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2.婚約破棄
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燭台には蝋燭を置く場所が五か所もある。
しかし実際に蝋燭が置かれているのは一か所だけだった。
蝋燭代まで節約しているシンシアの家の食卓は、貴族とは思えないほど貧しい。
水っぽいスープに、固いパン、それから萎びたチーズが一枚添えられている。
シンシアが獲物を取ってこなければ、血の滴るような肉は並ばない。
ところが、その日の夕食時、母親のクレアがとんでもなく高級そうなハムを並べだした。
「さあ、見て頂戴、今日はご馳走よ」
シンシアはその薄紅色の分厚いハムを見おろし、目をぱちくりさせた。
貧しい田舎貴族がこれを手に入れるとなれば、相応の借金をしなければならない。
「母さん?これは、どこから手に入れたの?」
心配顔の娘に、クレアはにっこりと微笑む。
「当然、あなたの婚約者、ヒース様からの贈物よ。ヒース様からは、お金ではなく自分自身を見て欲しいから、あなたには内緒にと言われていたのだけれども、婚約してから定期的にまとまったお金を送って頂いているのよ。
でももう結婚するのだから、秘密にすることもないでしょう?」
バーナとギルがさらに大きなお皿を運んできた。
「お嬢様にとのことで、こちらは高級なケーキですよ」
銀の皿から蓋が外され、色とりどりの砂糖菓子が溢れ出る。
シンシアはそれを呆然と見つめていた。
完全に退路を塞がれ、今更結婚を止めたいとはとても言えない。
心に思う人がいると告白したとしても、どんな人かと言われたら返答に困る。
窓から侵入してきて、自分を縛り付けて犯そうとうする男だと言えば、年老いた両親は心臓発作でも起こしかねない。
バーナとギルだって、老いた体に鞭打って、夜通し窓を見張ると言い出すだろう。
これから何十年も退屈な男に、毎夜「ボタンを外してもいいですか?」なんて聞かれながら服を脱がなければならないのだ。
ヒースだって気の毒だ。
見た目も良いし、お金持ちだし、ヒースにはもっと相応しい貴族令嬢がいくらでもいるというのに、妻にするのはどうしようもなく淫らな妄想を抱いたシンシアなのだ。
舌が蕩けそうになるほど美味しいハムやケーキをつまみながら、シンシアは夜ごと訪れる侵入者のことを考えた。
ヒースは城に住んでいる。さすがに野蛮な侵入者でも、見張りの兵士達がいる城の窓にまでは入ってこられないだろう。
あの甘美な夜は、もう二度と訪れないのだと思うと、あまりにも悲しすぎる。
シンシアは鼻をすすりながら、大きなハムに食いついた。
その夜も、また淫らな侵入者が部屋にやってきた。
シンシアは寝たふりをしながら、男の愛撫を受け入れ、まくり上げられたネグリジェの布地越しに、大きく揺れる男の陰を見上げていた。
なんて野蛮で乱暴な男だろうと思うが、そこがたまらなく好きだった。
さらって逃げて欲しいと言えたら、どれだけ良いだろうと思っているうちに、男がいつのものようにシンシアの上に種を吐きだした。
男はネグリジェの布越しに荒々しく唇を重ね、シンシアの濡れた突起を擦り上げた。
軽く達したシンシアは寝台を離れていく男に向かって、一瞬だけ手を伸ばした。
もしその手を取ってくれたら、飛び起きて抱き着いてしまおうかとさえ考えた。
ところが、男の陰はあっという間に遠ざかり、窓の向こうに消えてしまった。
それは、まだ夢だと思ったと言えるぎりぎりの行為であり、シンシアもまだ純潔だと言える体だった。
結婚を間近に控え、シンシアは初めて真剣に、このまま進んでいいのだろうかと考えた。
翌朝、シンシアはいつものようにこっそり裏から出て体を洗い、洗濯まで済ませて家畜を外に出した。
小さな牧場の隣には広大な森があり、そこを見下ろす山の中腹にヒースの城が見える。草原を漂う朝靄の向こうから、ようやく朝日が眩しい光を放ち始めた。
