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33.敵襲
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小屋の窓から温かな灯りがこぼれていた。
うっすらと積もった雪の上には作業小屋から隣の小屋へと続く二人分の足跡がある。
煙突から白い煙があがり、美味しそうな香りが漂っている。
小屋の中には二人の人影があり、暖炉の前に息子が座っていた。
奥から出てきた女が息子の肩に毛布をかけた。
「そんなに寒くないよ」
息子の手には湯気を立てているお茶のカップがある。
「そう?でも冬だから」
女は少し離れたところに椅子を置き、白い息を吐きながらそこに座った。
「リースのところに焼いたお菓子を置いたのだけど、小鳥が食べてしまうの」
やっと座ったのに、女はまた椅子を立って、調理台を支えに足を引きずりながらオーブンに向かう。
鉄板にお菓子が並べられており、既にふっくらと焼けている。
「薄い生地だからすぐ焼けるのよ」
打ち解けた態度にはまだ遠い、不安そうな女の声を息子は窓の外を眺めながら聞いていた。
室内が明るい為、外はほとんど見えないが、窓の先に小さなお墓があることはわかっている。
外から夕刻の鐘が聞こえてきた。
寒くなれば日が落ちるのも早くなる。
暗くなったらここに泊まりたいと言ってみようかと息子は密かに考えた。
そうなれば父親も一緒に泊まることになるかもしれない。
と、その時、のんびりと鳴っていた町の鐘がけたたましく鳴り響きだした。
オーブンから鉄板を出し、お皿にお菓子を盛りつけていた女が台所から出てきて、息子を椅子から抱き上げた。
思いがけない強い力に、息子は慌てて母親にしがみつく。
「か、かあさん!?」
息子は驚いて声をあげるが、女は足の痛みに耐えて扉を目指した。
大きく扉が開かれ、息子は押し寄せてきた冷えた外気に目を瞬かせた。
女は息子を抱え外に出ると、町の方へ視線を向けた。
夕暮れの町に響き渡る警鐘はいたるところから聞こえてくる。
安全な場所がどこなのかわからず、女は固く息子を抱きしめた。
その頃、ロベルと別れた男は墓地を抜ける道を小屋に向かって走っていた。その後ろをヴィーナが血相を変えて追いかけている。
二人が顔を合わせたのは、つい先ほどのことで、女の小屋に向かっているヴィーナを男が道の途中で呼び止めたのだ。
夕刻の鐘が鳴り始める中、ヴィーナを追い抜いた男は道に立ちふさがり、ヴィーナを睨みつけた。
「何をしに来た!」
男の怒声を前に、ひるむことなくヴィーナは腰に手を当て、くちゃくちゃと噛んでいた何かを道の脇に吐き出した。
紺の外套の下に男を誘うための派手な色のドレスを身につけたヴィーナは、酒場の客も取れず苛立っていた。
「私だって、こんな陰気なところ来たくないわよ。あいつの金が絶対どこかにあるはずなのよ。あの糞ぼうず、使わないならくれたらいいのに」
金の無心に来たことを隠そうともしないヴィーナに男は目を怒らせた。
「出入り禁止のはずだろう!」
悪人たちを蒸し焼きにした日以来の再会に、二人は揃って嫌な顔をした。
「お前こそ何をしているのよ。娘は大金持ちの男に言い寄られているらしいけど、それはあんたのことじゃないはずだよ」
とっくにその情報を掴んでいたヴィーナは威勢よく言い返した。
国の立派な騎士がエリンを射止めたなら、身内として国から多少金をもらえるのではないかとさえヴィーナは考えていた。
そんな浅ましい考えを軽蔑するように、男は吐き捨てた。
「お前と違って出入り禁止にはなっていない。帰れ!」
「ふんっ。門番は出払っているよ。聖なる休日とやらの準備で町に出る神官たちの護衛に行ったのさ。鍵が閉まっていたって、乗り越えてしまえば門はあってないようなものさ」
聖なる休日が今日だとは知らず、ただ女と距離を縮めたい一心でここに来ていた男は驚いた。
門番は夕方になれば奥に引っ込むし、教会内も無人に近づく。
それ故、祈りの間にロベルしかいなかったことも、別に不思議に思わなかったのだ。
「教会が休みでも、ここが教会であることは変わらない!出入りは禁止だ」
ヴィーナは強引に男の横を通り過ぎようとした。
男は小屋に行かせまいと道の真ん中で立ちふさがった。
