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第一章 企み
8.魔獣の群れ
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ジェイスがリュデンを離れ数か月が経ち、季節は冬を迎えていた。
積雪量はそれほど多くはないが、広葉樹は全ての葉を落とし終え、尖った葉を茂らせた木々は身を寄せ合うように寒さに耐えている。
温かかった季節に比べて人通りは減ったが、西辺境のリュデンの朝市には相変わらずの行列が出来ていた。
ローゼの刺繍屋の前だった。
隣国のリトナ国が最果てに飲まれたと噂が広まり、幸運のお守りを求め多くの人々が押し寄せていた。
「あんたのお守りを持っていた人だけが生き延びたっていう話だよ」
刺繍を握りしめた異国の女がローゼに熱心な口調で話しかけた。
「そう、これだよ。この刺繍さ。この国の花だと聞いて探していたんだ」
多くの人に必要とされながらも、ローゼの心は満たされなかった。
刺繍を売りながら、ローゼは彼らがなぜそんなに運悪く死ぬことを嫌がるのだろうかとさえ思った。
用意してきた品物を売り終えると、買えなかった人に文句を言われながらローゼは店を畳んだ。
少しずつジェイスのことは記憶の中から遠ざかり、忘れていくものだと思ったが、それは間違いだった。
同じ答えしか得られないと知りながら、ローゼは再び占い屋の前に並んだ。
傷つくのが怖いくせに、ジェイスの姿が見たかった。
さらに浅ましくも、少しでも愛情が戻っていないか確かめずにはいられなかった。
ローゼの幸運の刺繍と同じぐらい裏通りの占い屋は人気で、今日も店の外にまで列がはみ出している。
しかし不思議なことに、ローゼの後ろに並ぶ人は現れなかった。
灰色の空からちらほらと白い雪が花びらのように舞い落ちる。
切り裂くような風の音が時折つむじ風を巻き上げ通りを抜ける。
分厚い外套に身を包み、両手に息を吹きかけながら待っていると、泥に濡れた地面がじゃりじゃりと音を立て始めた。日中わずかに緩んだ寒さは、すぐに凍てついたものに変わる。
長い時間をかけ、ローゼはやっと店内の占い部屋に辿り着いた。
最後の客がカーテンの向こうに吸い込まれると、窓の外では本格的に雪が降り始めた。
店の窓越しにそれを見上げ、ローゼは森の小屋はどうなっているだろうかと考えた。
あまり日の当たらない森の中では雪は消えずに積もり続ける。
ジェイスが万が一戻ることがあれば、足場の雪を取り除いておいた方がいいだろう。
真面目で責任感のある人だから、別れ話をするために戻ってくるかもしれない。
最後の客が出てきて、聞きなれた声がローゼを呼んだ。
「お入り」
ローゼはカーテンを押して占い部屋に入った。
丸テーブルに水晶玉が置かれ、向こう側からウェンが皺深い手をかざしている。
「ローゼ、またあの男のことだろう?また同じことを言わないといけないと思うと気が重いが、なんと今日は幾分気持ちが楽だよ」
肩を落としかけていたローゼは目を輝かせ、向かいに座った。
「あの男が戻って来るよ」
「本当に?!」
ローゼの声が跳ね上がった。
「でも、どうして?」
「生真面目な男だからね。責任を感じているね。ローゼ、何も言うんじゃないよ。ここで見たことは黙っていることだ。波風を立てず、穏やかに受け入れてやるといい。もし、まだ少しでも傍にいたいなら」
明るくなったローゼの表情がたちまち暗くなった。やはり別れ話をしに来るのだ。
「でも……ジェイスには幸せになって欲しい。私は消えた方が……ジェイスは幸せになれるのではない?」
「息抜きにくるんだよ。身分や立場に囚われると窮屈だからね。何もないあんたはちょうどいい骨休みになる」
ローゼは力なく俯き、「そっか……」と呟いた。
そうした立場には慣れていた。
それでも失うよりは良い。
