ってもらって背中に背負った。

「気を付けてね」

裏口を出ると、ドルバインは既に馬上にいて、カインの分の馬の手綱を引いていた。

「カイン、荷物をよこせ、周辺をとりあえず回って来よう」

ドルバインは、荷物を馬にくくりつけ、カインも後ろの馬にまたがった。
アロナは片手で日差しを遮りながら、馬上の二人を見上げた。

「ナリアに見送り出来ないことを謝っておいてくれ。話があるなら留まってくれても構わないと伝えてくれ。君たちには残業代をはずもう。帰りは夕刻になる」

ドルバインとカインは、あっという間に朝靄の残る森の中に走り去った。
それを見送り、アロナは厨房に戻ると、ナリアたちの朝食を温めなおし始めた。


昼を前に、ナリアたちは宣言通り出立の準備を終えて表玄関に並んでいた。
馬車は三台もあり、そのうちの一台には荷物だけが積まれている。

「ドルバイン様は、相談事などがあれば残って欲しいとおっしゃっていました。夕刻過ぎにお戻りになるそうです」

美しく装いを整えたナリアは、髪を結い上げ、ベールまで被っていた。
その表情は隠れ、土汚れさえついたことのない白い指先は、豪華なドレスの縁をつまんでいた。

「いいのよ……。もうわかったわ。ドルバイン様に未練があったことは確かだけど……夫を愛していないわけじゃない。少し一人で考えてみるわ……」

ナリアが馬車に消えると、アロナは数歩下がって、泥だらけの庭を見回した。
馬車が走るための道だけは石を取り除き、穴を埋めておいたが、雪解けを終えたばかりの家の周りには問題が山積みだ。

馬車の車輪が軽快な音を立て動き出し、厳しくしつけられた馬たちがお行儀よく馬車を引っ張って走り出した。
それを見送り、アロナはほっと息をついた。

これで別荘には誰もいなくなったのだ。
ナリアたちの使った部屋を片付け、暖炉の始末まで終えたら食器を片付け厨房の整理を始めなければならない。
日が落ちる前に庭先の馬車道の点検はしておきたい。

「一人になっても忙しいわね」

アロナは腕まくりをすると、さっさと家の中に入った。


異変に気が付いたのは、二階の部屋のバルコニーを磨いていた時だった。
昨夜、ナリアの部屋に忍び込んだアロナは、服が黒く汚れていることに気が付いた。
手すりにしがみついてよじ登ったせいだと思い、さっそく掃除にやってきたのだ。

思った通り、寒い冬の間、手入れをされてこなかったバルコニーの手すりは汚れ、その根元には湿った苔がこびりつき、新たな植物が生えだしていた。
きれいにとってしまわなければ、外観が廃墟のように寂れた感じになってしまう。

納屋から器具を持ってこようかと視線を下げた時、森の中に男達の姿が見えた。
木立の向こうから別荘の方に少しずつ近づいてくる。
その用心の仕方を見れば、それがやっかいな連中であることは明白だった。

さらに、見覚えのある顔が混じっている。アロナはバルコニーから身を乗り出した。

「ま、まさか……ルータス?!」

村長の息子がまさかこんなところにいるとは思わず、少し大きな声が出てしまい、アロナは口を両手で押さえた。
ドルバインと同じような体形であるにも関わらず、何もかもが異なっているだらしない男だ。

とにかく見た目の印象が下品だし、いつも口元に薄気味悪い笑みを浮かべている。
ぎらぎらした目は、好色な性格が滲み出ているし、鍛えたことのない体はぶよぶよでドルバインのようにきびきびとした動きとは無縁だった。

ルータスが屋敷の傍で馬を下り、コソ泥みたいに歩き出した。
背中を丸めてあたりを窺いながらそろそろと移動する。

貴族屋敷に無断で侵入していいわけがない。
ドルバインからこの屋敷の管理人を任せられているアロナは、ドレスの裾をまくりあげて部屋を飛び出すと、一階に駆け下りた。
ルータスがなぜここに来たのかその目的を突き止めなければならない。

アロナは音を立てないように、厨房の裏口からこっそり外に出た。


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