砂の地に囚われて

丸井竹

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9.消えた男

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乾いた風を頬に受けながら、アスタは窓辺の椅子に座っていた。
視線の先にはどこまでも続く砂丘があり、青い空がその向こうまで続いている。
アスタの手は、無意識にお腹の上に置かれている。

残念ながら、お腹の子供は順調に育っていた。
朝の定期検診を終え、医術師にそう告げられたばかりだった。

ダヤが奴隷から解放され、三か月が過ぎ、水女であるはずのアスタも、いつの間にか奴隷扱いをされなくなっていた。
侍女と護衛が付き、部屋の扉には鍵さえなかった。
その豪華な離宮の隅々まで、今のところアスタひとりのものだった。

ハカスが他に愛妾を作ってくれるよう願ったが、そんな噂も聞こえてこない。

それどころか、様々な贈り物が届き始めた。
それは、知らない間に積み上げられていき、今や一部屋が埋まっている。

「アスタ様、そろそろ身支度を整えませんと……」

侍女の一人が入って来て、恭しく頭を下げる。
奴隷の水女に丁寧な言葉を使うことが、砂の民にとって面白くない事だとわかる表情で顔をあげる。

侍女達はハカスの怒りを恐れ、アスタに手を挙げるような真似はしないが、その声音にはどうしても侮蔑の響きがこもる。

アスタは立ち上がり、浴室に向かう。
白い花を浮かべた浴槽には、美しい女性の像が置かれており、抱えている水瓶からお湯が流れ落ちている。

そのお湯もまた透明で、よく清められている。
王族が使うような浴室だったが、そんな贅沢な環境も、一人の男の気紛れで取り上げられてしまう。

そんな不確かなものに心を奪われても意味がない。
アスタは湯船に身を沈め、侍女たちが体を洗い終えるのを待った。

突然、浴室に男の姿が入ってきた。
身を隠すものもなく、アスタは咄嗟に彫刻の後ろに逃げる。
日々体を奪われても、ダヤ以外の男に体を見られることに慣れたわけではない。

「アスタ」

胸元を両腕で隠し、アスタは顔だけを覗かせた。

「あの、何かあったのですか?」

ハカスの機嫌を損ねれば、ダヤが痛めつけられるかもしれない。
憎しみを声に出さないように、気を付けて問いかける。

ハカスが浴槽に近づき、アスタの腕を取って、強引にお湯から引き出した。
侍女がすかさずタオル地のローブを差し出す。
それでアスタの体を巻き、横抱きにすると、ハカスは大股で歩き出す。

またこの男に抱かれることになるのだと思い、アスタは涙を堪え大人しくしている。
寝室に移動したハカスは、アスタを寝台に座らせた。

震えながら、アスタはローブの合わせ目を強く掴む。
無意識に脱がされまいと手に力が入る。

しかし逆らうことも出来ない。
唇を噛みしめ、屈辱に耐えながらローブを脱ごうとするアスタの手をハカスが止めた。

「アスタ、悪い知らせだ。今日、あの男が訓練を終え、初任務のために門の外に出た。
運良く砂魚が出て、それを狩ることに成功したが、その解体作業中に新しい砂魚が現れた。
今までのものより巨大で、特殊な形状の砂魚だったらしい。
初めての獲物に苦戦を強いられ、仕留めることが出来なかった。
その砂魚は餌を一つのみ込み、砂の中に消え去った」

