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初めての王子の部屋
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程なくして、私は約束通り王子の部屋を訪れた。
多忙な王子だが、今日はなんと私のために一日開けてくれたらしい。落ち着いて話せるようにと、メイドを下げた王子は私を扉まで出迎え、嬉しそうに右手をとった。
そしてそのまま私の手を顔に寄せ、ちゅっと甲に唇をあてられる。初めてのキザな仕草に顔が熱くなり、思わず挙動不審になりかけるのをぐっとこらえた。
「さあ、こちらへ」
私の内心を知ってか知らずか、微笑みを讃えたまま王子が私を奥へと促す。窓際に鎮座したテーブルには、三段のケーキスタンド。そこには可愛らしいケーキにスコーン、サンドイッチも載っている。
あれ? ざっと見る限り、私の好きなものばかりだ。
しょっぱいものはたいてい好きな私だけど、甘いものの好みが偏っていて、招待されたお茶会で食べたいものがないこともざらなのだ。
揚げパスタ以外に好きなものを教えたことはない。驚いて見やると、王子は嬉しそうにふふっと笑った。
「せっかく来てくれるのだから頑張ったんだ」
王子手ずから椅子を引いてくれて、椅子に腰掛ける。「どれが良い?」と聞かれたので一口サイズのオレンジのチーズケーキを選んだ。上に乗せられたつやつやとしたナパージュがかかったオレンジが美しい。
てっきりサーバーでケーキを皿に載せてくれると思ったのだけれど、王子は小さなフォークで一口サイズのケーキを半分に切ると、ぐさりと刺してこちらに差し出した。
「あーん」
それはまさか、私に口を開けてそのケーキを食べろということでしょうか。……いやいやいや。ないでしょう。
困った私は、ついと皿を差し出した。
「あーん?」
効果がない! お断りしたら不敬だということになるだろうか?
「ほら、口、開けて」
なんだか頭に血が上って考えがまとまらない。もう、なるようになれ。
私が口を開けると、王子はそれは嬉しそうに微笑んだ。そして少しずつチーズケーキを私の口へ近付けて……
そのとき、激しく扉が叩かれた。扉を破ろうとするかのように何回もノックするものだから不安になって、扉と王子を交互に見やる。
嫌そうに息を吐いた王子はケーキを皿に置くとドアへと歩み寄った。かちゃりと音がして、すぐに息を切らせたハンス様とステファン様が顔を出した。
というか、鍵かけてなかった? 通常は婚姻前の男女は例え婚約者であっても密室で会うべきではないとされている。
いつもの癖で鍵をかけてしまったのかしら? 全然きづかなかった。意外と粗忽な王子に思わず笑みが浮かぶ。
「無事か?」「ご無事ですか?」
ハンス様とステファン様の声がかぶるのがおかしい。王子のことが心配なのはわかるけど、私のこと熊か何かだとでも思っているのかしら?
かぶった猫で肉食系に擬態していても、実際の中身は草食ですらない。心配することなど何もないというのに。
猫かぶりがうますぎるのも困ったものね。
ふふふ、と私は笑うと、立ち上がって二人に礼をとった。
顔をあげると三人はやはり信号機のようだった。停まれに進めに気をつけて……。
つい思い出し笑いで頬が緩む。三人揃うだけで笑えるってすごいわ。しばらくこのネタで笑えそう。
「知っていると思うけど、僕の婚約者になった、ライーバル侯爵家のエリザベラ嬢だ」
二人は何も答えない。身分が高い順にしか話ができないから、紹介されたとはいえ、私はまだ口を開けない。
まだかしら? ちらりと見やるとハンス様はぽかんと口を開けたまま、ぼんやりとこちらを見ていた。
ステファン様がハンス様を軽く肘でつつくと、はっとした様子のハンス様が焦ったように口を開く。
「ハンス・コークボだ。よろしく」
「ショーイサ家のステファンと申します。殿下とハンス様とは幼馴染なんです」
