文月さんと私

今日子

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「ふぁ…。」
「随分とお疲れな様子ですね。」
「あっ、文月さん。お疲れ様です。」
大きな欠伸をして、間抜けな声が漏れる私に、文月さんはそう告げる。
もうすぐ日が変わる。外はもう真っ暗で、月が高く登っている。夜も深まった頃に、私は彼に出会った。使用人たちの静かな足音が響いている。静かなようで、でも少しだけ賑やかな、私たちの時間。
「少し、失礼しますね。」
文月さんは手袋を外して、大きな手を私の額に当てた。あったかくて大きなそれに包まれた私はまた、彼の温もりのせいで眠気が一層強くなってしまった。
「よかった…。もう、熱くないですね。」
文月さんは安心したようにほっと息をつく。文月さんに迷惑をかけてしまったのは、やっぱり申し訳なかったけど、彼に心配してもらったのは、やっぱりちょっとだけ、嬉しかった。坊ちゃんばかりの文月さんの中に、少しだけ入れた気がして。きっと、塩みたいにちっぽけだけど、それでもいい。独り占めしたいだなんて、欲張りな事は言わないから、今だけは…今だけは、ほんの少し彼の中に居たかった。
「私、そんなに弱くないですよ…?だからほら、そんな顔しないでください。」
「…まったくもう。そんなこと言って、道端で野垂れ死んでいたのは、どこの誰ですか?」
「…それは。」
「あなたは子供…いや、女の子なので。守られてください。あまり無茶はせずに…わかりましたか?」
女の子。ただの子供じゃなくて、女の子。女の子…。おんなのこ。
「…どうされましたか?」
嬉しかった。たぶん、今までで一番だって、自信を持って言えるくらい。嬉しくて仕方がなかった。まだ、子供だけど。でも私は、女の子。きっと、か弱くて夢見がちな、そういう女の子じゃないけど…文月さんからは、少しだけ、そう見えているのかもしれない。私は嬉しかった。文月さんが私を、ただの子供じゃなくて、女の子として見てくれていること。こんなの、ちっぽけなことだし、勘違いかもしれない。でも、それでも良い。
「そんなにニヤニヤして…何か良いことでもあったんですか?」
「…はい。」
文月さんのせいだなんて、絶対に言えない。でも、口から溢れて漏れてしまいそうなくらい、私は嬉しくて、嬉しくて、嬉しくてたまらなかった。
「もしかして、まだ熱が残っているんじゃ…?」
「なっ、それは無いです!平気です!」
「本当ですかね…?」
「はい。」
「あなたはいつも、そうやってはぐらかすんですから…。隠すならもっと、上手くやりなさい。」
「そんなの…無理ですよ。」
文月さんに隠し事をするなんて、出来る訳が無い。すぐに見破られて、見透かされる。だけど、この気持ちだけはなんとか、隠しておきたい。誰にも知られたくないし、誰にも見せたくない。だって、私の恋心はきっと綺麗な形じゃない。壊れて繋がって、また壊れる。それを繰り返していればきっと、私の恋心は完全な別物になる。それはきっと、私の気持ちじゃない。
「文月さんには、全部。全部全部、バレちゃいますから。」
「…そうですか。」
文月さんは笑った。優しいけど、寂しそうな、いつもの笑顔で。

「って、文月さん!手、大丈夫ですか!」
「…え?」
「ほら…あかぎれ。大変なことになっちゃってますよ。あぁもう、こっちはひび割れになっちゃってるし…。もう。」
「あの、春美さん。このくらい自分で…。」
「そうやって、全部自分でなんでもやろうとするんですから…!だから…あの。」
「少しくらい、頼って欲しいです。私が言うのも、あれですけど…でも。」
「心配、です。迷惑かもしれない、だけど、それ以上にあなたが心配です。」
「…春美さん。」
「いいから早く、医務室行きますよ!ほら…。」
私は咄嗟に自分の右手を差し出した。下心と言えば、確かに間違いは無いけれど、それでも私は確かに彼が心配だった。彼のことなんて、何一つも知らないから、何も分からない。それでも私は。