「何よ!どきなさいよ!」
「どうせ金だろう?そんなことで彼女に会わせるわけにはいかない!」
夕刻の鐘に負けじと、男が叫んだ。ヴィーナも引かなかった。
「あんたと違ってね、私はちょくちょくここに来ているし、身なりの良い男が出入りしていることも知っている。小遣いだってもらっている。お前はあの子に関わって暮らしていないだろう?私の方がよっぽど近いところにいる」
かっとして男はヴィーナの手を取って道を引き返そうとした。
夕刻の鐘が、けたたましい警鐘音に変わったのはその時だった。
二人は同時に町に視線を向けた。
小屋のある場所より門に近く、斜面のちょうど高い部分にいた二人には町の光景が良く見えた。
太陽の沈みかけた空の向こうに、煙があがり、町の通りを黒い大群が押し寄せていた。
その黒い大群は通りを左右にわかれ、見えなくなると、横道から炎がいたるところで上がり始めた。
破壊されていく町を見て、男は即座に国境を敵軍が突破したのだと思った。
敵に襲われたら、戦う術をもたない平民は殺されてしまう。
一変した町の光景を前に、呆然としていた二人は、通りを真っすぐに抜けてくる一団があることに気が付いた。
その道の延長線上に教会がある。
門番は不在で、錠はかかっているが、飲んだくれの女でも超えられてしまうような門だ。
男は小屋に向かって走り出し、ヴィーナも慌てて追いかけた。
小屋の前では女が息子を抱きしめ、震えながら立ち尽くしていた。
息子は無理やり下りたら女が転んでしまいそうで、動けないでいた。
「エリン!」
大きな男の声に、女は振り返り、駆け付けてきた男の胸に急いで息子を押しつけた。
「早く、ルカを連れて逃げて!急いで!」
女はまだ足を引きずっており、速くは走れない。
追いかけてきたヴィーナが後ろを振り向いた。
国境から流れてきた一団は、全員馬に乗り、恐るべき速さで迫っている。
「もう無理だ!隠れなきゃ!誰よ、あいつら!」
ヴィーナは悲鳴を上げ、足を踏み鳴らした。
火の手は上がり続け、いたるところで警鐘が鳴り響く。
聖なる休日は聖職者も全員町に出ている。
エリン達の様子をこっそり覗こうと近くまで来ていたロベルが、老人とは思えない脚力で走ってきた。
「右の壁に!」
ロベルの手には鍵束が握られていた。
最近錠前を新しくした扉が近くにある。
ルカを地面に置き、男は女の方を抱き上げた。
足を止めずに壁に向かうロベルの後ろに、息子、エリンを抱いた男、それからヴィーナが続く。
扉が近づき、ロベルは鍵束から一本の鍵を取り出した。
その時、扉の向こうから話し声がきこえてきた。
「まだ開かないのか?」
「静かにしろ!入ったら、騒がれる前に皆殺しだ。声をたてるな」
鍵束を握っていたロベルはずるりと手を滑らせ、鍵を落とした。
幸い、うっすらと積もった雪の中に落ちたため音はしなかったが、扉越しに聞こえた声に、一同が蒼白になった。
あたふたとロベルは鍵を探そうとしたが、枯れた草木に被さった雪の上に落ちた鍵は、思ったより深く沈み込み、すぐには拾えなくなっていた。
鍵束を手放しては隠れる場所がない。
「作業小屋の裏にある遺体安置所に向かう」
ロベルが小声でささやき、一同は無言で回れ右をして歩き出す。
男の腕に抱えられた女は、その足元を見て男の背中を拳で叩いたが、焦っている男は気づかなかった。
壁の外から聞こえる物騒な声と鍵を壊そうとする金属音に急かされ、一同は斜面を登り、作業小屋の裏に回った。
そこで何が行われたか知っている男とロベル、ヴィーナは顔をしかめたが、無言で閂を外し、鉄扉を開いた。
扉に積もっていた雪が地面に滑りおち、焦げ臭いにおいが地下から流れ出た。
音もなく、ロベルがまっさきに階段を下りた。
ヴィーナが駆けこむ。
女が男の腕から滑り降り、ルカを男に押し付けた。
「子供が先よ」
一瞬躊躇ったが、男はルカを支え地下に下りる。
「エリン、君も……」
早く来いと声をかけようとした時、大きな影が落ちてきた。
怯えて地上に逃げようとする息子を抱きしめ、男が声をあげる。
「エリン!何を!」
戻ろうとする男の服をヴィーナが飛びついて引っ張った。
「うるさい!静かにしてよ!」
外には敵の大群がいる。
軋んだ音を立てて鉄の扉が閉まった。
重い鉄の扉が大きな音を立て、扉と石枠の隙間がぴったりとふさがった。