ステファン様が慣れた様子で挨拶をして、横目でハンス様を見た。その口元がほんの少し上がっていて、ハンス様の方は、面白くなさそうにむくれている。
仲がよくて羨ましい。親の方針もあって、私はあまり付き合いがない。ボロを出したら困るということだろうが、私だって友達くらいほしい。
「よろしくお願いします。コークボ様、ショーイサ様」
「あー、家名だと兄弟もいてややこしいから名前で呼んでくれないか」
ハンス様が照れくさそうに切り出した。確かにコークボ公爵家からはお兄様が二人も出仕されているし、現騎士団長のお父様もいらっしゃるからわかりにくいかもしれない。
「ハンス様?」
ハンス様が嬉しそうに微笑む。
「私のこともステファンとお呼びください。妃教育で登城することも増えるでしょう。私も王城勤めの兄弟がいるので」
ステファン様がメガネ越しに、じっとこちらを見つめた。
ステファン様のお兄様は第一王子の側近で未来の宰相様だと目されている。それに確か、司書の方もショーイサ家の方だった。
「はい、ステファン様」
微笑みながら応えると、ステファン様がうなずいてくれた。
「こちらこそよろしくお願いします。エリザベラ様とお呼びしてもよろしいでしょうか?」
「君たちいつまでいるつもりなの。婚約者同士の逢瀬を邪魔するなんて無粋じゃないか」
私の言葉を待たず、王子が会話に割り込んできた。不愉快そうに眉はひそめられ、だいぶ棘のある話し方だ。
「殿下、自分の胸に手を当てて考えたほうがよいですよ」
ぴしゃりと冷たい声でステファン様が言う。
確かにあのあーん攻撃はよろしくない。うっかり陥落しかけたもの。二人が居れば王子もあんな無体はしないだろう。
「おっ、おいっ、何かされたのか?」
目を丸くしたハンス様の言葉に、先ほどの王子を思い出してつい頬が熱くなる。
「なんてことをっ」
わずかに動揺した様子のステファン様が声を荒げた。
「わかったよ。自分の仕事を終わらせているなら仕方ない」
次はもっとか、と聞こえた気がするのは気のせいだろう。ステファン様の眉がぴくりと動いたのも。
「なっ、なあ、大丈夫なのか?」
この場の癒やしはハンス様だけだ。外見と中身が両方素直なのは素晴らしい。いつまでもそのままの純粋なあなたでいてください。気持ちを込めてにっこり笑ってお礼を言うと、ハンス様は照れたように笑った。
* * *
こうして結局、四人で仲良くお茶を飲んでその日は帰ることになった。家の馬車まで送ってくれると王子が申し出てくれたため、少し間を空けて後ろを歩く。
すたすたと振り返らずに歩いていた王子が、庭園――薔薇の盛りはとうに終え、どこからかキンモクセイが香っている――の途中で立ち止まった。
「殿下、どうしましたか?」
心配になって歩み寄ると、王子に手を取られた。
「僕にだって、王城に兄弟がいる」
琥珀の瞳は思いの外真剣で、知っていますと笑うことができなかった。そのときざっと風が吹いたことで、一際キンモクセイが香り立ち、私は無意識にその元を探した。
「ダメだよ。こっちを見て」
もう一方の手が私の頬に添えられる。
「クリストフ。僕の名前」
「存じ上げております」
この瞳は猛禽類のものだ。可愛い顔に騙されると痛い目をみる。でも、この瞳から目が離せない。
「エリザベラはたしか、ベラって呼ばれていたよね。それなら、僕はリズって呼んでもいいかな」
頬にあった王子の手がついと耳元をなぞった。私がこくこくとうなずくと、手はそのままに顔を覗き込まれる。
「ねえ、リズ。僕のことは名前で呼んでくれないの?」
「でっ、殿下! それは、その……」
添えられた手から熱が移ってくるようだ。名前で呼ぶことなんてたいしたことじゃない。なのになんで。
王子は逃してくれる気はなさそうだ。二人も、きっと助けには来ない。
「……クリストフ殿下」
「殿下?」
ふるふると小さく首を振るのに、覗き込む金色は許してくれない。
「……クリストフ様」
小さくつぶやいた声は、自分の声なのになぜかひどく甘く、私の心を痺れさせるようだった。
名前を呼んだだけなのに恥ずかしくてたまらない。