彼の役に立ちたかった。

「えっと…確かここに、あ、あった!」
私は戸棚の上にある救急箱に手を伸ばした。確か、消毒液と絆創膏と、とにかく大抵の必需品は入っているはずだ。
「そんな風に背伸びをしたって、あなたは届かないですよ。こういうのは、私にお任せ下さい。」
「あっ、ちょ、文月さん。」
文月さんはそう言うと、戸棚の上の救急箱を軽々しく取ってみせた。
「…すみません。」
「いえいえ。高いところは、私にお任せ下さいね。」
「…はい。ありがとうございます。」
またもや、お世話になってしまった。迷惑なのは初めからわかっていたけれど、やはり今更引き返すなんてことはできない。だってそのくらい、文月さんに私は世話になっている。せめてもの感謝は、ただの自己満足かもしれないけど、私は彼に少しだけでも、尽くしたい。
「文月さん、手…出してください。」
「…」
文月さんは静かに右手を差し出した。でも、私の狙いはそれじゃない。そんなの、文月さんなら分かっているはずだ。
「文月さん、左手もです。」
「…わかりました。」
文月さんは渋々と私に両手を差し出した。至る所が赤くなって、皮膚が割れて、切れている。
「もう…ボロボロじゃないですか。」
私はポケットから咄嗟にハンドクリームもを取り出して、少し固くなったキャップをなんとかこじ開けて、チューブの中身を取り出した。華やかなスミレの香りがツンと鼻をさす。なんだか秋なのに、春を感じさせる、そういう不思議な感覚が私の中を通り抜けていく。
「文月さん…痛く、ないですか?」
「…ええ。」
文月さんは優しく私を見つめている。そんな文月さんと目をあわせるなんてこと、もちろん恥ずかしくて出来ない。私は文月さんの大きい手に触れて、クリームを優しく塗り込みながら、なんとか自分の高鳴る鼓動を鎮めようと必死だった。
「春美さんは、面倒見が良いですよね。」
「…え?」
不意の一言に思わずクリームを塗り込む手が止まりそうになる。そのくらい文月さんは、突然ヘンなことを言い出す。本当に、いつまで経っても、彼のことはよくわからない。
「それを言うなら、文月さんの方じゃないですか?だってほら、坊ちゃんとか桜子ちゃんに、言うことを聞かせるのも得意だし、使用人たちを束ねて指示を出してるところも、よく見ますし。」
「そうですかね…?」
「はい…。本当に、すごいです。文月さんは何でも器用にこなしていて、何でも完璧で本当に…」
「そんなに褒めても…何も出ませんよ?ほら。手、止まっていますよ。」
「あぁ…すみません。」
文月さんは魔性だ。言葉の紡ぎ方や連なり方ですら気品があって、私を夢中にさせる。彼の所作や仕草はやっぱり、執事らしく丁寧で上品で、いつまで経っても見とれてしまう。

「よしっ、あとは絆創膏を貼って…。」
「出来ました。文月さん、痛く、無いですか…?染みたり、チクチクしたり…。」
「…はい。わざわざ、ありがとうございました。」
「いえ…こちらこそ。」
文月さんとの間に沈黙が流れる。彼の手の傷を癒すことは出来たけど、やっぱりその先が、どうすれば良いのかわからない。
「あ、あの…!」
「…どうされましたか?」
「昨日は、ありがとうございました。夕食の支度の時に、指に絆創膏、巻いてくれて。」
「私、文月さんのお陰で、自分でも出来るようになったんです。だから今、恩返しが出来て…いやあの、そんな大袈裟なことじゃ、ないかもしれないんですけど。」
「文月さんの役に少しだけ、立てた気がして。思い違いだったら、無視してくれて、構わないんですけど…。」
私は、恥ずかしくて前が向けなかった。ただ、自分のスカートをぎゅっと握りしめて、そのヘンな面を彼に見せないよう必死だった。でも、そんな姿を見られても良いくらい、彼にお礼がしたかった。
「…思い違いなんかじゃ、ありませんよ。」
「…え?」
「ですから」

「顔をあげてください。せっかくの、可愛らしい顔が、勿体ないですよ。」
文月さんはそう言って、私の頬に優しく触れた。傷だらけだけど、いつもと同じであったかい、文月さんの手だった。
「ありがとうございます…。春美さんに言われなかったら、きっと放っておいてました。」
「なっ、ダメですよ!自己管理は使用人の基本だって、文月さんが私に教えたんじゃないですか。」
「…それも、そうですね。」
「もう…。ふふっ…。」
思わず、笑みが零れてしまった。溢れ出る愛情や恋心はどうにか出来るかもしれないし、隠したい。だけど。笑みだけは、笑顔だけは隠したくなかった。だって、文月さんが教えてくれたから。笑顔は使用人の基本。毎日笑顔で居なさい。常に笑って居れば、きっと、そばに居る誰かを、笑顔にすることができるから。
「やっぱりあなたは、笑顔が似合いますよ。」
「それは、文月さんも同じですよ。」
「文月さんが言ったんじゃないですか。いつでも笑顔で居なさいって。」
「…そうですね。」
文月さんは優しく微笑んだ。たぶん、それはきっといつもと同じ、子供の私を見る笑顔で。でも私はそれでよかった。文月さんが笑顔でいてくれるなら、自分のことなんてどうでもよかった。