柵に腰を下ろし、日の出を見ていたシンシアは、ヒースのことを改めて考えた。
本当にこのまま結婚してもいいのか、答えが出ない。
しかし選択肢もないのだ。
この家や家族を守るためには、お金がいるし、後ろ盾もいる。
「シンシア!朝食が出来たわよ」
母親の声に呼ばれ、シンシアは振り返った。
貴族とは思えない粗末なエプロン姿で、雑草の中を母親のクレアが近づいてくる。
白髪が目立つが、優しそうな面差しでどことなく気品がある。
シャーロン家の血を継ぐクレアは貴族出身であり、その夫になったシンシアの父親はもともと農夫だった。
「シンシア、ヒース様が来られるかもしれないから、身支度を整えておいた方がいいわ。急ぎましょう」
シンシアは柵を滑り降り、母親に並んで歩きだした。
娘の浮かない表情に気づいた様子もなく、クレアはまるで自分が結婚するかのような華やいだ声をあげた。
「本当に夢のようね。良かったわ。あなたは、私達夫婦がもう子供は出来ないと諦めていた時に授かった子供だったから、その時点で私たちはもう若くなかった。あまり長く傍にいてあげられないし、残せるものといえば、朽ちていくばかりの家屋敷や、やせ細った家畜ばかり。
なんとか貴族の名前ぐらいは残してあげたいと思っていたの」
「結婚は……私のため?」
「当然よ。私たちはもう晩年だもの。細々と暮らしていければそれで良いわ。でも、あなたはこの先も長いし、女が一人で生きていくのは大変よ」
「待ってよ。でも、それじゃあ、バーナとギルの生活だってあるでしょう?」
「あの二人は、ずっとここに暮らしているのよ。家族のようなものじゃない。お給料だって、苦しい時はいらないと返しにくるぐらいよ。自給自足で生きていけるようにあれやこれや提案してくれて助かっているわ」
「そうなの?」
「貴族の称号を維持するにはお金がかかるの。それ以外は自給自足出来ているから」
「じゃあ、貴族は止めてもいいよ」
クレアは驚いて足を止める。シンシアは真剣な表情で真っすぐに母親を見た。
「好きな人がいるの。貴族じゃない。だから、この結婚がもし私のためだけだというなら、やめてもいいでしょう?」
「シンシア……いつの間に?そんな人がいたの?だって、そんなこと一言も言わなかったじゃない」
「そうだけど……。私たちの生活を助けてくれる人じゃないと、結婚出来ないと思っていたから。その人との結婚は考えたことがなかったの。でも……やっぱり忘れられなくて……」
その時、遠くからバーナの声が飛んできた。
「お嬢様!大変です!ヒース様がお見えになりました」
振り返ると、バーナが玄関の方から大きく手を振り、走ってくる。
「シンシア、私達のことは考えなくて良いから、自分にとって幸せになれる道を選びなさい」
慌てて行こうとするシンシアの腕を取り、クレアが告げる。
シンシアは心底ほっとして頷くと、玄関に向かって走りだした。
ヒースはいつものように、立派な馬を引いて待っていた。
紳士的なヒースの手により、馬に乗せられたシンシアは、のどかな田舎道を進み、緩やかな斜面を登った先にある花畑に下ろされた。
そこはヒースの領地の端にあり、やはり既にお茶の用意がされていた。
「朝食の用意をしておきました。実は、重要な話があるのです」
「ヒース様、私もお話しなければならないことがあります」
結婚の話がこれ以上進む前にと、シンシアは地面に跪き頭を下げた。
「す、すみません。あの……やはり結婚の話はなかったことにしてください」
さすがに張りつめた空気になり、ヒースは強張った顔で口を開いた。
「なぜです?」
「……好きな人がいます。その……身分の無い人で、乱暴ですが、愛情のある人です。家のために、結ばれないと思ってきましたが……こんな気持ちのままヒース様のもとに嫁ぐことは、やはりできません。婚約は白紙にして頂けないでしょうか……」
