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第三章 奪われた男
41.報復
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ヴェリエが再びアーダの森に連れ戻されるのを見送るしかなかったエリオは、茫然と、その岩場に座り込んだ。
行かせないと頑張ったところで、どうにもならなかった。
また瀕死の状態で戻ってくるかもしれない。
上級治癒師はまだ滞在しているが、トーリ族はヴェリエをここに返してくれるだろうか。
ロナウスは父親であっても領主であり、第一に考えるのは領地や領民のことだ。
トーリ族の怒りを買うぐらいならヴェリエを追い出してしまうだろう。
大きな無力感に打ちのめされ、エリオはひたすらヴェリエの去った先を見つめ続けた。
エリオを迎えに来たレイドは魂が抜けたようなエリオの姿に驚いたが、その顔色を見て急いで主の腕をひっぱった。
血の気のない顔色で、唇まで真っ青だった。
「エリオ、一度城に戻って暖をとろう」
レイドはぐいぐいと引っ張りエリオを城の私室に連れ戻した。
大急ぎで暖炉に火を入れるレイドをしり目に、エリオは窓を全開にし、アーダの森へ視線を向けた。
凍てつく空気が容赦なくエリオの全身を包み込む。
レイドは再びエリオの腕を引っ張り、暖炉の前に座らせた。
エリオが独り言のように話し出した。
「ヴェリエが……連れていかれた……灰色アイデンベアを狩るまで……戻れないと……」
華奢な愛らしい少女と灰色アイデンベアの巨大な姿が横並びで頭に浮かび、レイドはまさかと顔を強張らせた。
エリオは今にも意識を失ってしまいそうなほど打ちひしがれている。
レイドは必死にエリオに声をかけた。
「エリオ、大丈夫だ。あの武器を持っていったのだろう?一刺しで灰色アイデンベアを殺せるほどの毒だ。あれが少しでも入れば殺せるはずだ」
レイドの言葉はエリオの耳には届いていないようだった。
これから最愛の女性が殺されるかもしれないのだ。それをじっと耐えて待たなければならない。
レイドはアーダの森に飛び込んでいきそうなエリオの隣に座り、その腕をしっかり押さえこんだ。
エリオが魂が抜けたように部屋に閉じこもっているとロナウスが知ったのは、ヴェリエが連れ戻された日の夕刻だった。
エリオは報告に行けるような状態ではなかったし、事情を唯一知るレイドは片時も主から離れることができなかった。
執務室にエリオが顔を出さないことを心配してエリオのもとを訪ねたロナウスの側近ローグはレイドから事情を聞き、ロナウスに知らせに走った。
ヴェリエがアーダの森に連れ戻された理由を知ると、ロナウスは無言で私室に引きこもった。
その夜、ロナウスはまだ私室の暖炉の前で、酒のグラスを片手にソファーの上に横たわっていた。
テーブルには空けた酒瓶が何本も並んでいる。
控えめなノックと共に、イーグが水差しを持って入ってきた。
ロナウスの手から空のグラスをとりあげ水を注ぐ。
「ローグからの報告では、エリオ様に変化はないようです」
アーダの森に向かわないように監視がついていると聞くと、ロナウスは軽く頷いた。
ロナウスはヴェリエとエリオの事情について領内の人間が介入しすぎるべきではないと考えていた。
無関心であることでゴーデ領はアーダの森と共存してきたのだ。
イーグからグラスを返されるとロナウスは一口飲んで、テーブルに戻した。
「もう休む。お前も下がれ」
どうみても一人では歩けそうにないロナウスに、イーグが手を差し出したが、ロナウスはその手を振り払った。
「大丈夫だ。一人にしてくれ」
酒量が増えているロナウスを心配し、イーグは酒瓶をすべて回収すると部屋を出た。
直後、無風であった室内に夜気を含んだ冷たい風が流れ込んだ。