怒った文月さんも、笑った文月さんも、呆れた顔をする文月さんも、私はどんな文月さんも大好きだ。月みたいにころころ姿を変えながらみんなを照らす文月さんが、私は大好きだ。文月さんが月なら、私は星になりたい。文月さんが居ないときも、文月さんの代わりになりたいし、文月さんと一緒にみんなを見守りながら照らしたい。こんなの、叶わない願いだけど、願うのにきっと、誰かへの許可なんて要らないから、私は願いたい。夢を見るくらいは、女の子なんだから、したっていいじゃない。

「文月さん。」
「…どうしましたか?」
「いつも…ありがとうございます。」
「…?」
文月さんは不思議そうな瞳で私を覗き込む。彼の美しい瞳に吸い込まれそうになる自分を抑えながら、私は続けた。
「私…文月さんと出会ってから、色んなことを知れて。たくさんの人に出会えて、たくさんのものに触れて。」
「自分の知らない世界に、少しだけ飛び出せた様な、そんな気がしたんです。」
「私、ずっと狭い所で生きてきたから、生き方なんて、何一つ知らなくて、何一つ分からなくて。」
「でも、文月さんが、それを全部教えてくれました。わからないところも、難しいところも、全部全部丁寧に、ひとつずつ、教えてくれました。」
「文月さんが居たから、今の私があります。空っぽだった私を満たしてくれたのは…文月さん、文月さんです。」
「…春美さん。」
文月さんはほんの少し目線を逸らした後、軽く呼吸をして、私の瞳を射止めた。
「そんな、別れの挨拶のような戯言を言って、どこか遠くにでも飛び出すおつもりですか…?」
「…え?」
文月さんは私の右手首をギュッと掴んだ。苦しいけど、苦しくない。強いけど、強くない。そういう、文月さんの握り方で。
「そんなのは…私が許しませんから。」
「…え?」
文月さんの力がいっそう強くなる。だけどたぶん、逃げようとしちゃいけない。きっとこの、強い力には意味がある。
「あなたは私の大切な部下ですから。勝手にどこかに行こうなんてしたら…容赦はしません。例えどんな手段を使っても、あなたを取り戻してみせます。」

「狙った獲物は逃さない。それが私の、
私なりの、流儀ですから。」

「…文月さん。」
文月さんの目はやっぱり、怖かった。でもそれはきっと、私のことを少しでも思ってくれているからで。だから私は、彼に微笑み返した。彼に、笑って欲しかったから。
「もうどこにも、行かないです。私は生涯、七条家の使用人です。」
「…そうですか。」
文月さんは私の手を解放すると、すぐさま立ち上がって、医務室を後にしようとした。
「あっ、ちょ、文月さん!待ってください。」
私はすぐさま文月さんの背中を追いかけた。大きくてたくましくて、だけど優しい文月さんの背中を。

「もう、私を試すような真似は、しないでくださいね?」
「…え?」
文月さんは立ち止まる。そして私の髪に手を伸ばし、ゆっくりと頭を撫でた。
「愛情は、少なくとも、あなたが大人になるまでは。私が目一杯注いで、溢れるくらいに満たしてあげますから。」
「ですから」

「あなたも、甘えたって、構わないんですよ。」
文月さんは笑った。私の大好きな、宝石みたいな、月みたいなきらきらとした、だけど静かで儚い、そういう、文月さんの笑顔。甘え方なんて、何も分からない。だけど。文月さんが喜んでくれるなら、文月さんの役に立てるなら、私は何だってする。
私は文月さんの手の温もりに負けて、思わず、彼に身を預けてしまった。全身から力が抜けて言って、体が軽くなるのを、感じて。私の意識はいつもより甘い夜に溶けていった。

「…まったく。本当に手のかかる女の子なんですから。」
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