ヒースは悲しそうに大きなため息をついた。
「あなたの心に、誰か他の男性がいることはわかっていました。一緒に出掛けてもほとんど上の空で、私に関心があるように見えなかった」
「す、すみません」
「しかし、この話は無かったことにはできません。実は、結婚式は明日なのです」
「え?!」
「もう今更中止は出来ません」
青ざめるシンシアに、ヒースはふっと笑い、シンシアの手を取った。
「あなたを私に縛り付けるようなことはしません。結婚式だけは付き合ってください。
その後の事は、一緒に考えましょう。その人には待ってもらってください。そうですね……結婚後すぐに離縁しては私の評判に関わります。できれば一年は離縁を待ってほしいところです」
シンシアは突然の婚約破棄にも、声を荒げて怒ったりしないヒースに、申し訳ない気持ちでいっぱいになり、さらに低く頭を下げた。
この人を好きになれたらいいのにと思う気持ちもあったが、それはやはり難しかった。
「ヒース様、私の身勝手な気持ちをきいてくださり、ありがとうございます」
その夜、シンシアは名前も知らない侵入者のために手紙を書いた。
それを窓辺のテーブルに置き、野薔薇を飾った。
真夜中、窓が開く音が聞こえたが、男はシンシアの寝室に入ってこなかった。
封書を開き、手紙をめくる音が聞こえたかと思うと、すぐに窓を閉める音がして、屋根を伝う足音が遠ざかった。
寝台に横たわり、目を閉じたままその音を聞いていたシンシアは、起き上がって自分の言葉で待っていて欲しいと伝えるべきかと迷ったが、それを自由な男に強いることも出来ないとわかっていた。
翌朝、シンシアがテーブルを見てみると、そこに置かれていた手紙は消え、野薔薇もなくなっていた。
苔や雑草の生えている屋根の上には、大きな足跡が一つ残されていた。
約束通り、その日、ヒースは美しい馬車に乗ってシンシア家族を迎えにきた。
クレアは心配したが、シンシアは大丈夫だと頷いた。
妻から娘には他に好きな人がいるという話を聞いていた父親は、一体どんな気持ちでいればいいのかわからず困惑した表情だった。
娘の一生に一度の晴れ舞台だが、離縁が決まっている結婚式となれば、あまり喜ばしいことではない。
それぞれ複雑な心境ながらも、四人を乗せた馬車はヒースの一族が治めるレガード領に入り、あっという間に山の中腹にある巨大な城に到着した。
同じ貴族だとはとても思えないような立派なお城に、シンシアも両親もこんな家柄の方と結婚して離縁出来るのかと心配になったが、式自体はこぢんまりとしたものだった。
城内にある教会に集まったのは、ヒースとシンシアの家族だけだった。
シンシアは用意されていた純白のドレスを身に着け、ヒースの隣に並んだ。
式も簡素なもので、神父に促され、宣誓書に震える手で名前を書いただけで、結婚の手続きは終わってしまった。
この程度の式なら延期も出来たのではないかとシンシアは思ったが、その後の宴会では、さすがに延期には出来ない量の料理がふるまわれた。
豪華な食事が並んだ端の見えない長いテーブルの主役席に座ったシンシアは、参列してくれた人たちに申し訳なく、なんとなく顔をあげられなかった。
そんなシンシアの手を隣のヒースが優しく握った。
「シンシア、食事が始まったら少し席を抜けよう。これからの生活について打ち合わせをしておきたい。突然別れることになったら、両親や兄弟たちも心配するからね」
ヒースの言葉にシンシアは素直に頷いた。
全員が席に着き、宴の準備が整うと、ヒースが立ち上がり簡単な挨拶をした。それから全員で祝いのグラスを掲げ、あっさり宴が始まった。
次は何が始まるのかとシンシアは身構えていたが、誰かが挨拶に来るといったことも、会話を振られることもなかった。
淡々と食事が進む中、ヒースがシンシアの手を取った。
「さあ、シンシア、行こう」
主役が二人も抜けていいのだろうかとシンシアはちらりとテーブルを見回したが、こちらを見ている人はいなかった。