酔ってはいても、軍人であり、城主であるロナウスは途端に意識を取り戻した。
吹き込んできた風に死の匂いが混じりこんでいた。
それに気づいたロナウスは、酔いなど少しも残っていないかのように飛び起き、剣を引き抜いた。
部屋の奥にある窓のカーテンがふわりふわりと風を受けて揺れている。
さらに強い血の匂いが流れ込んできた。
そこに黒い人影が見える。
暖炉とランプの明かりが届かない場所に二つの人影が見えた。
体躯の大きな男と長身でほっそりとした女の影だ。
ついに殺されるのだろうかと、ロナウスは剣を握りしめながら考えた。
ところがその巨大な人影はロナウスに襲い掛かってはこなかった。
ただ、何かを床に放り投げた。
床が鈍い音を立てて鳴り、投げられた物がごろりと絨毯を転がった。
薄暗い灯りの中、金色の輝きが目に飛び込んでいきた。
ロナウスは剣を投げ出し、駆け寄った。
抱き上げ、さらに灯りの下に引っ張り込むと、それはまだ少女と言っていいぐらいの若い女の亡骸だった。
金色の髪、白い陶器のような肌、それから閉ざされた目。
その美しい体は鮮血で染め上げられている。
ぐらりとロナウスの体は傾き、呼吸を忘れたかのように喉からひゅーひゅーと乾いた音が鳴った。
意識せず込み上げたものがぽたりぽたりと血まみれの少女の体に落ちた。
氷のように冷たい頬に触れ、ロナウスはやっと少女の命を奪ったと思われる大きな傷に気が付いた。
それは小さな頭を支えるほっそりとした首にあり、大きく切り裂かれて脈を確かめることも出来なかった。
「お前が私のもとに残したものをやっと捨ててしまえた。すっきりしたよ」
冷酷な女の声が空気を切り裂くように室内に響いた。
ロナウスはのろのろと振り返った。
窓辺からゆっくり近づいてきたのは先ほどの大男ではなかった。
「男親が死体をどうするか決める権利を持つ。やっとお前にも親の役目が出来たな。今度こそもう二度と会うことはないだろう」
リーナは勝ち誇ったような笑みを見せ、ロナウスの呆然とした姿を満足そうに見下ろすと、身を翻し窓に向かう。
ロナウスは立ちあがりその背中を追った。
黒い巨大な人影が前に出て、ロナウスの体を逞しい腕で乱暴に薙ぎ払った。
ロナウスはあっさり壁に激突しずるりと床に落ちた。
既に剣は手放していた。
ロナウスは痛みに息を詰まらせながらも必死に叫んだ。
「ま、待て!お前は……殺すために育てたのか?俺への復讐のために育てたのか?!ならば、なぜ俺を殺さない。俺を殺せばいいだろう!」
リーナは足を止めた。
「思い上がるな。お前のことなどとうに忘れている。ただ昔の亡霊のようにつきまとう目障りなものを捨てただけだ。一族の血を継いでいれば殺すことも許されないからな」
「ロナウス様!」
大きな音に気づき、ロナウスを心配し外で待機していたイーグが飛び込んできた。
その足が室内の異様な光景にぴたりと止まった。
灯りの下に横たわるのは血まみれのヴェリエの死体、それから窓辺にトーリ族の大男の影、そして壁際に崩れ落ちているロナウスの姿。
一瞬固まったイーグだったが、即座に剣を抜き主のために戦おうとした。
ロナウスの鋭い声が飛んだ。
「イーグ。そこを動くな!」
イーグはヴェリエの死骸の傍らでぴたりと足を止めた。
ロナウスはどこかで冷静だった。どんな時も命令を下す立場に立たなければならない男だった。
「そうか……ならばこれですべて終わりだな。リーナ」
二人の姿が遠ざかる中、ロナウスは喉が裂けるような声で叫んだ。
「今度こそ幸せになればいい!俺のせいでお前は不幸だったのだから!」
その言葉は空しく二人が消えた暗闇に吸い込まれた。
「ど、どうしましょう。ロナウス様、既にこと切れて……」
死体を改めたイーグが、動揺したようにロナウスに指示を仰いだ。
