微笑

原口源太郎

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第一章

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 雅彦はそれほどその車に執着があるわけではなかった。元々、前の会社の名残といった車で、今の自分には必要の無いものだと思っていた。家族四人で移動するのなら国産の中古車で十分だ。
 妙子は納まらなかった。別に見栄があるわけではなく、車には興味がなかったが、このまま泣き寝入りの形で終わってしまうのが気に入らなかった。一週間前に隣の家が放火されたばかりだ。これからまた何かが起こるかもしれない。どんな人間が何の為にこんなことをしたのか。放火犯人と同一人物なのだろうか。得体の知れない人物が家の周りをうろついている。それが妙子には気に入らなかった。
 雅彦の家では一年前から犬を飼っているが、住宅地の中で飼う犬で、コリー犬だが、大人しい犬だった。娘の有希のために買い与えた犬で、とても可愛がっている。滅多に鳴かない犬だが、昨日は珍しく二、三回吠えていた。その時に何かおかしいと気付くべきだった。

 雅彦が家を出たときは昼を過ぎていた。会社へ向かうタクシーの中で雅彦は考えた。
 誰が何のために車をメチャメチャにしたのだろうか。特別、自分に恨みを持つような人物は思い当たらない。自分ではわからずに人から嫌われていることもあるだろうが、普通の人間が家の前のガレージに停めてある車をスクラップにするだけの大胆なことができるだろうか。行き当たりばったりに行われたことではない。物音を立てずにあれだけのことをしたのだから、十分な時間を取り、それなりの道具を揃えてきたに違いない。車のガラス一枚を叩き割るにしても、ただハンマーで叩くだけでなく、毛布や座布団をガラスの上に被せて叩くようなことをしたのだろう。
 雅彦の、目を閉じた瞼の裏にのっぺらぼうの男の姿が蘇ってきた。つるつるした男のお面のような顔。目も鼻も口もない。
 あの男がやったのだろうか。放火はあの男の仕業かどうかわからない。もしあの男が放火と車を壊した犯人なら、気が狂っているとしか思えない。計画的な犯行にしろ、一週間前に放火があったばかりで、夜の警戒も強まっていてやたらなことはできないはずだ。
 あの男はどういう男だろう。ただの通りすがりの人間かもしれない。明るい太陽の下で見れば、どうってことのない普通の男かもしれない。
「お客さん、起きて下さいよ」
 不意に雅彦はタクシーの運転手から声をかけられた。眠っていると思われたらしい。
 雅彦は寝ぼけたような虚ろな表情でタクシーを降りた。

 その日の夜、雅彦はまた悪夢を見た。
 夜だった。
 雅彦は車の中で眠っていた。目の前で自分の家がごうごうと燃えている。
 炎の中に男の姿が浮かび上がる。炎を背にして男のつるりとした白い顔がわかる。雅彦は車のドアを開けて逃げようとするが、ドアは開かない。男に襲われるという恐怖が体中を支配する。手がガクガクと震えて思うように力が入らない。
 男の顔がフロントガラスに引っ付いた。のっぺらぼうだった。男の顔が溶けるようにフロントガラスに広がっていく。
 フロントガラスから離れた男が大ハンマーを振り上げた。
 車が激しく揺れる。ドアがボコン、ボコンと室内にせり出してくる。ガラスは粉々にならずにひび割れたままひしゃげて、雅彦に迫ってくる。天井も、ボコン、ボコンと迫ってくる。
 のっぺらぼうの男がにやりと笑った。目も口も無いのに、ニヤリと笑っているのが雅彦にはわかる。
 車はどんどん押し潰され、身動きが取れないほどになる。これ以上潰されたら死んでしまう。体に鉄板が食い込んでくる。ハンマーの響きが、体にめり込んでくる。
 雅彦は悲鳴を上げようとしたが、声が出ない。体は蛇のように細く押し潰されてしまった。鉄屑の中でくねくねとのたうち回っている。
 男がポリタンクから油を、蛇になった雅彦にドボドボと掛けた。
 男がマッチを取り出す。
 蛇になった雅彦は口をいっぱいに広げて恐怖の叫びを出そうとする。

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