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覚悟と秘密
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次の日になっても、手首に赤く色づいた痕は消えなかった。
自室で本を開いた私は、何も考えずにクリストフ様の迎えを受け入れた過去の自分を恨めしく思いつつ、学園に向かう馬車を待っていた。
当然のようにその本は、一ページたりとも捲られず、本に意識をさこうとすると、手首に目が吸い寄せられる。そこにはくっきりと色づく赤。手首を優しく撫でて、私は小さくため息をついた。
昨日から今日にかけてのずっと、両親や使用人たちが気づくのではないかとひやひやし、そのたびにクリストフ様の妖艶な笑みを思い出していた。
だって、手首へのキスって『欲望』でしょう?
こんな簡単にキスできるようなところに、そんな意味深な設定を置かないでほしい。つまりは、クリストフ様が私に感じているのは単純な好意ではなくて、つまり、異性として――その、欲望とかが伴うかんじの……。
恥ずかしくなった私はその場で身悶えた。昨日から人目がなくなるとこんなことをずっと繰り返している。
つい最近まで、お子様だったくせに!
一人でいるときは威勢よく吠える元気もあるけれど、もうそろそろ馬車がついてしまう。そうしたら、必然的にクリストフ様とも顔を合わせるわけで……。
こちとら、干物だ。ろくな恋愛経験などない。
いや、むしろ今生はクリストフ様と恋愛関係にあったってこと? 意識などまったくしていなかったくせに、我ながらちょろさに呆れてしまう。
だけど、私にはクリストフ様に伝えていない秘密がある。
……王子妃がプライベートではジャージってありかしら。いや、ないわよね。
一生、自分を偽って生きる覚悟がない以上、クリストフ様の気持ちには応えられない。そもそも決定打を避けてここまで来てしまったのがいけないのだ。
どうにかして、婚約を白紙に戻してもらえるように進言しなくては。
王家の馬車が着いてしまったことを知ると、のろのろと重い腰を上げた。
* * *
「知っていたよ」
豪華な馬車の隣に座ったクリストフ様が悠然と微笑む。勇気を出して、猫かぶり生活を告白した私にクリストフ様が平然と言い放ったのが先の言葉だ。
だって、どうして……? あんなにうまく擬態していたのに?
「リズはわかりやすいしね。それにリズのお父君からも聞いていた」
「ええっ?」
驚く私をクリストフ様が優しく見つめる。
「リズを婚約者から降ろしたいと言われたのを、僕の意思でお断りしていたんだ。そのときにね」
「お父様……」
あんなに、令嬢らしさにこだわっていたのに? クリストフ様との婚約が決まって、一番喜んでいたのはお父様ではなかったの?
「そんな、いつ……?」
「二年前くらいかな」
まさか、そんなに早く? 二年前というと婚約して、一年も経っていない頃ではないか。
「そのときに、僕が猶予を求めたんだよ」
淡々と話していたクリストフ様が、困ったように眉根を寄せる。
「成人まで、醜聞になるようなことは避けるようにとも釘を刺されちゃったけどね」
「だって、そんなこと……。少しも……」
「もし教えたら、すぐに婚約を解消しようとしたでしょう? それくらいは許してよ」
成人してなお、可愛らしく見えるのは美形の特権か。返答に困っていると、口元に優しげな笑みをたたえたまま、その双眸がきらりと光る。
「それとも、他の男と婚約したかった?」
「ゔっ、そういうわけじゃ……」
干物生活を諦めきれない私だけれど、他の婚約者を見つけ直すことは早々に諦めていた。婚約を解消したいとは思っているけれど、次を考える気などさらさらない。
「それなら他になにが問題なの?」
「私に王子妃が務まるとは思えません。それに私が貴族女性の中心とか、無理があります」
懸念を真剣に伝えれば、クリストフ様はそんなことかとでも言いたげに息を吐いた。
「いつも言っているけど、リズはそのままでいいんだよ」
流れるように私の手を取り、もう片方の手でその手を撫でられる。この数年で大きくなった手は堅く骨ばっていて、私のものより暖かかった。
「民に寄り添い、労働を尊ぶ考えは立派だ。様々なものに心を寄せて、柔らかく微笑む姿が好きだ。頑張り屋なところも、意欲的なところも。……むしろリズほど相応しい女性はいないよ」
優しく包み込むような言葉をかろうじてはねのけて、でもと口籠る。すると、クリストフ様は穏やかな微笑みをたたえたまま、優しい瞳で私を見つめた。