王子――クリストフ様は優しく微笑み、私の耳元に唇を寄せるともう殿下なんて呼んじゃだめだよ、と囁いた。
多忙な王子だが、今日はなんと私のために一日開けてくれたらしい。落ち着いて話せるようにと、メイドを下げた王子は私を扉まで出迎え、嬉しそうに右手をとった。
そしてそのまま私の手を顔に寄せ、ちゅっと甲に唇をあてられる。初めてのキザな仕草に顔が熱くなり、思わず挙動不審になりかけるのをぐっとこらえた。
「さあ、こちらへ」
私の内心を知ってか知らずか、微笑みを讃えたまま王子が私を奥へと促す。窓際に鎮座したテーブルには、三段のケーキスタンド。そこには可愛らしいケーキにスコーン、サンドイッチも載っている。
あれ? ざっと見る限り、私の好きなものばかりだ。
しょっぱいものはたいてい好きな私だけど、甘いものの好みが偏っていて、招待されたお茶会で食べたいものがないこともざらなのだ。
揚げパスタ以外に好きなものを教えたことはない。驚いて見やると、王子は嬉しそうにふふっと笑った。
「せっかく来てくれるのだから頑張ったんだ」
王子手ずから椅子を引いてくれて、椅子に腰掛ける。「どれが良い?」と聞かれたので一口サイズのオレンジのチーズケーキを選んだ。上に乗せられたつやつやとしたナパージュがかかったオレンジが美しい。
てっきりサーバーでケーキを皿に載せてくれると思ったのだけれど、王子は小さなフォークで一口サイズのケーキを半分に切ると、ぐさりと刺してこちらに差し出した。
「あーん」
それはまさか、私に口を開けてそのケーキを食べろということでしょうか。……いやいやいや。ないでしょう。
困った私は、ついと皿を差し出した。
「あーん?」
効果がない! お断りしたら不敬だということになるだろうか?
「ほら、口、開けて」
なんだか頭に血が上って考えがまとまらない。もう、なるようになれ。
私が口を開けると、王子はそれは嬉しそうに微笑んだ。そして少しずつチーズケーキを私の口へ近付けて……
そのとき、激しく扉が叩かれた。扉を破ろうとするかのように何回もノックするものだから不安になって、扉と王子を交互に見やる。
嫌そうに息を吐いた王子はケーキを皿に置くとドアへと歩み寄った。かちゃりと音がして、すぐに息を切らせたハンス様とステファン様が顔を出した。
というか、鍵かけてなかった? 通常は婚姻前の男女は例え婚約者であっても密室で会うべきではないとされている。
いつもの癖で鍵をかけてしまったのかしら? 全然きづかなかった。意外と粗忽な王子に思わず笑みが浮かぶ。
「無事か?」「ご無事ですか?」
ハンス様とステファン様の声がかぶるのがおかしい。王子のことが心配なのはわかるけど、私のこと熊か何かだとでも思っているのかしら?
かぶった猫で肉食系に擬態していても、実際の中身は草食ですらない。心配することなど何もないというのに。
猫かぶりがうますぎるのも困ったものね。
ふふふ、と私は笑うと、立ち上がって二人に礼をとった。
顔をあげると三人はやはり信号機のようだった。停まれに進めに気をつけて……。
つい思い出し笑いで頬が緩む。三人揃うだけで笑えるってすごいわ。しばらくこのネタで笑えそう。
「知っていると思うけど、僕の婚約者になった、ライーバル侯爵家のエリザベラ嬢だ」
二人は何も答えない。身分が高い順にしか話ができないから、紹介されたとはいえ、私はまだ口を開けない。
まだかしら? ちらりと見やるとハンス様はぽかんと口を開けたまま、ぼんやりとこちらを見ていた。
ステファン様がハンス様を軽く肘でつつくと、はっとした様子のハンス様が焦ったように口を開く。
「ハンス・コークボだ。よろしく」
「ショーイサ家のステファンと申します。殿下とハンス様とは幼馴染なんです」
ステファン様が慣れた様子で挨拶をして、横目でハンス様を見た。その口元がほんの少し上がっていて、ハンス様の方は、面白くなさそうにむくれている。
仲がよくて羨ましい。親の方針もあって、私はあまり付き合いがない。ボロを出したら困るということだろうが、私だって友達くらいほしい。