通気口を塞いでいた木の板が外され、地上の光が少し差し込んだ。そこから女の声がした。
「雪の上に表からここまでの皆の足跡がついたままなの。ここに人が隠れているとわからないように、それを消しに戻るから奥に隠れていて。ルカを守って」
それに大声で答えるわけもいかず、男は通気口からエリンを見ようと伸びあがった。
しかしまたすぐに通気口に木の板が嵌めこまれ、光は遮断されてしまう。
「エリン!」
「見つかったら殺されるのよ?黙りなさいよ!」
大声を出す男の尻を蹴り上げ、ヴィーナはその服の裾をひっぱった。
怒りに振り返った男は、すぐに息子の存在を思い出し、その腕に抱き寄せた。
「ルカ、大丈夫だ」
何の根拠もない言葉だったが、息子は父親にしがみつく。
「ここは町を見おろす丘の上だ。東の街道も要塞の動きも見える。しかも教会の地下には宝があると、ある種の人間は信じている」
しわがれたロベルの声が奥から聞こえ、何かが崩れるような大きな物音がし始めた。
「ちょっと!音を出すなって言っているのよ!」
時間の経過と共に、恐怖が迫ってくる。
ヴィーナの囁き声は震えていた。
悪党たちは今頃、扉を壊し、中に入ってきているかもしれない。
すでにエリンを捕まえ、残りの人間がいることを知られたかもしれない。
あるいは、地下室を探してここにもやってくるかもしれない。
息を潜め、ここにいるだけで助かるだろうか。
生きた心地もしないような恐怖の中で、再び暗がりから大きな物音が響いた。
怒りより恐怖が勝り、ヴィーナはついに文句も言えず息を飲んだ。
暗がりに淡々とした男の声がした。
「ロベル様?ここから出る手段があるのですか?」
物音のした方へ慎重に進み、男は腕に息子を抱いたまま手を伸ばす。
ここだと知らせるように皺深い手が男の手に触れた。
「この死体を前に出してくれ。扉を開けたら見える位置に置いておく。人が入った痕跡を消すためだ。それから、そっちの焼け焦げた死体もその隣に置いておこう。
この奥にランプがあったはずだが、火が付くかな?エリンが時間を稼いでくれている間に早くやってしまわなければ」
何か考えがあるのだと気づき、ヴィーナも声のする方へ寄っていく。
無言の大人たちはロベルの指示で動き出し、暗がりにごそごそとした物音が続き、やがて静寂が訪れた。
うっすらと積もった雪の上には作業小屋から隣の小屋へと続く二人分の足跡がある。
煙突から白い煙があがり、美味しそうな香りが漂っている。
小屋の中には二人の人影があり、暖炉の前に息子が座っていた。
奥から出てきた女が息子の肩に毛布をかけた。
「そんなに寒くないよ」
息子の手には湯気を立てているお茶のカップがある。
「そう?でも冬だから」
女は少し離れたところに椅子を置き、白い息を吐きながらそこに座った。
「リースのところに焼いたお菓子を置いたのだけど、小鳥が食べてしまうの」
やっと座ったのに、女はまた椅子を立って、調理台を支えに足を引きずりながらオーブンに向かう。
鉄板にお菓子が並べられており、既にふっくらと焼けている。
「薄い生地だからすぐ焼けるのよ」
打ち解けた態度にはまだ遠い、不安そうな女の声を息子は窓の外を眺めながら聞いていた。
室内が明るい為、外はほとんど見えないが、窓の先に小さなお墓があることはわかっている。
外から夕刻の鐘が聞こえてきた。
寒くなれば日が落ちるのも早くなる。
暗くなったらここに泊まりたいと言ってみようかと息子は密かに考えた。
そうなれば父親も一緒に泊まることになるかもしれない。
と、その時、のんびりと鳴っていた町の鐘がけたたましく鳴り響きだした。
オーブンから鉄板を出し、お皿にお菓子を盛りつけていた女が台所から出てきて、息子を椅子から抱き上げた。
思いがけない強い力に、息子は慌てて母親にしがみつく。
「か、かあさん!?」
息子は驚いて声をあげるが、女は足の痛みに耐えて扉を目指した。
大きく扉が開かれ、息子は押し寄せてきた冷えた外気に目を瞬かせた。
女は息子を抱え外に出ると、町の方へ視線を向けた。
夕暮れの町に響き渡る警鐘はいたるところから聞こえてくる。
安全な場所がどこなのかわからず、女は固く息子を抱きしめた。
その頃、ロベルと別れた男は墓地を抜ける道を小屋に向かって走っていた。その後ろをヴィーナが血相を変えて追いかけている。