手柄が欲しければ、危険に飛び込む必要がある。
勇敢に前に出たものが食べられたのだ。
窓の外に目を向け、アスタは呟くように言った。

「ダヤが飲まれて消えたのですね?」

ふらりと倒れるアスタの頭を支え、ハカスはその体を寝台に横たえた。

「アスタ、あの男とは、もう体の感覚は繋がっていないのか確認にきた。息苦しさなどはないか?」

「あの……まじないの効力はもうありません。祈らせてください。彼が……どこかの国に生きて拾われるように」

それでも、もう今度こそ会うことは出来ない。
ダヤは運ばれ、二度と砂地には戻らない。

「あの男のために、お前が祈ることを俺が許可すると思っているのか?」

アスタの上にのしかかり、ハカスはアスタのお腹をそっと撫でた。

「お前は俺の子を産むのだ。良いか、あの男が消えたとしても、俺が飽きるまでお前は俺のものだ」

ついにアスタを手に入れる準備が整ったと、ハカスは思った。
アスタは死んだような目で天井を見ている。
余計な男の陰は消え、アスタの心は空っぽになったのだ。
時間はかかるが、子供が生まれたらまた大きな変化が訪れる。

「アスタ、今度こそお前は俺のものだ」

そう口にしながら、ハカスはこの分ならばすぐにアスタに飽きるだろうと考えていた。
信念と愛を失ったアスタは、すぐに普通の奴隷のように従順な人形に変わってしまう。

ハカスにすがるしかない現実に気づき、捨てないでほしいと媚び始めるのだ。
そんな姿を見れば、胸に沸き上がる複雑な感情も消えるだろうとハカスは思った。

――




見たこともない巨大な砂魚の口に飲まれたダヤは、不可解な状況にあった。
喉の奥にはなぜか、ネットのようなものが張ってあり、ダヤの体は喉の下に落ちることなく舌の上に留まった。

さらに砂魚の牙もまた丸く人工的に削られ、ダヤが噛まれても潰されないように考えられている。
まるで人の手で改造された乗り物のような砂魚の口の中で、ダヤは背中を下の歯の一本に押し付け、ベルトで固定すると剣を腰にしまった。

砂魚の身体が上下に揺れ、地面に潜っていくような衝撃が襲ってきたが、息が苦しくなることもない。

やがて長い旅路の果てに砂魚の動きが止まった。
ふわりと体が浮かび上がるような感覚がおさまると、砂魚の口がゆっくり開き始める。
外から差し込んできたのは、明るい太陽の光ではなかった。