ぐったりと肩を落とし、ロナウスは力なく告げた。
「そうだな……。エリオを呼ぶしかないだろう……一応治癒師を呼べ……」
イーグが飛び出して行くと、ロナウスは口に溜まった血を吐きだした。
たった一度殴られただけだというのに、体にはすぐには回復しきれないほどの痛みが残されていた。
痛む体を引きずりながら、ロナウスはヴェリエの方へ近づいた。
その傍らに座り込み、金色の髪を撫で、そっと閉ざされた瞼を押し上げる。
その目の色を確認すると、再び瞼を閉じた。
「俺のせいか……」
ロナウスは胸の痛みに耐えかねて仰向けに転がった。親子と呼べるような交流は一つもなかった。それでも交わした言葉のひとつひとつが蘇った。
初めて謁見の間で会った日の声までも覚えていた。
『ヴェリエです』
少し不機嫌そうな顔をして、可愛げのない娘だと思ったのだ。
それから城を出て行く時の強い信念を宿した真っすぐな眼差し。
『エリオ様は素晴らしいお世継ぎです。どうか、死なせないでください』
か弱い体でありながらその心は誰よりも強かった。
最初からヴェリエを守る気もなかったロナウスには嘆く資格すらない。
ただ、エリオはどうするのだろうかとぼんやりと考えた。
自分とは違う道を選んだエリオは、力の限り捨てたものを取り返そうとあがいていた。
エリオのように、無様に何もかもかなぐり捨て、愛していたと自分が間違っていたと、泣きながら叫んでいたらこんな結末にはならなかったのかもしれない。
床を響かせ複数の足音が近づいてきた。扉がバタンと開いた。
飛び込んできたのは血相を変えたエリオだった。
言葉にならない絶叫が室内に響き渡り、それから激しく床を叩く音が続いた。
ロナウスは首を横に向け、息子の姿を視界に入れた。
ヴェリエの亡骸に覆いかぶさり、顔を床に押し付けている。
その背中は震え、握った拳には血が滲んでいた。
それでも拳で床を打ち続ける。
その後ろにレイドとローグが立ち尽くし、さらにイーグと治癒師が現れた。
治癒師の男はヴェリエの体をちらりと一瞥し、残念そうに首を横に振った。
命の輝きが失われていたのだ。
エリオとヴェリエの体を避け、治癒師はロナウスの傍らに膝をついた。
「治療します」
症状を説明しながら魔鉱石を掲げ、治癒師が治療を始めたが、ロナウスは聞いていなかった。ヴェリエの隣に横たわり、首を横に向けたままエリオの姿を見つめていた。
この男がどうするのか知りたかった。もし自分もあがいていたらエリオと同じ目にあっていたかもしれない。トーリ族の女とは決して結ばれることは出来ないのだから。
エリオは捨てたものを今度こそ取り戻せない。一度は捨てたが今度は奪われた。
床に打ち付けるように揺れていた乱れた黒髪と、慟哭する声音がぴたりと止まった。
怒りと悲しみ、例えようもない迸る憤りの全てを飲み込み、驚くほど静かにエリオは立ちあがった。
まるで彼の周りだけが時が止まったかのように静まり返っていた。
見上げた顔にロナウスは息を飲んだ。
感情は消え、冷酷な目にただただヴェリエの亡骸を映している。
「父上……。お許しください」
抑揚のない無機質な声がこぼれた。
「私はトーリ族を滅ぼします」
ぞわりと背筋を舐めたものはエリオの鬼気迫る狂気だった。燃え上がる炎のようなものではなく、血なまぐさい冷酷さでもない。
まるで天上に立つ神が、涼しい顔をして指一本地上に向け、滅ぼしてみようかと呟いたかのように、止めようもない恐ろしいほどの力がその言葉には迸っていた。
それ故、踵を返し歩き去るエリオをすぐには誰も追いかけることができなかった。
エリオの忠実な部下であるレイドはその背中を見送りながらあれは誰だろうとぼんやりと思った。
それでも、エリオの足音が聞こえているうちにレイドは自身の役割を思い出した。