二人が顔を合わせたのは、つい先ほどのことで、女の小屋に向かっているヴィーナを男が道の途中で呼び止めたのだ。
夕刻の鐘が鳴り始める中、ヴィーナを追い抜いた男は道に立ちふさがり、ヴィーナを睨みつけた。
「何をしに来た!」
男の怒声を前に、ひるむことなくヴィーナは腰に手を当て、くちゃくちゃと噛んでいた何かを道の脇に吐き出した。
紺の外套の下に男を誘うための派手な色のドレスを身につけたヴィーナは、酒場の客も取れず苛立っていた。
「私だって、こんな陰気なところ来たくないわよ。あいつの金が絶対どこかにあるはずなのよ。あの糞ぼうず、使わないならくれたらいいのに」
金の無心に来たことを隠そうともしないヴィーナに男は目を怒らせた。
「出入り禁止のはずだろう!」
悪人たちを蒸し焼きにした日以来の再会に、二人は揃って嫌な顔をした。
「お前こそ何をしているのよ。娘は大金持ちの男に言い寄られているらしいけど、それはあんたのことじゃないはずだよ」
とっくにその情報を掴んでいたヴィーナは威勢よく言い返した。
国の立派な騎士がエリンを射止めたなら、身内として国から多少金をもらえるのではないかとさえヴィーナは考えていた。
そんな浅ましい考えを軽蔑するように、男は吐き捨てた。
「お前と違って出入り禁止にはなっていない。帰れ!」
「ふんっ。門番は出払っているよ。聖なる休日とやらの準備で町に出る神官たちの護衛に行ったのさ。鍵が閉まっていたって、乗り越えてしまえば門はあってないようなものさ」
聖なる休日が今日だとは知らず、ただ女と距離を縮めたい一心でここに来ていた男は驚いた。
門番は夕方になれば奥に引っ込むし、教会内も無人に近づく。
それ故、祈りの間にロベルしかいなかったことも、別に不思議に思わなかったのだ。
「教会が休みでも、ここが教会であることは変わらない!出入りは禁止だ」
ヴィーナは強引に男の横を通り過ぎようとした。
男は小屋に行かせまいと道の真ん中で立ちふさがった。
「何よ!どきなさいよ!」
「どうせ金だろう?そんなことで彼女に会わせるわけにはいかない!」
夕刻の鐘に負けじと、男が叫んだ。ヴィーナも引かなかった。
「あんたと違ってね、私はちょくちょくここに来ているし、身なりの良い男が出入りしていることも知っている。小遣いだってもらっている。お前はあの子に関わって暮らしていないだろう?私の方がよっぽど近いところにいる」
かっとして男はヴィーナの手を取って道を引き返そうとした。
夕刻の鐘が、けたたましい警鐘音に変わったのはその時だった。
二人は同時に町に視線を向けた。
小屋のある場所より門に近く、斜面のちょうど高い部分にいた二人には町の光景が良く見えた。
太陽の沈みかけた空の向こうに、煙があがり、町の通りを黒い大群が押し寄せていた。
その黒い大群は通りを左右にわかれ、見えなくなると、横道から炎がいたるところで上がり始めた。
破壊されていく町を見て、男は即座に国境を敵軍が突破したのだと思った。
敵に襲われたら、戦う術をもたない平民は殺されてしまう。
一変した町の光景を前に、呆然としていた二人は、通りを真っすぐに抜けてくる一団があることに気が付いた。
その道の延長線上に教会がある。
門番は不在で、錠はかかっているが、飲んだくれの女でも超えられてしまうような門だ。
男は小屋に向かって走り出し、ヴィーナも慌てて追いかけた。
小屋の前では女が息子を抱きしめ、震えながら立ち尽くしていた。
息子は無理やり下りたら女が転んでしまいそうで、動けないでいた。
「エリン!」
大きな男の声に、女は振り返り、駆け付けてきた男の胸に急いで息子を押しつけた。
「早く、ルカを連れて逃げて!急いで!」
女はまだ足を引きずっており、速くは走れない。
追いかけてきたヴィーナが後ろを振り向いた。
国境から流れてきた一団は、全員馬に乗り、恐るべき速さで迫っている。
「もう無理だ!隠れなきゃ!誰よ、あいつら!」
ヴィーナは悲鳴を上げ、足を踏み鳴らした。
火の手は上がり続け、いたるところで警鐘が鳴り響く。
聖なる休日は聖職者も全員町に出ている。
エリン達の様子をこっそり覗こうと近くまで来ていたロベルが、老人とは思えない脚力で走ってきた。
「右の壁に!」
ロベルの手には鍵束が握られていた。
最近錠前を新しくした扉が近くにある。