「どうしてもっていうなら僕にも考えがある」
「考え?」
「最近、王都で流行っているポテトチップスの店わかる?」
「えっ、ええ」
当然だ。おしのびの城下視察からはちょくちょくお世話にもなっている。
意味がわからなくて、クリストフ様の瞳を覗いても、質問の意図がわからない。そんな私の様子を見てか、クリストフ様が口の端を上げた。
「あれ、僕がオーナー」
「はあっ?」
思わず、大きな声が出てしまった。
王子様がオーナーってどういうこと? でも、言われてみれば確かに、納得するところもある。たとえば、私好みの味ばかりが貴族向けの高級ラインに揃っていることとか……。
「今は戦時中でもないし、兄上にはもう御子もある。第三王子なんていてもいなくても良いんだよ」
クリストフ様が不穏なことを言い始めた。大ごとになった話題に混乱して何も返すことができない。
「だから、いざとなったら……」
「まっ、待って!! お願いだから待ってくださいっ」
やっとの思いで言葉を遮ると、クリストフ様は、「ん?」と可愛らしく子首を傾げた。成人済みの癖にそんなあざとい仕草が似合うなんてずるい。じゃ、なくて……。
「それって、つまり、私のために……?」
「僕は、そのままのリズが好きだ。リズはリズらしくいて欲しい。王子妃が嫌なら、僕が王子をやめればいい」
こともなげに言うけれど、大問題だ。
「幸い、事業も軌道に乗っているしね」
そう言いながら、ウインクしてみせるクリストフ様。だめよ。十五歳なんてこの国では大人でも、まだまだ子供なんだから。
「いや、いやいやいや……」
だけど、なんて言えば納得してもらえる? クリストフ様まで巻き込んで、庶民生活を送るなんてありえない。落ちぶれたときの後味が悪すぎる。
混乱する頭を必死に抑えながら、考えを巡らすけれど答えは出ない。たたみかけるように、クリストフ様が口を開いた。
「リズはどうしたいの? あと何があれば、僕とのことを考えてくれる?」
「えっと……、社交以外に仕事を持ちたいです」
「それだけ?」
きょとんとした顔があざとい。可愛いからってずるい。これだけ育っても可愛いってどういうことよ。
「プライベートではだらだら過ごして、飾らない食事も取りたいです」
「いいよ」
「そんなこと言うと、後悔しますよ?」
あまりの即答ぶりに、十歳からの五年間が無駄だったように思えて、恨めしくなって脅せば、「なんで?」とまた可愛らしく尋ねられる。
その純粋な色に、自らの自堕落ぶりを振り返ると少しだけ恥ずかしくなった。
「えっと……、実際に見て失望するかも」
「そんなことありえないよ」
おかしそうに、クリストフ様が笑う。
あとは、そうね……。ジャージくらい?
うっかりこんなことを言ったら、うまいことそれを叶えてしまいそうなのが怖い。
私が望まなくても捧げられた王子の愛は想像以上に重いらしい。
そんなことを考えていると、がたんと馬車が揺れた拍子に、バランスを崩した私をクリストフ様が支えてくれる。
途端に昨日、容赦しないと言われたことを思い出し、顔面に熱が集まった。
こっ、こんなの、心臓がもたないわっ!
なんとかお礼を言って身体を押し返したものの、いつまで経っても熱は引かない。
「リズ、決心は固まった?」
こちらの気も知らないで……。余裕ありげな様子が腹立たしい。そうこうしているうちに学園はもうすぐそこだ。
学園の門をくぐって馬車が止まると、いち早く立ち上がった私はクリストフ様に向き直った。
「王子をやめるなんて許しませんからね」
そうして、言い逃げようとした私の手を引いて、クリストフ様がその胸に私を抱き止めた。
「それは、リズも一緒に……?」
ごまかそうと思ったけれど、クリストフ様の肩が震えていることに気がついて、私はこくんとうなずいた。
その日、私たちは初めて二人そろって授業に遅刻した。その事態に様々な憶測が囁かれたけれど、本当のことは二人だけの秘密として胸に留めておこうと思う。
自室で本を開いた私は、何も考えずにクリストフ様の迎えを受け入れた過去の自分を恨めしく思いつつ、学園に向かう馬車を待っていた。
当然のようにその本は、一ページたりとも捲られず、本に意識をさこうとすると、手首に目が吸い寄せられる。そこにはくっきりと色づく赤。手首を優しく撫でて、私は小さくため息をついた。
昨日から今日にかけてのずっと、両親や使用人たちが気づくのではないかとひやひやし、そのたびにクリストフ様の妖艶な笑みを思い出していた。
だって、手首へのキスって『欲望』でしょう?
