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第四章
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妙子の死から一カ月が経った。妙子は即死だった。四人の運の悪い犠牲者の魂と共に妙子は天に上った。
妙子とトラックの運転手、歩道で信号待ちをしていた高校生二人とサラリーマン一人。その五人が一カ月前の事故で死んだ。重軽症者は合わせて二十一人にも及んだ。追突などで壊れた車は五台。交差点周辺の交通は一日麻痺した。
呪われた一家に訪れた惨劇は、妙子の前代未聞の死によって幕を閉じたように思われた。それからの一カ月、雅彦の身の周りは静かだった。のっぺらぼうの男は最初から存在しなかったかのように身を潜めてしまった。男は妙子と二人の子供の死で満足してしまったのかもしれない。
妙子の死の数日後に、小さなアパートに引っ越した。だだっ広く大きな家は一人になってしまった雅彦には辛すぎた。
のっぺらぼうの男の姿が見えなくなったかわりに、雅彦には多忙な日々が待っていた。事故に巻き込まれて死亡したり、怪我をした人たちへの補償問題で、昼間は家に居る暇もないほどだった。引っ越しの荷物も半分は手付かずになっている。
妙子が引き起こした惨劇だったが、妙子が正常でなかったことははっきりしている。どの程度、雅彦に事故の責任があるのか、今のところ全くわからない。長くなりそうだった。何年も裁判を続けなければならないかもしれないと思うと憂鬱になった。
藤森の家族には顔向けできない。客間で子供たちの写真を見ている時に後ろから妙子に刺されたらしい。藤森にはまだ幼い子供がいた。
毎日の頭痛は耐えるのに限界だった。頭痛薬は何の役に立たないように思えた。雅彦はもう、死んでもいいと思った。生きる希望も喜びも無かった。
几帳面で綺麗好きだった雅彦も、一人で暮らすようになって堕落した生活を送るようになった。夕暮れに誰もいない部屋に帰ってくると、毎日安い酒をあおった。家族がいるときは、たまに妙子と軽く飲む程度だった。
毎日妙子や有希、翔太の事を思い出さずにはいられなかった。一人でいることがたまらなく辛かった。人恋しくならずにはいられなかった。どうしようもない寂しさを紛らわせるためにぐいぐいと酒をあおった。いつもまずい酒だった。ただ無理矢理酔っぱらうためにうまくもない酒を胃袋に流し込んだ。酔っ払っても気は晴れなかったが、何もせずにぼんやりしていると、それこそ気が狂いそうだった。
妙子の死から四十日が過ぎ、秋は冬に変わっていた。
その日は朝からよく晴れて気持ちのいい日だった。目が覚めた時、いつもより頭痛が和らいでいるような気がした。
久しぶりにやることがないまま一日ぶらぶらと過ごし、紫に染まっていく窓の色に誘われるかのようにウイスキーのキャップを開けた。しかし二、三口飲んだグラスをそのままにして、一カ月も手付かずになっていた荷物の荷解きと整理と行った。
紫だった窓が、どっぷりとした夜とネオンの色に変わる頃、ドアをノックする音がして、雅彦はびくっと体を震わせた。このアパートに来てから訪問者、それも夜に訪れる者などいない。隣の部屋をノックした音が聞こえたのではないだろうかと考えた。
すぐにもう一度はっきりとしたノックの音がした。
「こんばんわー」
二度目のノックの音に続いて聞こえてきた、どこかぶっきら棒な声は中村だ。
雅彦はドアを開けた。
中村が何となく照れくさそう笑って、手に持った酒の一升瓶をひょいっと上げてみせた。
「たまには嫌なことを忘れて一杯どうですか?」
「私は嫌なことを忘れるために毎晩飲んでいますよ。さ、どうぞ中へ」
雅彦は中村を小さなテーブルひとつの部屋に招き入れた。
妙子とトラックの運転手、歩道で信号待ちをしていた高校生二人とサラリーマン一人。その五人が一カ月前の事故で死んだ。重軽症者は合わせて二十一人にも及んだ。追突などで壊れた車は五台。交差点周辺の交通は一日麻痺した。
呪われた一家に訪れた惨劇は、妙子の前代未聞の死によって幕を閉じたように思われた。それからの一カ月、雅彦の身の周りは静かだった。のっぺらぼうの男は最初から存在しなかったかのように身を潜めてしまった。男は妙子と二人の子供の死で満足してしまったのかもしれない。
妙子の死の数日後に、小さなアパートに引っ越した。だだっ広く大きな家は一人になってしまった雅彦には辛すぎた。
のっぺらぼうの男の姿が見えなくなったかわりに、雅彦には多忙な日々が待っていた。事故に巻き込まれて死亡したり、怪我をした人たちへの補償問題で、昼間は家に居る暇もないほどだった。引っ越しの荷物も半分は手付かずになっている。
妙子が引き起こした惨劇だったが、妙子が正常でなかったことははっきりしている。どの程度、雅彦に事故の責任があるのか、今のところ全くわからない。長くなりそうだった。何年も裁判を続けなければならないかもしれないと思うと憂鬱になった。
藤森の家族には顔向けできない。客間で子供たちの写真を見ている時に後ろから妙子に刺されたらしい。藤森にはまだ幼い子供がいた。
毎日の頭痛は耐えるのに限界だった。頭痛薬は何の役に立たないように思えた。雅彦はもう、死んでもいいと思った。生きる希望も喜びも無かった。
几帳面で綺麗好きだった雅彦も、一人で暮らすようになって堕落した生活を送るようになった。夕暮れに誰もいない部屋に帰ってくると、毎日安い酒をあおった。家族がいるときは、たまに妙子と軽く飲む程度だった。
毎日妙子や有希、翔太の事を思い出さずにはいられなかった。一人でいることがたまらなく辛かった。人恋しくならずにはいられなかった。どうしようもない寂しさを紛らわせるためにぐいぐいと酒をあおった。いつもまずい酒だった。ただ無理矢理酔っぱらうためにうまくもない酒を胃袋に流し込んだ。酔っ払っても気は晴れなかったが、何もせずにぼんやりしていると、それこそ気が狂いそうだった。
妙子の死から四十日が過ぎ、秋は冬に変わっていた。
その日は朝からよく晴れて気持ちのいい日だった。目が覚めた時、いつもより頭痛が和らいでいるような気がした。
久しぶりにやることがないまま一日ぶらぶらと過ごし、紫に染まっていく窓の色に誘われるかのようにウイスキーのキャップを開けた。しかし二、三口飲んだグラスをそのままにして、一カ月も手付かずになっていた荷物の荷解きと整理と行った。
紫だった窓が、どっぷりとした夜とネオンの色に変わる頃、ドアをノックする音がして、雅彦はびくっと体を震わせた。このアパートに来てから訪問者、それも夜に訪れる者などいない。隣の部屋をノックした音が聞こえたのではないだろうかと考えた。
すぐにもう一度はっきりとしたノックの音がした。
「こんばんわー」
二度目のノックの音に続いて聞こえてきた、どこかぶっきら棒な声は中村だ。
雅彦はドアを開けた。
中村が何となく照れくさそう笑って、手に持った酒の一升瓶をひょいっと上げてみせた。
「たまには嫌なことを忘れて一杯どうですか?」
「私は嫌なことを忘れるために毎晩飲んでいますよ。さ、どうぞ中へ」
雅彦は中村を小さなテーブルひとつの部屋に招き入れた。
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