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文学少女が文学的ビンタと文学的セックスをする話

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 彼女にとって「文学」とは暴力であった。


 だからさっきからずっと得意げに文学論を延々と語らっている彼の横っ面を思いっきりぶっ叩いてやったのも、当人としては最大級の思いやりと純粋な真心そのものでしかなかったのだ。

 破裂音。
 手の平に発生する衝撃は熱量そのものの感触。

 何らの遠慮会釈も無い、全力のビンタを食らった彼は呆然とただこちらを見ている。
 

 何故?


 という言葉がそのまま浮かび上がっている。
 でもそれはこちらのセリフだった。

 なぜ、そんな顔で自分を見るのか。
 どうしてそんな意外そうな、さも想定外のことが起こって処理しきれていないかのような茫然自失とした表情をして虚ろなまなざしをこちらに向け続けるのか。

 まるでとんでもない間違いを見るような視線。
 あまりにも大きな誤認と誤謬、錯誤だけで構成された果てしない造形物を前にして途方にくれているかのような胡乱で愚鈍な表情。


 その何処までも不躾で非礼な態度に苛立ちが沸いてくる。
 止め置きようも無い怒りが太く力強い脈動を起こしながら奮い立ってくる。


 彼が望むままに「文学」をきちんとやってみせただけではないか。
 今この瞬間、対峙した男と女が文学を体現せしめようとしたらこうする以外には何もありえないではないか。

 文学を語るとはそういうことであるし、文学を実践するとはそういうことに他ならない。
 あらゆる作品や資料、学術講義によって培われた知識と理性はそうはっきりと答えを導き出していた。
 なによりつい先ほどまで彼が目の前で開陳し続けた豊かな語彙と情感たっぷりの演説を聞いてますますそう確信したのだ。


 殴るしかない。


 ありとあらゆるフラグメンツが一つのベクトルを形成したのだ。
 完全無欠で正確無比、単純にして深奥なる宇宙の法則を示す方程式のようにぴっちりかっちりと彼女の中で完成した答え。


 暴力しかない。


 ただそれを現してやっただけなのに。
 開陳してみせただけなのに。


 それなのに彼が表出させたのは全く場違いで見当違いの醜悪な有り様。
 何処をどう見ても正しいところなどひとかけらも無い、およそ「間違い」というものの完璧な再現であり体現でしかなかった。


 もはや失敗したのは明らかであった。
 どちらにとっても全く想定外の不本意な結果になっているのは間違いなかった。

 100パーセント向こうが悪く自分には一切の非が無いことは確信しきっていたが、もはやそんなことを言っている暇は無い。
 そんなことを今更ネチネチと恨みがましく責め苛(さいな)んで、一時の心の安定を得ることも、さほどの意味など無い。

 こうまで食い違ってしまったならばもう残る手段はただ一つだけ。


 あとはセックスしかない。


 彼女にとって「文学」とはセックスに他ならなかった。
 最悪、セックスさえしておけば何かしらの「文学的な何か」にはなりえたのだった。

 拒否される可能性など微塵も考えていなかった。
 どんな言い訳と欺瞞と自己弁護をしてくるとしても、どうせ誘ってしまえば結局は目の前の快楽を否定できないのはわかりきっていた。

 だからこそ、彼女にとって文学とはセックスだったのだから。
 あるいは暴力でしかなかったのだから。

 人間という生物が持ちえた「文学」という概念は、究極的には認識する主体たる肉体以上のものにはなりえないものだとわかりきっていたのだから。


 案の定、そうなった。


 彼女は彼に真なる文学的な体験を与えてやった。
 物理的にも精神的にも構造が違う異生物、男女なる存在が共有しうる「文学」なるものがどんなものかを嫌って程、目いっぱいに全力で叩き込んでやった。

 そして最後の最後、全てを一瞬で解き放ち何もかもご破算にする、どんな人格的特質も哲学も学識も能力も拘りも葛藤も関係なく平等に訪れる生々しい湿気を多量に含んだ滑稽な生理現象を経ることで、遂には彼も自分と同じ境地に至れたらしい。
 目の前にある、あらゆる感情が消えて弛緩しきった顔をのぞき見てそう理解する。

 決して美しくなど無い。

 寧ろ醜い。
 表情筋から力が抜けて弛んだ、呆けたような虚ろな顔ははっきりと不細工である。
 ただ、それでもそれまでの賢(さから)しぶった顔よりはよほどマシであった。
 

 全てがすんでやっと彼女は静かな安寧に浸ることができた。
 ようやく落ち着くべきところに、見当をつけていた着地点にたどり着いたという安堵に包まれた。


 心安らかな気持のままに、ただ己の生命の鼓動を聞いていた。




 了
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