都合の良い女として扱われてもいいから傍にいたい。
「必要と思ってもらえている間は一緒にいてもいいかな?」
「辛くなるよ?いつかは別れがやってくるからね」
ウェンは金色の小瓶をテーブルに置いた。
「幸運を授けてやると良い。危険な戦場に行くようだ」
ローゼが瓶の中身を飲み干すと、ウェンはもう一本置いた。
「体の具合はどうだい?」
「何も……変わらないと思う」
少し間をおいて、ウェンはもう一本同じ小瓶をテーブルに置き、ローゼはそれも躊躇いもなく飲みほした。
「今日のお代はいらないよ。ローゼ、最果ての隣にある魔の森の話は聞いたことがあるだろう?」
魔法使いの塔が建つ魔法資源の豊富な危険な森だ。最近は物騒な噂ばかりが聞こえてくる。
「今度素材を取りにいくからね。この町を離れることになる」
「手伝う?」
ウェンは意味ありげにローゼの顔をまじまじと眺めた。
それからゆっくり首を横に振った。
「その時は頼むよ」
ローゼは席を立ち店を出た。
雪は止んでいたが、地面にはうっすらと雪が積もり、通りは真っ白になっていた。
宿に向かう前に、ローゼは市場に寄って糸を購入した。
素材屋の女が首を傾ける。
ローゼはこの辺りでは有名な幸運の刺繍売りだが、その刺繍の色遣いは高級感のある金色から赤や緑、紫と多彩なもので、絵柄も絵画のように美しいと評判だった。
ところがローゼが購入する糸は生成りの染まっていないものなのだ。
「色物は他で買っているので?」
店の女が問いかけると、ローゼは曖昧に首を横に振った。
買い物を終え、宿に向かったローゼは道途中で黒山のひとだかりに遭遇した。
近づいてみると、門の前に立派な馬車が止まっている。馬車を守ってきたらしい傭兵たちの姿もある。
「大変だ!そこの森に魔獣が沸いた!」
それは王都からやってきた商人達であるらしく、集まってきた人々に熱心に語っていた。
「魔獣が出た!角狼と灰色アイデンベアだ!」
誰かが冬は魔獣が出現しやすいと口を挟むと、それとは違うと商人が叫んだ。
「東の魔の森の影響で変形したやつに似ていた。群れだった……。魔の森で騎士団が総出で狩るような規模だ。俺達は王都から来たから知っている。あれだ。魔の森と同じだ。俺達は命からがら逃げて来たんだ!」
ここの森まで魔の森のようになっては大変だと人々は騒ぎ出す。
ローゼも心配になった。
森にはジェイスと住んでいた小屋がある。
万が一ジェイスが荷物を取りに戻れば事情を知らず、凶悪な魔獣に襲われる可能性がある。
それに、心は通わなかったかもしれないが、ローゼにとっても大切な思い出の場所だ。
その時、一人の女がローゼを見つけて大声をあげた。
「あ、あんた!刺繍売っているよね。お守りのやつさ!売っておくれよ!」
「俺にも!持ってないのかい?」
突然町の人々に迫られ、ローゼは慌てて後退る。
「ご、ごめんなさい。今日は売れ切れました!明日、また市場で売りますので!」
ローゼは逃げ出したが、人々は宿まで押しかけた。
階下から騒ぎは困ると訴える宿の主人の声が聞こえると、ローゼは窓から外に抜け出した。
厩舎の屋根に滑り降り、梯子で地面に下りると、仕方なく森へ向かう。
通いなれた道だったが、雪は足首まで積もり、景色も冬になる前と変わっている。
魔獣騒ぎは本当だったらしく、街道沿いに兵士が集まっているのが遠目に見えてきた。
血まみれの魔獣の死骸も道端に転がっている。
ローゼは道を逸れ、さっさと森に足を踏み入れた。
雪のせいで歩きにくくはなったが、視界を遮る茂みや草は枯れ、日があるうちは迷う心配がない。
小屋が近づいてきた時、突然、膝まで雪に埋まった。
木々が密集し、日が当たりにくい場所は雪も積もりやすい。
足を雪の中から引き上げながら、一歩ずつ進む。
白い息を吐きながらしばらく進み、やっと小屋が見えてくると、ローゼはほっとして足を止めた。
