エースはまだ自分の限界を知らない

草野猫彦

文字の大きさ
39 / 44
高校一年生・夏

39 少年は荒野をめざす

しおりを挟む
 吉村がベンチで安堵の溜め息をついている間に、白富東のナインはグラウンドに散らばっていく。
 マウンドの直史は、真っ青な空を見上げた。
(暑いな。吉村の投球もたいしたもんだし、ベンチで休んでられる時間は、あんまり長くないだろうな)
 準々決勝はともかく、昨日の準決勝も暑かった。
 よくもまあ九回まで、岩崎は投げきったものである。


 今更であるがあの展開なら、直史は完全にベンチで休んでいても良かった。疲労は残っているわけではないが、必要以上に疲れたくない直史である。
(まあ今日勝てば甲子園まで少し時間はあるわけだし、延長戦にはならないだろうしな)
 吉村は大介との勝負を選択した。
 エースとして大介を打ち取る展開が必要だったのだろうが、たとえランナーがいなくても、大介の脅威は変わらない。
 大介なら一点は取ってくれる。あとは自分が完封すればいい。


 投球練習が終わった直史に、ジンが近付いてくる。
「どったの? 調子は?」
「いや、今日も暑くなりそうだなって。甲子園のマウンドはもっと暑いんだろ? 正直約束がなければ行きたくない」
「お前、この期に及んで何言ってんの?」
 呆れるジンに対し、直史は溜め息をつく。
「それに、さっき気付いたんだけど」
 珍しく深刻そうな顔をする直史に、ぎょっとしてジンは顔を近づける。


「――お前らさ、施設にいる間、オナニーってどうしてたの?」
 腰砕けになりそうなジンであるが、直史の表情は真面目である。
「んなの……我慢すればいいだけだろが……」
 とりあえず本当のことを言うしかないジンである。
 だが、直史にとっては重要な問題だ。


 そう、ルーティンのほとんどをしっかりと行う直史だが、集団生活の中で唯一、気を遣っていることがある。
 オナニーである。別名自慰。またはマスターベーション。
「俺は普段、最低でも三日に一度の割合で抜いてるんだけど、準々決勝前から数えると、もう六日も抜いてないんだよ」
「……便所で抜けば良かっただろが。紙も流せるし。それに一週間ぐらい、我慢すればいいだろ」
「俺はオカズがないとダメなタイプなんだよ。我慢だって出来なくはないけど、出来るだけ同じ間隔で抜いてたんだぞ。そろそろどっかがおかしくなるかもしれない」
 そんなもんでおかしくなるか、と叫びたいジンである。はあ、と溜め息をつきたくなりつつも、投手の不安は解消しなければいけない。
「精巣で生産された精子は、放出されないかぎり体内に吸収されるそうだ」
「それは知ってるんだけど、甲子園に行ったらかなり長く泊り込むだろ?」
「お前、甲子園で優勝するつもりかよ。つか、そんな心配より、目の前の心配をしてくれよ」


 ジンは暗澹たる思いで頭を振る。 
 うすうす気付いていたというか、何度もそうだろうとは思ったが、やっと確信した。
 佐藤直史という少年は、頭がおかしい。 
「そっちは心配するな。一点もやらないつもりで投げるから、リードは頼むぞ」
「お、おう」


 訳の分からない悩みを相談の後に、急に矛盾するような目標を掲げる。
 おそらく本人の中でだけは、ちゃんとつながりがあるのだろう。
 なんとなくもう、ジンは直史に慣れてきていた。
(要するに、パーフェクトが出来る組み立てをしろってことだろ。やってやるよ!)


 打席に立った一番。こいつは春と同じだ。
 平凡なストレートを内角に要求。それに対して直史は平然と頷く。
 そして投じられた130kmのインハイの球を見送り、一番は愕然とした。


 この決勝の第一打席の打者に、カーブやジャイロを持つ投手が、普通のストレートを内角に入れてくる。
 コースは良かったしキレてはいたが、今のは打てた。
 こちらが完全に見てくると読んでいなければ、投げられない球である。
(こいつら……一年生のガキが!)
 二球目は全く同じコース。打つ気ならば打てる。
 そう思って振ったバットの根元に当たったカットボールは、ファースト正面に転がった。
 まず二球で、先頭打者を葬った。






 春と同じく、一番はあまり球数を放らせず、積極的に打っていった。
 あの時はベンチで注意を受けていたようだが、今日は普通に報告している。
 つまり、早打ちの指示が出ている可能性がある。


 まあ妥当だな、とジンも思った。
 直史の球種を全て確認しようと思ったら、それだけで試合が終わってしまう。
 それにジャイロをゾーンに投げ込まれれば、分かっていてもまず打てない。