シンシアは、ヒースに連れられ広間を出た。
しかし実際に蝋燭が置かれているのは一か所だけだった。
蝋燭代まで節約しているシンシアの家の食卓は、貴族とは思えないほど貧しい。
水っぽいスープに、固いパン、それから萎びたチーズが一枚添えられている。
シンシアが獲物を取ってこなければ、血の滴るような肉は並ばない。
ところが、その日の夕食時、母親のクレアがとんでもなく高級そうなハムを並べだした。
「さあ、見て頂戴、今日はご馳走よ」
シンシアはその薄紅色の分厚いハムを見おろし、目をぱちくりさせた。
貧しい田舎貴族がこれを手に入れるとなれば、相応の借金をしなければならない。
「母さん?これは、どこから手に入れたの?」
心配顔の娘に、クレアはにっこりと微笑む。
「当然、あなたの婚約者、ヒース様からの贈物よ。ヒース様からは、お金ではなく自分自身を見て欲しいから、あなたには内緒にと言われていたのだけれども、婚約してから定期的にまとまったお金を送って頂いているのよ。
でももう結婚するのだから、秘密にすることもないでしょう?」
バーナとギルがさらに大きなお皿を運んできた。
「お嬢様にとのことで、こちらは高級なケーキですよ」
銀の皿から蓋が外され、色とりどりの砂糖菓子が溢れ出る。
シンシアはそれを呆然と見つめていた。
完全に退路を塞がれ、今更結婚を止めたいとはとても言えない。
心に思う人がいると告白したとしても、どんな人かと言われたら返答に困る。
窓から侵入してきて、自分を縛り付けて犯そうとうする男だと言えば、年老いた両親は心臓発作でも起こしかねない。
バーナとギルだって、老いた体に鞭打って、夜通し窓を見張ると言い出すだろう。
これから何十年も退屈な男に、毎夜「ボタンを外してもいいですか?」なんて聞かれながら服を脱がなければならないのだ。
ヒースだって気の毒だ。
見た目も良いし、お金持ちだし、ヒースにはもっと相応しい貴族令嬢がいくらでもいるというのに、妻にするのはどうしようもなく淫らな妄想を抱いたシンシアなのだ。
舌が蕩けそうになるほど美味しいハムやケーキをつまみながら、シンシアは夜ごと訪れる侵入者のことを考えた。
ヒースは城に住んでいる。さすがに野蛮な侵入者でも、見張りの兵士達がいる城の窓にまでは入ってこられないだろう。
あの甘美な夜は、もう二度と訪れないのだと思うと、あまりにも悲しすぎる。
シンシアは鼻をすすりながら、大きなハムに食いついた。
その夜も、また淫らな侵入者が部屋にやってきた。
シンシアは寝たふりをしながら、男の愛撫を受け入れ、まくり上げられたネグリジェの布地越しに、大きく揺れる男の陰を見上げていた。
なんて野蛮で乱暴な男だろうと思うが、そこがたまらなく好きだった。
さらって逃げて欲しいと言えたら、どれだけ良いだろうと思っているうちに、男がいつのものようにシンシアの上に種を吐きだした。
男はネグリジェの布越しに荒々しく唇を重ね、シンシアの濡れた突起を擦り上げた。
軽く達したシンシアは寝台を離れていく男に向かって、一瞬だけ手を伸ばした。
もしその手を取ってくれたら、飛び起きて抱き着いてしまおうかとさえ考えた。
ところが、男の陰はあっという間に遠ざかり、窓の向こうに消えてしまった。
それは、まだ夢だと思ったと言えるぎりぎりの行為であり、シンシアもまだ純潔だと言える体だった。
結婚を間近に控え、シンシアは初めて真剣に、このまま進んでいいのだろうかと考えた。
翌朝、シンシアはいつものようにこっそり裏から出て体を洗い、洗濯まで済ませて家畜を外に出した。
小さな牧場の隣には広大な森があり、そこを見下ろす山の中腹にヒースの城が見える。草原を漂う朝靄の向こうから、ようやく朝日が眩しい光を放ち始めた。
柵に腰を下ろし、日の出を見ていたシンシアは、ヒースのことを改めて考えた。
本当にこのまま結婚してもいいのか、答えが出ない。