「よろしくお願いします。コークボ様、ショーイサ様」
「あー、家名だと兄弟もいてややこしいから名前で呼んでくれないか」
ハンス様が照れくさそうに切り出した。確かにコークボ公爵家からはお兄様が二人も出仕されているし、現騎士団長のお父様もいらっしゃるからわかりにくいかもしれない。
「ハンス様?」
ハンス様が嬉しそうに微笑む。
「私のこともステファンとお呼びください。妃教育で登城することも増えるでしょう。私も王城勤めの兄弟がいるので」
ステファン様がメガネ越しに、じっとこちらを見つめた。
ステファン様のお兄様は第一王子の側近で未来の宰相様だと目されている。それに確か、司書の方もショーイサ家の方だった。
「はい、ステファン様」
微笑みながら応えると、ステファン様がうなずいてくれた。
「こちらこそよろしくお願いします。エリザベラ様とお呼びしてもよろしいでしょうか?」
「君たちいつまでいるつもりなの。婚約者同士の逢瀬を邪魔するなんて無粋じゃないか」
私の言葉を待たず、王子が会話に割り込んできた。不愉快そうに眉はひそめられ、だいぶ棘のある話し方だ。
「殿下、自分の胸に手を当てて考えたほうがよいですよ」
ぴしゃりと冷たい声でステファン様が言う。
確かにあのあーん攻撃はよろしくない。うっかり陥落しかけたもの。二人が居れば王子もあんな無体はしないだろう。
「おっ、おいっ、何かされたのか?」
目を丸くしたハンス様の言葉に、先ほどの王子を思い出してつい頬が熱くなる。
「なんてことをっ」
わずかに動揺した様子のステファン様が声を荒げた。
「わかったよ。自分の仕事を終わらせているなら仕方ない」
次はもっとか、と聞こえた気がするのは気のせいだろう。ステファン様の眉がぴくりと動いたのも。
「なっ、なあ、大丈夫なのか?」
この場の癒やしはハンス様だけだ。外見と中身が両方素直なのは素晴らしい。いつまでもそのままの純粋なあなたでいてください。気持ちを込めてにっこり笑ってお礼を言うと、ハンス様は照れたように笑った。
* * *
こうして結局、四人で仲良くお茶を飲んでその日は帰ることになった。家の馬車まで送ってくれると王子が申し出てくれたため、少し間を空けて後ろを歩く。
すたすたと振り返らずに歩いていた王子が、庭園――薔薇の盛りはとうに終え、どこからかキンモクセイが香っている――の途中で立ち止まった。
「殿下、どうしましたか?」
心配になって歩み寄ると、王子に手を取られた。
「僕にだって、王城に兄弟がいる」
琥珀の瞳は思いの外真剣で、知っていますと笑うことができなかった。そのときざっと風が吹いたことで、一際キンモクセイが香り立ち、私は無意識にその元を探した。
「ダメだよ。こっちを見て」
もう一方の手が私の頬に添えられる。
「クリストフ。僕の名前」
「存じ上げております」
この瞳は猛禽類のものだ。可愛い顔に騙されると痛い目をみる。でも、この瞳から目が離せない。
「エリザベラはたしか、ベラって呼ばれていたよね。それなら、僕はリズって呼んでもいいかな」
頬にあった王子の手がついと耳元をなぞった。私がこくこくとうなずくと、手はそのままに顔を覗き込まれる。
「ねえ、リズ。僕のことは名前で呼んでくれないの?」
「でっ、殿下! それは、その……」
添えられた手から熱が移ってくるようだ。名前で呼ぶことなんてたいしたことじゃない。なのになんで。
王子は逃してくれる気はなさそうだ。二人も、きっと助けには来ない。
「……クリストフ殿下」
「殿下?」
ふるふると小さく首を振るのに、覗き込む金色は許してくれない。
「……クリストフ様」
小さくつぶやいた声は、自分の声なのになぜかひどく甘く、私の心を痺れさせるようだった。
名前を呼んだだけなのに恥ずかしくてたまらない。
王子――クリストフ様は優しく微笑み、私の耳元に唇を寄せるともう殿下なんて呼んじゃだめだよ、と囁いた。
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