その時、小屋の裏から伸びた影が大きく動いた。
ローゼは占い師にジェイスが戻ってくると言われたことを思い出した。
「ジェイス?」
その声に反応するように、影に潜んでいたものが日の当たる場所に頭を突き出した。
ローゼは、反射的に悲鳴をあげた。
黒い毛皮に額から出た大きな角、太い四肢を持ったその獣の背丈はローゼの胸辺りまである。
二本脚になれば立っているローゼを頭から食べることさえ可能だ。
それは見たことも無いほど大きな角狼だった。
確かにこの大きさはこの辺りでは見たことがない。
森の魔力量が変化したのだ。
ローゼは恐怖に押され、足を上げて逃げようとした。
しかし雪が深く、上手く動けない。
ここで死ぬのだとローゼは思った。
春になる前に死体は食べられ消えてしまう。
そうなれば、ローゼはこの世界に存在しなかったことになる。
ふと、ローゼはそれでいいような気がした。
生まれなかったことにしよう。
この世界にいなかったことになれば、全てはまるくおさまる。
逃げようとしていたローゼの足が前に進んだ。
一歩、また一歩と獣に近づく。
獰猛な唸り声をあげ、鋭い牙をむき出しにしていた獣も動いた。
姿勢を低くし、太い足が前に出る。
その目は魔力を湛え、赤く光っている。
「ぐるるるるっ」
立派な角と見事な毛皮だ。
食べてもらえば彼らの冬の貴重な食料になるだろう。
向かってくる獣から一歩も逃げず、ローゼは立ち止まる。
その時、強い力がローゼの体を雪の中から引き揚げた。
「ローゼ!後ろにいろ!」
そのままローゼの体は雪の中に放り投げられる。
ローゼは腹ばいになりながら顔をあげた。
目の前に大きな男の背中があった。
薄暗い森の中で、雪は自然光を跳ね返し、逞しい男の姿を鮮明に浮かび上がらせる。
男が剣を引き抜き、その刃が宙で光った。
同時に角狼が走り、鋭い音が鳴る。
雪面を叩くような鈍い音が響き、ローゼの前に角狼の首がごろりと落ちた。
胴体は突然現れた男の向こうにある。
さらに男は雪の中で足を引き上げながら、小屋の方へ向かう。
数頭の角狼が物陰から現れた。
積雪量はそれほど多くはないが、広葉樹は全ての葉を落とし終え、尖った葉を茂らせた木々は身を寄せ合うように寒さに耐えている。
温かかった季節に比べて人通りは減ったが、西辺境のリュデンの朝市には相変わらずの行列が出来ていた。
ローゼの刺繍屋の前だった。
隣国のリトナ国が最果てに飲まれたと噂が広まり、幸運のお守りを求め多くの人々が押し寄せていた。
「あんたのお守りを持っていた人だけが生き延びたっていう話だよ」
刺繍を握りしめた異国の女がローゼに熱心な口調で話しかけた。
「そう、これだよ。この刺繍さ。この国の花だと聞いて探していたんだ」
多くの人に必要とされながらも、ローゼの心は満たされなかった。
刺繍を売りながら、ローゼは彼らがなぜそんなに運悪く死ぬことを嫌がるのだろうかとさえ思った。
用意してきた品物を売り終えると、買えなかった人に文句を言われながらローゼは店を畳んだ。
少しずつジェイスのことは記憶の中から遠ざかり、忘れていくものだと思ったが、それは間違いだった。
同じ答えしか得られないと知りながら、ローゼは再び占い屋の前に並んだ。
傷つくのが怖いくせに、ジェイスの姿が見たかった。
さらに浅ましくも、少しでも愛情が戻っていないか確かめずにはいられなかった。
ローゼの幸運の刺繍と同じぐらい裏通りの占い屋は人気で、今日も店の外にまで列がはみ出している。
しかし不思議なことに、ローゼの後ろに並ぶ人は現れなかった。
灰色の空からちらほらと白い雪が花びらのように舞い落ちる。
切り裂くような風の音が時折つむじ風を巻き上げ通りを抜ける。
分厚い外套に身を包み、両手に息を吹きかけながら待っていると、泥に濡れた地面がじゃりじゃりと音を立て始めた。日中わずかに緩んだ寒さは、すぐに凍てついたものに変わる。