エリオを追いかけてレイドが部屋から消えると、ロナウスは視線を隣の亡骸に戻した。
白く冷たくなったヴェリエの手を握り、この手がまだ温かく、柔らかかった時に握ってやれたらよかったのにとロナウスはぼんやりと思った。
行かせないと頑張ったところで、どうにもならなかった。
また瀕死の状態で戻ってくるかもしれない。
上級治癒師はまだ滞在しているが、トーリ族はヴェリエをここに返してくれるだろうか。
ロナウスは父親であっても領主であり、第一に考えるのは領地や領民のことだ。
トーリ族の怒りを買うぐらいならヴェリエを追い出してしまうだろう。
大きな無力感に打ちのめされ、エリオはひたすらヴェリエの去った先を見つめ続けた。
エリオを迎えに来たレイドは魂が抜けたようなエリオの姿に驚いたが、その顔色を見て急いで主の腕をひっぱった。
血の気のない顔色で、唇まで真っ青だった。
「エリオ、一度城に戻って暖をとろう」
レイドはぐいぐいと引っ張りエリオを城の私室に連れ戻した。
大急ぎで暖炉に火を入れるレイドをしり目に、エリオは窓を全開にし、アーダの森へ視線を向けた。
凍てつく空気が容赦なくエリオの全身を包み込む。
レイドは再びエリオの腕を引っ張り、暖炉の前に座らせた。
エリオが独り言のように話し出した。
「ヴェリエが……連れていかれた……灰色アイデンベアを狩るまで……戻れないと……」
華奢な愛らしい少女と灰色アイデンベアの巨大な姿が横並びで頭に浮かび、レイドはまさかと顔を強張らせた。
エリオは今にも意識を失ってしまいそうなほど打ちひしがれている。
レイドは必死にエリオに声をかけた。
「エリオ、大丈夫だ。あの武器を持っていったのだろう?一刺しで灰色アイデンベアを殺せるほどの毒だ。あれが少しでも入れば殺せるはずだ」
レイドの言葉はエリオの耳には届いていないようだった。
これから最愛の女性が殺されるかもしれないのだ。それをじっと耐えて待たなければならない。
レイドはアーダの森に飛び込んでいきそうなエリオの隣に座り、その腕をしっかり押さえこんだ。
エリオが魂が抜けたように部屋に閉じこもっているとロナウスが知ったのは、ヴェリエが連れ戻された日の夕刻だった。
エリオは報告に行けるような状態ではなかったし、事情を唯一知るレイドは片時も主から離れることができなかった。
執務室にエリオが顔を出さないことを心配してエリオのもとを訪ねたロナウスの側近ローグはレイドから事情を聞き、ロナウスに知らせに走った。
ヴェリエがアーダの森に連れ戻された理由を知ると、ロナウスは無言で私室に引きこもった。
その夜、ロナウスはまだ私室の暖炉の前で、酒のグラスを片手にソファーの上に横たわっていた。
テーブルには空けた酒瓶が何本も並んでいる。
控えめなノックと共に、イーグが水差しを持って入ってきた。
ロナウスの手から空のグラスをとりあげ水を注ぐ。
「ローグからの報告では、エリオ様に変化はないようです」
アーダの森に向かわないように監視がついていると聞くと、ロナウスは軽く頷いた。
ロナウスはヴェリエとエリオの事情について領内の人間が介入しすぎるべきではないと考えていた。
無関心であることでゴーデ領はアーダの森と共存してきたのだ。
イーグからグラスを返されるとロナウスは一口飲んで、テーブルに戻した。
「もう休む。お前も下がれ」
どうみても一人では歩けそうにないロナウスに、イーグが手を差し出したが、ロナウスはその手を振り払った。
「大丈夫だ。一人にしてくれ」
酒量が増えているロナウスを心配し、イーグは酒瓶をすべて回収すると部屋を出た。
直後、無風であった室内に夜気を含んだ冷たい風が流れ込んだ。
酔ってはいても、軍人であり、城主であるロナウスは途端に意識を取り戻した。
吹き込んできた風に死の匂いが混じりこんでいた。