しかし選択肢もないのだ。
この家や家族を守るためには、お金がいるし、後ろ盾もいる。
「シンシア!朝食が出来たわよ」
母親の声に呼ばれ、シンシアは振り返った。
貴族とは思えない粗末なエプロン姿で、雑草の中を母親のクレアが近づいてくる。
白髪が目立つが、優しそうな面差しでどことなく気品がある。
シャーロン家の血を継ぐクレアは貴族出身であり、その夫になったシンシアの父親はもともと農夫だった。
「シンシア、ヒース様が来られるかもしれないから、身支度を整えておいた方がいいわ。急ぎましょう」
シンシアは柵を滑り降り、母親に並んで歩きだした。
娘の浮かない表情に気づいた様子もなく、クレアはまるで自分が結婚するかのような華やいだ声をあげた。
「本当に夢のようね。良かったわ。あなたは、私達夫婦がもう子供は出来ないと諦めていた時に授かった子供だったから、その時点で私たちはもう若くなかった。あまり長く傍にいてあげられないし、残せるものといえば、朽ちていくばかりの家屋敷や、やせ細った家畜ばかり。
なんとか貴族の名前ぐらいは残してあげたいと思っていたの」
「結婚は……私のため?」
「当然よ。私たちはもう晩年だもの。細々と暮らしていければそれで良いわ。でも、あなたはこの先も長いし、女が一人で生きていくのは大変よ」
「待ってよ。でも、それじゃあ、バーナとギルの生活だってあるでしょう?」
「あの二人は、ずっとここに暮らしているのよ。家族のようなものじゃない。お給料だって、苦しい時はいらないと返しにくるぐらいよ。自給自足で生きていけるようにあれやこれや提案してくれて助かっているわ」
「そうなの?」
「貴族の称号を維持するにはお金がかかるの。それ以外は自給自足出来ているから」
「じゃあ、貴族は止めてもいいよ」
クレアは驚いて足を止める。シンシアは真剣な表情で真っすぐに母親を見た。
「好きな人がいるの。貴族じゃない。だから、この結婚がもし私のためだけだというなら、やめてもいいでしょう?」
「シンシア……いつの間に?そんな人がいたの?だって、そんなこと一言も言わなかったじゃない」
「そうだけど……。私たちの生活を助けてくれる人じゃないと、結婚出来ないと思っていたから。その人との結婚は考えたことがなかったの。でも……やっぱり忘れられなくて……」
その時、遠くからバーナの声が飛んできた。
「お嬢様!大変です!ヒース様がお見えになりました」
振り返ると、バーナが玄関の方から大きく手を振り、走ってくる。
「シンシア、私達のことは考えなくて良いから、自分にとって幸せになれる道を選びなさい」
慌てて行こうとするシンシアの腕を取り、クレアが告げる。
シンシアは心底ほっとして頷くと、玄関に向かって走りだした。
ヒースはいつものように、立派な馬を引いて待っていた。
紳士的なヒースの手により、馬に乗せられたシンシアは、のどかな田舎道を進み、緩やかな斜面を登った先にある花畑に下ろされた。
そこはヒースの領地の端にあり、やはり既にお茶の用意がされていた。
「朝食の用意をしておきました。実は、重要な話があるのです」
「ヒース様、私もお話しなければならないことがあります」
結婚の話がこれ以上進む前にと、シンシアは地面に跪き頭を下げた。
「す、すみません。あの……やはり結婚の話はなかったことにしてください」
さすがに張りつめた空気になり、ヒースは強張った顔で口を開いた。
「なぜです?」
「……好きな人がいます。その……身分の無い人で、乱暴ですが、愛情のある人です。家のために、結ばれないと思ってきましたが……こんな気持ちのままヒース様のもとに嫁ぐことは、やはりできません。婚約は白紙にして頂けないでしょうか……」
ヒースは悲しそうに大きなため息をついた。
「あなたの心に、誰か他の男性がいることはわかっていました。一緒に出掛けてもほとんど上の空で、私に関心があるように見えなかった」
「す、すみません」