見たこともないような淡い青い光が視界を照らし出し、ひんやりとした空気が流れ込んでくる。
ダヤは腰の剣に手を添えたまま、砂魚の口から外に出た。

そこは水路の走る、薄暗い洞窟の中だった。

ぼんやりとしたその青い光の中で、ダヤは周囲の気配を探る。
殺気はないが、人の気配はある。

目を凝らしてみると、やっと光源らしきものを発見した。
それは壁にこびりついている青い苔だった。

壁全体に張り付いて光っているため、辺り一面が青い光に包まれて見えるのだ。
洞窟の壁沿いを走る水路にも青い光が反射し、辺りを明るく見せている。

そこに、遠くに感じていた人の気配が近づいてきた。
すぐにそちらを振り返ったダヤは、珍しく感情的な声を発した。

「まさか……」

青い光の中、水路沿いに小柄な人々が歩いてくる。
先頭は戦士の装いをした男達で、その後ろには女や子供の姿もある。

まるで町や村を焼け出されたようなみすぼらしい身なりで、肌は白く、髪は金色で、体格は細く小柄だった。

ダヤは、男達の装備に目を向けた。
見るからに使い古されたその装備は、あまりにもお粗末で、武器でさえ錆びつき、実戦に耐えられるとは思えないものだった。

戦闘になれば、多勢に無勢であっても、負けることはないだろうとダヤは確信を持った。
しかし果たして殺していいものだろうかと考える。

敵か味方かわからなければ、さっさと数人殺し、力を見せつけることこそが砂の民のやり方だ。

剣の間合いにあっさり入ってきた彼らは、一斉に足を止め、ダヤの右手に視線を向けた。
それに気づき、ダヤは自分の右手を持ち上げる。

そこには、アスタが刻んだ印が浮かび上がり、洞窟の光に共鳴するように青く光っている。
先頭の男達が顔を見合わせ、いっせいに膝をついた。

「シーラン国の王が誕生した!我らが王がついに現れた!」

戦士達の声に従い、後ろに隠れていた女と子供も急いで膝をつき、頭を下げた。

「王よ。お帰りなさいませ」

あまりのことに面食らい、ダヤは剣から手を放した。

「ここは?王とはどういうことだ?お前達は、何者だ?」

「あなたは予言の巫女アスターリアにより選ばれた、シーラン国の王。我が水の民の王です」

戦士の一人が一歩前に出て、恭しく頭を下げる。

「アスターリア?アスタのことか?確かに彼女の言葉によって、腕にこの印が刻まれたが、これは一体、何の意味がある?」

そう問いかけながら、ダヤはアスタがまじないをかけるときについた嘘を思い出した。
互いの命を繋げるまじないだと言ったが、そうではなかった。
アスタが一方的に痛みを受けることになるまじないだったのだ。
しかし、まじないの本当の効果が、それだけだったとは限らない。

命を賭けてでもダヤを守ろうとしたアスタが、そう簡単にダヤを守ろうとすることをやめるわけがない。
この印が消えていないことこそが、その確かな証だ。

「アスタは俺を……王と呼んだ。彼女だけの王なのだと思ったが、ここでは別の意味を持つということか?」

正面に立った戦士は表情を引き締め、頷いた。
まるで敗残兵の装いではあるが、その目には確かな希望が宿っていた。

「長い間、我ら水の民に王は不在でした。シーラン国とは大昔に滅びた祖国の名前です。もはやその国の名を知っているのは我らぐらいなものです。
国が存在するためには、王がいなければなりません。しかし、王を任命できる水の巫女を、火の国、オルトナ国に奪われてきました。それ故、国は数百年に渡り、滅ぼされたままだったのです」

ダヤの心臓が痛いほど鳴り出した。

「王を……任命できる水の巫女だと?」

前に進み出た水の民の戦士は、説明を続けた。

「はい。王を任命できる水の巫女は、予言の巫女と呼ばれます。
水を清めることのできる巫女は一度に複数生まれますが、その中の誰が予言の巫女であるのか、それが判明するのは、王が選ばれた時だけです。
オルトナ国に奪われていた水の巫女アスターリアは、砂の檻で王を見出した。
その印は、水の民の王たる能力が、予言の巫女の力により、あなたに備わった証。
あなたこそが数百年不在であった、水の民の王。どうか我らをお導き下さい」

いっせいに人々がさらに深く、ダヤに向かって頭を下げる。

「我らは、最後の一人になるまで王をお守りするために存在しています。それが我が水の民の使命。ようやく我らには道が出来た。王よ、どこまでもお供いたします」

アスタの一族全てがダヤの盾になり、ダヤを王として守り続ける。
それがアスタがダヤにかけたまじないの、本当の意味だったのだ。

砂の地に残してきたアスタを想い、ダヤは涙を堪え上を向いた。
握りしめた拳には爪が食い込み、血が滲む。

もっともアスタが安全だと思う場所にダヤは運ばれ、アスタだけが敵地に残された。
遠く故郷を離れ、心を殺されながら、アスタはどうやって生きられるのだろう。

「どうしたら戻れる?」

自分の民を手に入れたとしても、彼らもまた虐げられた者達だと一目でわかる。
国を失いオルトナ国にそんな大切な巫女を奪われているぐらいなのだ。

アスタも奴隷であり、身を守る術すら持っていなかった。
それなのに、ダヤを守ろうと王にした。

「王よ……我らがお守りします」

女も子供も同様に、戦士達に続きそう口にした。

「アスタ……俺に……何を託したのだ……」

上を向いたのに、涙が込み上げ、その熱い粒はダヤの頬を濡らして落ちていく。

青い光に包まれた、見知らぬ地下水路に立ち尽くし、ダヤは瞼の裏に、悲しそうなアスタの顔を見ていた。
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