こんな簡単にキスできるようなところに、そんな意味深な設定を置かないでほしい。つまりは、クリストフ様が私に感じているのは単純な好意ではなくて、つまり、異性として――その、欲望とかが伴うかんじの……。
恥ずかしくなった私はその場で身悶えた。昨日から人目がなくなるとこんなことをずっと繰り返している。
つい最近まで、お子様だったくせに!
一人でいるときは威勢よく吠える元気もあるけれど、もうそろそろ馬車がついてしまう。そうしたら、必然的にクリストフ様とも顔を合わせるわけで……。
こちとら、干物だ。ろくな恋愛経験などない。
いや、むしろ今生はクリストフ様と恋愛関係にあったってこと? 意識などまったくしていなかったくせに、我ながらちょろさに呆れてしまう。
だけど、私にはクリストフ様に伝えていない秘密がある。
……王子妃がプライベートではジャージってありかしら。いや、ないわよね。
一生、自分を偽って生きる覚悟がない以上、クリストフ様の気持ちには応えられない。そもそも決定打を避けてここまで来てしまったのがいけないのだ。
どうにかして、婚約を白紙に戻してもらえるように進言しなくては。
王家の馬車が着いてしまったことを知ると、のろのろと重い腰を上げた。
* * *
「知っていたよ」
豪華な馬車の隣に座ったクリストフ様が悠然と微笑む。勇気を出して、猫かぶり生活を告白した私にクリストフ様が平然と言い放ったのが先の言葉だ。
だって、どうして……? あんなにうまく擬態していたのに?
「リズはわかりやすいしね。それにリズのお父君からも聞いていた」
「ええっ?」
驚く私をクリストフ様が優しく見つめる。
「リズを婚約者から降ろしたいと言われたのを、僕の意思でお断りしていたんだ。そのときにね」
「お父様……」
あんなに、令嬢らしさにこだわっていたのに? クリストフ様との婚約が決まって、一番喜んでいたのはお父様ではなかったの?
「そんな、いつ……?」
「二年前くらいかな」
まさか、そんなに早く? 二年前というと婚約して、一年も経っていない頃ではないか。
「そのときに、僕が猶予を求めたんだよ」
淡々と話していたクリストフ様が、困ったように眉根を寄せる。
「成人まで、醜聞になるようなことは避けるようにとも釘を刺されちゃったけどね」
「だって、そんなこと……。少しも……」
「もし教えたら、すぐに婚約を解消しようとしたでしょう? それくらいは許してよ」
成人してなお、可愛らしく見えるのは美形の特権か。返答に困っていると、口元に優しげな笑みをたたえたまま、その双眸がきらりと光る。
「それとも、他の男と婚約したかった?」
「ゔっ、そういうわけじゃ……」
干物生活を諦めきれない私だけれど、他の婚約者を見つけ直すことは早々に諦めていた。婚約を解消したいとは思っているけれど、次を考える気などさらさらない。
「それなら他になにが問題なの?」
「私に王子妃が務まるとは思えません。それに私が貴族女性の中心とか、無理があります」
懸念を真剣に伝えれば、クリストフ様はそんなことかとでも言いたげに息を吐いた。
「いつも言っているけど、リズはそのままでいいんだよ」
流れるように私の手を取り、もう片方の手でその手を撫でられる。この数年で大きくなった手は堅く骨ばっていて、私のものより暖かかった。
「民に寄り添い、労働を尊ぶ考えは立派だ。様々なものに心を寄せて、柔らかく微笑む姿が好きだ。頑張り屋なところも、意欲的なところも。……むしろリズほど相応しい女性はいないよ」
優しく包み込むような言葉をかろうじてはねのけて、でもと口籠る。すると、クリストフ様は穏やかな微笑みをたたえたまま、優しい瞳で私を見つめた。
「どうしてもっていうなら僕にも考えがある」
「考え?」
「最近、王都で流行っているポテトチップスの店わかる?」
「えっ、ええ」
当然だ。おしのびの城下視察からはちょくちょくお世話にもなっている。