長い時間をかけ、ローゼはやっと店内の占い部屋に辿り着いた。
最後の客がカーテンの向こうに吸い込まれると、窓の外では本格的に雪が降り始めた。
店の窓越しにそれを見上げ、ローゼは森の小屋はどうなっているだろうかと考えた。
あまり日の当たらない森の中では雪は消えずに積もり続ける。
ジェイスが万が一戻ることがあれば、足場の雪を取り除いておいた方がいいだろう。
真面目で責任感のある人だから、別れ話をするために戻ってくるかもしれない。
最後の客が出てきて、聞きなれた声がローゼを呼んだ。
「お入り」
ローゼはカーテンを押して占い部屋に入った。
丸テーブルに水晶玉が置かれ、向こう側からウェンが皺深い手をかざしている。
「ローゼ、またあの男のことだろう?また同じことを言わないといけないと思うと気が重いが、なんと今日は幾分気持ちが楽だよ」
肩を落としかけていたローゼは目を輝かせ、向かいに座った。
「あの男が戻って来るよ」
「本当に?!」
ローゼの声が跳ね上がった。
「でも、どうして?」
「生真面目な男だからね。責任を感じているね。ローゼ、何も言うんじゃないよ。ここで見たことは黙っていることだ。波風を立てず、穏やかに受け入れてやるといい。もし、まだ少しでも傍にいたいなら」
明るくなったローゼの表情がたちまち暗くなった。やはり別れ話をしに来るのだ。
「でも……ジェイスには幸せになって欲しい。私は消えた方が……ジェイスは幸せになれるのではない?」
「息抜きにくるんだよ。身分や立場に囚われると窮屈だからね。何もないあんたはちょうどいい骨休みになる」
ローゼは力なく俯き、「そっか……」と呟いた。
そうした立場には慣れていた。
それでも失うよりは良い。
都合の良い女として扱われてもいいから傍にいたい。
「必要と思ってもらえている間は一緒にいてもいいかな?」
「辛くなるよ?いつかは別れがやってくるからね」
ウェンは金色の小瓶をテーブルに置いた。
「幸運を授けてやると良い。危険な戦場に行くようだ」
ローゼが瓶の中身を飲み干すと、ウェンはもう一本置いた。
「体の具合はどうだい?」
「何も……変わらないと思う」
少し間をおいて、ウェンはもう一本同じ小瓶をテーブルに置き、ローゼはそれも躊躇いもなく飲みほした。
「今日のお代はいらないよ。ローゼ、最果ての隣にある魔の森の話は聞いたことがあるだろう?」
魔法使いの塔が建つ魔法資源の豊富な危険な森だ。最近は物騒な噂ばかりが聞こえてくる。
「今度素材を取りにいくからね。この町を離れることになる」
「手伝う?」
ウェンは意味ありげにローゼの顔をまじまじと眺めた。
それからゆっくり首を横に振った。
「その時は頼むよ」
ローゼは席を立ち店を出た。
雪は止んでいたが、地面にはうっすらと雪が積もり、通りは真っ白になっていた。
宿に向かう前に、ローゼは市場に寄って糸を購入した。
素材屋の女が首を傾ける。
ローゼはこの辺りでは有名な幸運の刺繍売りだが、その刺繍の色遣いは高級感のある金色から赤や緑、紫と多彩なもので、絵柄も絵画のように美しいと評判だった。
ところがローゼが購入する糸は生成りの染まっていないものなのだ。
「色物は他で買っているので?」
店の女が問いかけると、ローゼは曖昧に首を横に振った。
買い物を終え、宿に向かったローゼは道途中で黒山のひとだかりに遭遇した。
近づいてみると、門の前に立派な馬車が止まっている。馬車を守ってきたらしい傭兵たちの姿もある。
「大変だ!そこの森に魔獣が沸いた!」
それは王都からやってきた商人達であるらしく、集まってきた人々に熱心に語っていた。
「魔獣が出た!角狼と灰色アイデンベアだ!」
誰かが冬は魔獣が出現しやすいと口を挟むと、それとは違うと商人が叫んだ。
「東の魔の森の影響で変形したやつに似ていた。群れだった……。魔の森で騎士団が総出で狩るような規模だ。俺達は王都から来たから知っている。あれだ。魔の森と同じだ。俺達は命からがら逃げて来たんだ!」