 続く二番。春と同じく粘り強い打者だ。
 あまり球種を見せていたら、色々と分析されるだろう。
(まあ分析しても、打てないだろうけどさ)
 ジンの考える限り、直史が負ける要因が少なすぎる。
 いくら吉村がいい投球をしても、おそらく大介が一点は取ってくれる。
 そして直史が偶然の単打はともかく、一点を取られる状況が思いつかない。
 それこそ四球とエラーが積み重なりでもしない限り。


 スライダー、チェンジアップ、ジャイロで三球三振。
 次の吉村は、打者としては才能だけで打っているタイプだ。
 カーブを三種類使って三球で三振。
 パーフェクトの立ち上がりである。






 序盤は予想通りの投手戦になった。
 吉村はストレート主体ながら、時折混ぜてくるチェンジアップで、白富東打線を翻弄した。
 対する直史も四番黒田を六球使って三振に取った後は、三回まで連続三振。
(やっぱり空振りが取れる球種があると、安心感が違うな)
 のんびりとそう考えているが、両者パーフェクトピッチング。
 特に直史の方は、八者連続三振であり、黒田以外は全て三球三振である。


 予想以上の直史の投球に、勇名館古賀監督は、内心の焦りを表に出さないことでせいいっぱいだった。
 速い球が打てないというのは、ごく普通の常識である。
 すごい変化球が打てないというのも、まあ常識の範疇である。
 だがすごい変化球を二つ以上持っているというのは、いくらなんでも反則だろう。


 人間の肉体の持つリソースには、当然ながら限界がある。
 スピンをかける球の適性を持つ選手は、抜いて投げる球が不得意である場合が多い。
 球速を求めれば、コントロールは低下する。
 ある変化球を極めれば、他の変化球が投げにくくなるのが普通なのだ。多様な変化球が投げられるとして知られた投手でも、プロまで行くとある程度絞ってそれを磨く。
 だが佐藤直史の投球術は、トーナメントを戦っていく上では、凄まじく有効だ。
 プロならば何年にも渡って、何度も対戦することがあるだろう。だがこの少年の持つ変化球には、初見殺しがいくつもある。
 一度きりの勝負であれば、ピッチャー有利。そんな思考の下で変化球を磨いてきたことが、はっきりと分かる。


 中学時代のスコアをなんとか手に入れようとしたが、そもそも公式戦は全て初戦敗退。サンプル数が少なすぎる。
 その中でも気付いたのは、圧倒的な自責点の少なさ。
 また一イニングあたりにおける大量失点の少なさ。
 粘り強い。春はそう感じたが、この三ヶ月ほどの間で、別人のように進化している。
(だがそれでも――)
 古賀は祈る。最後には祈るしかない。
 せめて、選手たちが全てを出しきれるようにと。






 四回の表、白富東の攻撃。
 大介の二打席目の前に、白富東も動く。
 打席の手塚、ストライク先行の吉村に対して、初球から強振。
 都合よくヒットにはならないが、ファールとはいえいい打球が飛んだ。
(春と違って、ちゃんとストレートに目がついていってる)
 東郷は驚くしかない。三番と四番以外は、雑魚としか言えなかった打線だ。
 それがちゃんと吉村の球に当ててくる。色々と指導陣が変わったのは聞いていたが、この短期間でここまで変わるものか。
(まあでも、これぐらいなら普通の強豪もやってくるさ)
 二球目、内角へのストレートに、手塚はバントを仕掛ける。
 しかしそれも予測済み。ファーストとサードが猛烈なチャージ。
 バットを引くしかなく、ツーストライク。


 ここでセオリーなら、一球外すというのもあるが、それは相手の打者を警戒してのこと。
 このレベルには必要ない。もっとも甘くも見ない。スプリットを膝元へ。
 カットにきたバットは触れもせず、三球三振である。


 二番はキャッチャーの大田。
 東郷の分析によると、この打者には基本的に、打者としてのセンスがない。
 それなりにヒットも打つし、出塁率が低いわけではないが、おそらくそれはキャッチャーとしての読みによるものだ。
 単純に、荒れたストレートで押せばいい。気分次第の変化球でも打ち取れる。
 ボール球を一つ見て、ファールを打ったのは感心したが、そこまでだ。
 スプリットで三振。


 問題は次の打者だ。
(どうしてよりにもよって、この時代のこの場所に――)
 そう神を呪いたくなるほどの、圧倒的な才能。
 三番ショート白石。
 吉村には言われてないが、古賀監督は東郷に言っていた。
 ホームランさえ打たれなければ上等だと。


 内外の、かなり際どいゾーンぎりぎりを狙わせる。
 それもあくまでも全力で。置きにいったら打たれる。
 スライダーとスプリットを余裕で見逃され、ボールツー。
 高い位置にあるマウンドに立つ吉村を、完全に見下ろしている小さな巨人。
(チェンジアップを外に外して、内角にストレート……でもその後は、投げる球がない……)