それに気づいたロナウスは、酔いなど少しも残っていないかのように飛び起き、剣を引き抜いた。
部屋の奥にある窓のカーテンがふわりふわりと風を受けて揺れている。
さらに強い血の匂いが流れ込んできた。
そこに黒い人影が見える。
暖炉とランプの明かりが届かない場所に二つの人影が見えた。
体躯の大きな男と長身でほっそりとした女の影だ。
ついに殺されるのだろうかと、ロナウスは剣を握りしめながら考えた。
ところがその巨大な人影はロナウスに襲い掛かってはこなかった。
ただ、何かを床に放り投げた。
床が鈍い音を立てて鳴り、投げられた物がごろりと絨毯を転がった。
薄暗い灯りの中、金色の輝きが目に飛び込んでいきた。
ロナウスは剣を投げ出し、駆け寄った。
抱き上げ、さらに灯りの下に引っ張り込むと、それはまだ少女と言っていいぐらいの若い女の亡骸だった。
金色の髪、白い陶器のような肌、それから閉ざされた目。
その美しい体は鮮血で染め上げられている。
ぐらりとロナウスの体は傾き、呼吸を忘れたかのように喉からひゅーひゅーと乾いた音が鳴った。
意識せず込み上げたものがぽたりぽたりと血まみれの少女の体に落ちた。
氷のように冷たい頬に触れ、ロナウスはやっと少女の命を奪ったと思われる大きな傷に気が付いた。
それは小さな頭を支えるほっそりとした首にあり、大きく切り裂かれて脈を確かめることも出来なかった。
「お前が私のもとに残したものをやっと捨ててしまえた。すっきりしたよ」
冷酷な女の声が空気を切り裂くように室内に響いた。
ロナウスはのろのろと振り返った。
窓辺からゆっくり近づいてきたのは先ほどの大男ではなかった。
「男親が死体をどうするか決める権利を持つ。やっとお前にも親の役目が出来たな。今度こそもう二度と会うことはないだろう」
リーナは勝ち誇ったような笑みを見せ、ロナウスの呆然とした姿を満足そうに見下ろすと、身を翻し窓に向かう。
ロナウスは立ちあがりその背中を追った。
黒い巨大な人影が前に出て、ロナウスの体を逞しい腕で乱暴に薙ぎ払った。
ロナウスはあっさり壁に激突しずるりと床に落ちた。
既に剣は手放していた。
ロナウスは痛みに息を詰まらせながらも必死に叫んだ。
「ま、待て!お前は……殺すために育てたのか?俺への復讐のために育てたのか?!ならば、なぜ俺を殺さない。俺を殺せばいいだろう!」
リーナは足を止めた。
「思い上がるな。お前のことなどとうに忘れている。ただ昔の亡霊のようにつきまとう目障りなものを捨てただけだ。一族の血を継いでいれば殺すことも許されないからな」
「ロナウス様!」
大きな音に気づき、ロナウスを心配し外で待機していたイーグが飛び込んできた。
その足が室内の異様な光景にぴたりと止まった。
灯りの下に横たわるのは血まみれのヴェリエの死体、それから窓辺にトーリ族の大男の影、そして壁際に崩れ落ちているロナウスの姿。
一瞬固まったイーグだったが、即座に剣を抜き主のために戦おうとした。
ロナウスの鋭い声が飛んだ。
「イーグ。そこを動くな!」
イーグはヴェリエの死骸の傍らでぴたりと足を止めた。
ロナウスはどこかで冷静だった。どんな時も命令を下す立場に立たなければならない男だった。
「そうか……ならばこれですべて終わりだな。リーナ」
二人の姿が遠ざかる中、ロナウスは喉が裂けるような声で叫んだ。
「今度こそ幸せになればいい!俺のせいでお前は不幸だったのだから!」
その言葉は空しく二人が消えた暗闇に吸い込まれた。
「ど、どうしましょう。ロナウス様、既にこと切れて……」
死体を改めたイーグが、動揺したようにロナウスに指示を仰いだ。
ぐったりと肩を落とし、ロナウスは力なく告げた。
「そうだな……。エリオを呼ぶしかないだろう……一応治癒師を呼べ……」
イーグが飛び出して行くと、ロナウスは口に溜まった血を吐きだした。