ここの森まで魔の森のようになっては大変だと人々は騒ぎ出す。
ローゼも心配になった。
森にはジェイスと住んでいた小屋がある。
万が一ジェイスが荷物を取りに戻れば事情を知らず、凶悪な魔獣に襲われる可能性がある。
それに、心は通わなかったかもしれないが、ローゼにとっても大切な思い出の場所だ。
その時、一人の女がローゼを見つけて大声をあげた。
「あ、あんた!刺繍売っているよね。お守りのやつさ!売っておくれよ!」
「俺にも!持ってないのかい?」
突然町の人々に迫られ、ローゼは慌てて後退る。
「ご、ごめんなさい。今日は売れ切れました!明日、また市場で売りますので!」
ローゼは逃げ出したが、人々は宿まで押しかけた。
階下から騒ぎは困ると訴える宿の主人の声が聞こえると、ローゼは窓から外に抜け出した。
厩舎の屋根に滑り降り、梯子で地面に下りると、仕方なく森へ向かう。
通いなれた道だったが、雪は足首まで積もり、景色も冬になる前と変わっている。
魔獣騒ぎは本当だったらしく、街道沿いに兵士が集まっているのが遠目に見えてきた。
血まみれの魔獣の死骸も道端に転がっている。
ローゼは道を逸れ、さっさと森に足を踏み入れた。
雪のせいで歩きにくくはなったが、視界を遮る茂みや草は枯れ、日があるうちは迷う心配がない。
小屋が近づいてきた時、突然、膝まで雪に埋まった。
木々が密集し、日が当たりにくい場所は雪も積もりやすい。
足を雪の中から引き上げながら、一歩ずつ進む。
白い息を吐きながらしばらく進み、やっと小屋が見えてくると、ローゼはほっとして足を止めた。
その時、小屋の裏から伸びた影が大きく動いた。
ローゼは占い師にジェイスが戻ってくると言われたことを思い出した。
「ジェイス?」
その声に反応するように、影に潜んでいたものが日の当たる場所に頭を突き出した。
ローゼは、反射的に悲鳴をあげた。
黒い毛皮に額から出た大きな角、太い四肢を持ったその獣の背丈はローゼの胸辺りまである。
二本脚になれば立っているローゼを頭から食べることさえ可能だ。
それは見たことも無いほど大きな角狼だった。
確かにこの大きさはこの辺りでは見たことがない。
森の魔力量が変化したのだ。
ローゼは恐怖に押され、足を上げて逃げようとした。
しかし雪が深く、上手く動けない。
ここで死ぬのだとローゼは思った。
春になる前に死体は食べられ消えてしまう。
そうなれば、ローゼはこの世界に存在しなかったことになる。
ふと、ローゼはそれでいいような気がした。
生まれなかったことにしよう。
この世界にいなかったことになれば、全てはまるくおさまる。
逃げようとしていたローゼの足が前に進んだ。
一歩、また一歩と獣に近づく。
獰猛な唸り声をあげ、鋭い牙をむき出しにしていた獣も動いた。
姿勢を低くし、太い足が前に出る。
その目は魔力を湛え、赤く光っている。
「ぐるるるるっ」
立派な角と見事な毛皮だ。
食べてもらえば彼らの冬の貴重な食料になるだろう。
向かってくる獣から一歩も逃げず、ローゼは立ち止まる。
その時、強い力がローゼの体を雪の中から引き揚げた。
「ローゼ!後ろにいろ!」
そのままローゼの体は雪の中に放り投げられる。
ローゼは腹ばいになりながら顔をあげた。
目の前に大きな男の背中があった。
薄暗い森の中で、雪は自然光を跳ね返し、逞しい男の姿を鮮明に浮かび上がらせる。
男が剣を引き抜き、その刃が宙で光った。
同時に角狼が走り、鋭い音が鳴る。
雪面を叩くような鈍い音が響き、ローゼの前に角狼の首がごろりと落ちた。
胴体は突然現れた男の向こうにある。
さらに男は雪の中で足を引き上げながら、小屋の方へ向かう。
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