 吉村は東郷のリード通りに、チェンジアップを外に外した。
 さっき打ち損ねたその球種を、大介は余裕で見送る。
(動じてないが……ここで勝負にいけないなら、どこかで負ける!)
 渾身のストレートを、吉村は胸元に投げ込む。
 長いバットを使っている大介が、器用に腕を畳んで、弾き返す。


 一直線。打球は弾丸ライナーとなって、右中間のフェンスを直撃した。
 俊足の大介だが、最初から深く守っていた外野からの、三塁への送球は早い。
 二塁で止まったその姿を、マウンドの吉村は震えながら見つめた。 

        
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

幽縁ノ季楼守

儚方ノ堂
キャラ文芸
「季楼庵当主の代理を務めてもらう」 幼少期、神隠しにあった過去を待つ青年ユメビシ。 迷い込んだ先で、事件に巻き込まれ両手を失い、生死を彷徨うことに。 ただ「死にたくない」と望んだ願いは、ある故人の手を移植することで実現した。 これを境に不死の体質へと変貌したユメビシは、約70年の時を経て、因縁の土地『瞑之島(みんのとう)』へ帰還する。 しかし、どうして今自分がここにいるのか、その理由となる記憶がすっぽり抜け落ちた状態で……。 奇妙な忘却に焦りを抱えながら、手がかりを求め探索するさなか、島の中枢を担う組織『季楼庵(きろうあん)』の面々と関わりを持ち、次々と巻き起こる騒動に身を投じていくのだった。 現代において、人と人ならざる者が共存する瞑之島を舞台に、半ば強制的に当主代理に据えられたユメビシの非日常。 異色の現代ファンタジー✖️和風奇譚✖️ミステリー 様々な思惑が交錯する中、彼の帰還を以て、物語は一つの結末へ動き出す。 その約束は、何十年何百年経ち、たとえ本人達が覚えていなくとも。 幽かな縁で繋がり続け、決して解けない糸となる。 それを人は、因縁――またの名を『呪い』と呼ぶのだった。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

旧校舎の地下室

守 秀斗
恋愛
高校のクラスでハブられている俺。この高校に友人はいない。そして、俺はクラスの美人女子高生の京野弘美に興味を持っていた。と言うか好きなんだけどな。でも、京野は美人なのに人気が無く、俺と同様ハブられていた。そして、ある日の放課後、京野に俺の恥ずかしい行為を見られてしまった。すると、京野はその事をバラさないかわりに、俺を旧校舎の地下室へ連れて行く。そこで、おかしなことを始めるのだったのだが……。

煙草屋さんと小説家

男鹿七海
キャラ文芸
※プラトニックな関係のBL要素を含む日常ものです。 商店街の片隅にある小さな煙草屋を営む霧弥。日々の暮らしは静かで穏やかだが、幼馴染であり売れっ子作家の龍二が店を訪れるたびに、心の奥はざわめく。幼馴染としてでも、客としてでもない――その存在は、言葉にできないほど特別だ。 ある日、龍二の周囲に仕事仲間の女性が現れ、霧弥は初めて嫉妬を自覚する。自分の感情を否定しようとしても、触れた手の温もりや視線の距離が、心を正直にさせる。日常の中で少しずつ近づく二人の距離は、言葉ではなく、ささやかな仕草や沈黙に宿る。 そして夜――霧弥の小さな煙草屋で、龍二は初めて自分の想いを口にし、霧弥は返事として告白する。互いの手の温もりと目の奥の真剣さが、これまで言葉にできなかった気持ちを伝える瞬間。静かな日常の向こうに、確かな愛が芽吹く。 小さな煙草屋に灯る、柔らかく温かな恋の物語。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

俺を振ったはずの腐れ縁幼馴染が、俺に告白してきました。

true177
恋愛
一年前、伊藤 健介(いとう けんすけ)は幼馴染の多田 悠奈(ただ ゆうな)に振られた。それも、心無い手紙を下駄箱に入れられて。 それ以来悠奈を避けるようになっていた健介だが、二年生に進級した春になって悠奈がいきなり告白を仕掛けてきた。 これはハニートラップか、一年前の出来事を忘れてしまっているのか……。ともかく、健介は断った。 日常が一変したのは、それからである。やたらと悠奈が絡んでくるようになったのだ。 彼女の狙いは、いったい何なのだろうか……。 ※小説家になろう、ハーメルンにも同一作品を投稿しています。 ※内部進行完結済みです。毎日連載です。

裏切りの代償

中岡 始
キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。 尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。 取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。 自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。

処理中です...