ルカを地面に置き、男は女の方を抱き上げた。
足を止めずに壁に向かうロベルの後ろに、息子、エリンを抱いた男、それからヴィーナが続く。
扉が近づき、ロベルは鍵束から一本の鍵を取り出した。
その時、扉の向こうから話し声がきこえてきた。
「まだ開かないのか?」
「静かにしろ!入ったら、騒がれる前に皆殺しだ。声をたてるな」
鍵束を握っていたロベルはずるりと手を滑らせ、鍵を落とした。
幸い、うっすらと積もった雪の中に落ちたため音はしなかったが、扉越しに聞こえた声に、一同が蒼白になった。
あたふたとロベルは鍵を探そうとしたが、枯れた草木に被さった雪の上に落ちた鍵は、思ったより深く沈み込み、すぐには拾えなくなっていた。
鍵束を手放しては隠れる場所がない。
「作業小屋の裏にある遺体安置所に向かう」
ロベルが小声でささやき、一同は無言で回れ右をして歩き出す。
男の腕に抱えられた女は、その足元を見て男の背中を拳で叩いたが、焦っている男は気づかなかった。
壁の外から聞こえる物騒な声と鍵を壊そうとする金属音に急かされ、一同は斜面を登り、作業小屋の裏に回った。
そこで何が行われたか知っている男とロベル、ヴィーナは顔をしかめたが、無言で閂を外し、鉄扉を開いた。
扉に積もっていた雪が地面に滑りおち、焦げ臭いにおいが地下から流れ出た。
音もなく、ロベルがまっさきに階段を下りた。
ヴィーナが駆けこむ。
女が男の腕から滑り降り、ルカを男に押し付けた。
「子供が先よ」
一瞬躊躇ったが、男はルカを支え地下に下りる。
「エリン、君も……」
早く来いと声をかけようとした時、大きな影が落ちてきた。
怯えて地上に逃げようとする息子を抱きしめ、男が声をあげる。
「エリン!何を!」
戻ろうとする男の服をヴィーナが飛びついて引っ張った。
「うるさい!静かにしてよ!」
外には敵の大群がいる。
軋んだ音を立てて鉄の扉が閉まった。
重い鉄の扉が大きな音を立て、扉と石枠の隙間がぴったりとふさがった。
通気口を塞いでいた木の板が外され、地上の光が少し差し込んだ。そこから女の声がした。
「雪の上に表からここまでの皆の足跡がついたままなの。ここに人が隠れているとわからないように、それを消しに戻るから奥に隠れていて。ルカを守って」
それに大声で答えるわけもいかず、男は通気口からエリンを見ようと伸びあがった。
しかしまたすぐに通気口に木の板が嵌めこまれ、光は遮断されてしまう。
「エリン!」
「見つかったら殺されるのよ?黙りなさいよ!」
大声を出す男の尻を蹴り上げ、ヴィーナはその服の裾をひっぱった。
怒りに振り返った男は、すぐに息子の存在を思い出し、その腕に抱き寄せた。
「ルカ、大丈夫だ」
何の根拠もない言葉だったが、息子は父親にしがみつく。
「ここは町を見おろす丘の上だ。東の街道も要塞の動きも見える。しかも教会の地下には宝があると、ある種の人間は信じている」
しわがれたロベルの声が奥から聞こえ、何かが崩れるような大きな物音がし始めた。
「ちょっと!音を出すなって言っているのよ!」
時間の経過と共に、恐怖が迫ってくる。
ヴィーナの囁き声は震えていた。
悪党たちは今頃、扉を壊し、中に入ってきているかもしれない。
すでにエリンを捕まえ、残りの人間がいることを知られたかもしれない。
あるいは、地下室を探してここにもやってくるかもしれない。
息を潜め、ここにいるだけで助かるだろうか。
生きた心地もしないような恐怖の中で、再び暗がりから大きな物音が響いた。
怒りより恐怖が勝り、ヴィーナはついに文句も言えず息を飲んだ。
暗がりに淡々とした男の声がした。
「ロベル様?ここから出る手段があるのですか?」
物音のした方へ慎重に進み、男は腕に息子を抱いたまま手を伸ばす。
ここだと知らせるように皺深い手が男の手に触れた。
「この死体を前に出してくれ。扉を開けたら見える位置に置いておく。人が入った痕跡を消すためだ。それから、そっちの焼け焦げた死体もその隣に置いておこう。
この奥にランプがあったはずだが、火が付くかな?エリンが時間を稼いでくれている間に早くやってしまわなければ」
何か考えがあるのだと気づき、ヴィーナも声のする方へ寄っていく。
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