たった一度殴られただけだというのに、体にはすぐには回復しきれないほどの痛みが残されていた。
痛む体を引きずりながら、ロナウスはヴェリエの方へ近づいた。
その傍らに座り込み、金色の髪を撫で、そっと閉ざされた瞼を押し上げる。
その目の色を確認すると、再び瞼を閉じた。
「俺のせいか……」
ロナウスは胸の痛みに耐えかねて仰向けに転がった。親子と呼べるような交流は一つもなかった。それでも交わした言葉のひとつひとつが蘇った。
初めて謁見の間で会った日の声までも覚えていた。
『ヴェリエです』
少し不機嫌そうな顔をして、可愛げのない娘だと思ったのだ。
それから城を出て行く時の強い信念を宿した真っすぐな眼差し。
『エリオ様は素晴らしいお世継ぎです。どうか、死なせないでください』
か弱い体でありながらその心は誰よりも強かった。
最初からヴェリエを守る気もなかったロナウスには嘆く資格すらない。
ただ、エリオはどうするのだろうかとぼんやりと考えた。
自分とは違う道を選んだエリオは、力の限り捨てたものを取り返そうとあがいていた。
エリオのように、無様に何もかもかなぐり捨て、愛していたと自分が間違っていたと、泣きながら叫んでいたらこんな結末にはならなかったのかもしれない。
床を響かせ複数の足音が近づいてきた。扉がバタンと開いた。
飛び込んできたのは血相を変えたエリオだった。
言葉にならない絶叫が室内に響き渡り、それから激しく床を叩く音が続いた。
ロナウスは首を横に向け、息子の姿を視界に入れた。
ヴェリエの亡骸に覆いかぶさり、顔を床に押し付けている。
その背中は震え、握った拳には血が滲んでいた。
それでも拳で床を打ち続ける。
その後ろにレイドとローグが立ち尽くし、さらにイーグと治癒師が現れた。
治癒師の男はヴェリエの体をちらりと一瞥し、残念そうに首を横に振った。
命の輝きが失われていたのだ。
エリオとヴェリエの体を避け、治癒師はロナウスの傍らに膝をついた。
「治療します」
症状を説明しながら魔鉱石を掲げ、治癒師が治療を始めたが、ロナウスは聞いていなかった。ヴェリエの隣に横たわり、首を横に向けたままエリオの姿を見つめていた。
この男がどうするのか知りたかった。もし自分もあがいていたらエリオと同じ目にあっていたかもしれない。トーリ族の女とは決して結ばれることは出来ないのだから。
エリオは捨てたものを今度こそ取り戻せない。一度は捨てたが今度は奪われた。
床に打ち付けるように揺れていた乱れた黒髪と、慟哭する声音がぴたりと止まった。
怒りと悲しみ、例えようもない迸る憤りの全てを飲み込み、驚くほど静かにエリオは立ちあがった。
まるで彼の周りだけが時が止まったかのように静まり返っていた。
見上げた顔にロナウスは息を飲んだ。
感情は消え、冷酷な目にただただヴェリエの亡骸を映している。
「父上……。お許しください」
抑揚のない無機質な声がこぼれた。
「私はトーリ族を滅ぼします」
ぞわりと背筋を舐めたものはエリオの鬼気迫る狂気だった。燃え上がる炎のようなものではなく、血なまぐさい冷酷さでもない。
まるで天上に立つ神が、涼しい顔をして指一本地上に向け、滅ぼしてみようかと呟いたかのように、止めようもない恐ろしいほどの力がその言葉には迸っていた。
それ故、踵を返し歩き去るエリオをすぐには誰も追いかけることができなかった。
エリオの忠実な部下であるレイドはその背中を見送りながらあれは誰だろうとぼんやりと思った。
それでも、エリオの足音が聞こえているうちにレイドは自身の役割を思い出した。
エリオを追いかけてレイドが部屋から消えると、ロナウスは視線を隣の亡骸に戻した。
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