「しかし、この話は無かったことにはできません。実は、結婚式は明日なのです」
「え?!」
「もう今更中止は出来ません」
青ざめるシンシアに、ヒースはふっと笑い、シンシアの手を取った。
「あなたを私に縛り付けるようなことはしません。結婚式だけは付き合ってください。
その後の事は、一緒に考えましょう。その人には待ってもらってください。そうですね……結婚後すぐに離縁しては私の評判に関わります。できれば一年は離縁を待ってほしいところです」
シンシアは突然の婚約破棄にも、声を荒げて怒ったりしないヒースに、申し訳ない気持ちでいっぱいになり、さらに低く頭を下げた。
この人を好きになれたらいいのにと思う気持ちもあったが、それはやはり難しかった。
「ヒース様、私の身勝手な気持ちをきいてくださり、ありがとうございます」
その夜、シンシアは名前も知らない侵入者のために手紙を書いた。
それを窓辺のテーブルに置き、野薔薇を飾った。
真夜中、窓が開く音が聞こえたが、男はシンシアの寝室に入ってこなかった。
封書を開き、手紙をめくる音が聞こえたかと思うと、すぐに窓を閉める音がして、屋根を伝う足音が遠ざかった。
寝台に横たわり、目を閉じたままその音を聞いていたシンシアは、起き上がって自分の言葉で待っていて欲しいと伝えるべきかと迷ったが、それを自由な男に強いることも出来ないとわかっていた。
翌朝、シンシアがテーブルを見てみると、そこに置かれていた手紙は消え、野薔薇もなくなっていた。
苔や雑草の生えている屋根の上には、大きな足跡が一つ残されていた。
約束通り、その日、ヒースは美しい馬車に乗ってシンシア家族を迎えにきた。
クレアは心配したが、シンシアは大丈夫だと頷いた。
妻から娘には他に好きな人がいるという話を聞いていた父親は、一体どんな気持ちでいればいいのかわからず困惑した表情だった。
娘の一生に一度の晴れ舞台だが、離縁が決まっている結婚式となれば、あまり喜ばしいことではない。
それぞれ複雑な心境ながらも、四人を乗せた馬車はヒースの一族が治めるレガード領に入り、あっという間に山の中腹にある巨大な城に到着した。
同じ貴族だとはとても思えないような立派なお城に、シンシアも両親もこんな家柄の方と結婚して離縁出来るのかと心配になったが、式自体はこぢんまりとしたものだった。
城内にある教会に集まったのは、ヒースとシンシアの家族だけだった。
シンシアは用意されていた純白のドレスを身に着け、ヒースの隣に並んだ。
式も簡素なもので、神父に促され、宣誓書に震える手で名前を書いただけで、結婚の手続きは終わってしまった。
この程度の式なら延期も出来たのではないかとシンシアは思ったが、その後の宴会では、さすがに延期には出来ない量の料理がふるまわれた。
豪華な食事が並んだ端の見えない長いテーブルの主役席に座ったシンシアは、参列してくれた人たちに申し訳なく、なんとなく顔をあげられなかった。
そんなシンシアの手を隣のヒースが優しく握った。
「シンシア、食事が始まったら少し席を抜けよう。これからの生活について打ち合わせをしておきたい。突然別れることになったら、両親や兄弟たちも心配するからね」
ヒースの言葉にシンシアは素直に頷いた。
全員が席に着き、宴の準備が整うと、ヒースが立ち上がり簡単な挨拶をした。それから全員で祝いのグラスを掲げ、あっさり宴が始まった。
次は何が始まるのかとシンシアは身構えていたが、誰かが挨拶に来るといったことも、会話を振られることもなかった。
淡々と食事が進む中、ヒースがシンシアの手を取った。
「さあ、シンシア、行こう」
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シンシアは、ヒースに連れられ広間を出た。
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