意味がわからなくて、クリストフ様の瞳を覗いても、質問の意図がわからない。そんな私の様子を見てか、クリストフ様が口の端を上げた。
「あれ、僕がオーナー」
「はあっ?」
思わず、大きな声が出てしまった。
王子様がオーナーってどういうこと? でも、言われてみれば確かに、納得するところもある。たとえば、私好みの味ばかりが貴族向けの高級ラインに揃っていることとか……。
「今は戦時中でもないし、兄上にはもう御子もある。第三王子なんていてもいなくても良いんだよ」
クリストフ様が不穏なことを言い始めた。大ごとになった話題に混乱して何も返すことができない。
「だから、いざとなったら……」
「まっ、待って!! お願いだから待ってくださいっ」
やっとの思いで言葉を遮ると、クリストフ様は、「ん?」と可愛らしく子首を傾げた。成人済みの癖にそんなあざとい仕草が似合うなんてずるい。じゃ、なくて……。
「それって、つまり、私のために……?」
「僕は、そのままのリズが好きだ。リズはリズらしくいて欲しい。王子妃が嫌なら、僕が王子をやめればいい」
こともなげに言うけれど、大問題だ。
「幸い、事業も軌道に乗っているしね」
そう言いながら、ウインクしてみせるクリストフ様。だめよ。十五歳なんてこの国では大人でも、まだまだ子供なんだから。
「いや、いやいやいや……」
だけど、なんて言えば納得してもらえる? クリストフ様まで巻き込んで、庶民生活を送るなんてありえない。落ちぶれたときの後味が悪すぎる。
混乱する頭を必死に抑えながら、考えを巡らすけれど答えは出ない。たたみかけるように、クリストフ様が口を開いた。
「リズはどうしたいの? あと何があれば、僕とのことを考えてくれる?」
「えっと……、社交以外に仕事を持ちたいです」
「それだけ?」
きょとんとした顔があざとい。可愛いからってずるい。これだけ育っても可愛いってどういうことよ。
「プライベートではだらだら過ごして、飾らない食事も取りたいです」
「いいよ」
「そんなこと言うと、後悔しますよ?」
あまりの即答ぶりに、十歳からの五年間が無駄だったように思えて、恨めしくなって脅せば、「なんで?」とまた可愛らしく尋ねられる。
その純粋な色に、自らの自堕落ぶりを振り返ると少しだけ恥ずかしくなった。
「えっと……、実際に見て失望するかも」
「そんなことありえないよ」
おかしそうに、クリストフ様が笑う。
あとは、そうね……。ジャージくらい?
うっかりこんなことを言ったら、うまいことそれを叶えてしまいそうなのが怖い。
私が望まなくても捧げられた王子の愛は想像以上に重いらしい。
そんなことを考えていると、がたんと馬車が揺れた拍子に、バランスを崩した私をクリストフ様が支えてくれる。
途端に昨日、容赦しないと言われたことを思い出し、顔面に熱が集まった。
こっ、こんなの、心臓がもたないわっ!
なんとかお礼を言って身体を押し返したものの、いつまで経っても熱は引かない。
「リズ、決心は固まった?」
こちらの気も知らないで……。余裕ありげな様子が腹立たしい。そうこうしているうちに学園はもうすぐそこだ。
学園の門をくぐって馬車が止まると、いち早く立ち上がった私はクリストフ様に向き直った。
「王子をやめるなんて許しませんからね」
そうして、言い逃げようとした私の手を引いて、クリストフ様がその胸に私を抱き止めた。
「それは、リズも一緒に……?」
ごまかそうと思ったけれど、クリストフ様の肩が震えていることに気がついて、私はこくんとうなずいた。
その日、私たちは初めて二人そろって授業に遅刻した。その事態に様々な憶測が囁かれたけれど、本当のことは二人だけの秘密として胸に留めておこうと思う。
応援ありがとうございます!
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