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第六十七話『最初の雪と、暖炉の前の誓い』
しおりを挟む数日後、アニカのパン作り教室は、感動的な最終日を迎えた。
雪が降る前に町へ帰る彼女とバロンを、俺たちは拠点の前で見送る。温かい感謝と、春の再会を約束して、二人の乗った馬車は森の奥へと消えていった。轍の音も聞こえなくなり、残されたのは俺たちだけ。さっきまでの賑わいが嘘のように、森はしんと静まり返っていた。
それは、ただ人が去った後の静寂ではない。一つの温かい季節が終わりを告げ、これから訪れる厳しい季節を前に、世界が息をひそめたかのような、張り詰めた静けさだった。俺は、アニカがくれたスパイスの入った小袋を、そっと握りしめた。指先に伝わる、まだ見ぬ異国の香りと、彼女が残していった温かい友情の重みが、やけに心に沁みた。
静けさが戻った拠点。だが、その静けさは、どこか冬の到来を予感させる、張り詰めたものだった。
シラタマの冬支度は、見ていて飽きなかった。小さな前足で森の落ち葉を必死にかき集め、口いっぱいに苔を頬張り、小さな体を左右に揺らしながら、得意げな顔で母屋へと運んでくるのだ。その小さな運び屋が、何度も何度も森と母屋を往復する姿に、俺たちは思わず笑みをこぼす。
ふと隣を見ると、リディアがその光景を、どこか眩しいものでも見るような、優しい目で見つめていた。彼女にとって、冬とはただ耐え忍ぶべき脅威だったはずだ。だが、今その目の前にいるのは、来るべき冬に備え、喜びすら感じているかのように生き生きと活動する小さな命。
俺はそれを止めさせたりはしない。彼が自分で感じ、考え、行動している。それこそが、彼がこの森で力強く生きている証なのだから。そしてその証は、きっとリディアの心をも、少しずつ溶かしているに違いなかった。
その日の夕方。ふと窓の外に目をやったリディアが、小さく息をのんだ。さっきまで森を渡っていた風がぴたりと止み、空気がガラスのように澄み渡っていく。
空から舞い降りてきたのは、光の粒か、花の精か。一つ、また一つと、それは音もなく世界に降り積もり、あっという間に森のざわめきを全て吸い込んでいく。まるで、世界が分厚い純白の毛布に、そっとくるまれていくようだった。窓辺に駆け寄ったシラタマは、ガラスの向こうで舞う初めて見るそれに、不思議そうに首をかしげている。俺はゆっくりと玄関の扉を開け、手のひらを差し出した。触れた瞬間に溶けて消える、儚くも冷たい感触。前世では見慣れたはずの光景が、この世界では、まるで奇跡のように美しく思えた。
外が雪に閉ざされる中、俺たちは、完成したばかりの暖炉の前に集まっていた。パチパチ、と心地よく薪がはぜる音が、部屋全体を優しく満たしている。
俺は、この特別な夜のために、とっておきの飲み物を用意した。鉄鍋に俺たちの森で採れたベリーの果実酒を注ぎ、アニカがくれたシナモンスティックと、召喚したばかりの『ドライオレンジピール』や『レーズン』を浮かべる。それを暖炉の火でゆっくりと温めると、部屋中に、甘く、スパイシーで、どこか懐かしい香りが立ち込めた。(シラタマには、もちろん同じ鍋で温めた山ぶどうのジュースだ)
それぞれのマグカップに注ぎ分けると、立ち上る湯気がオレンジ色の光に照らされてキラキラと輝く。カップを持つ手に伝わる、じんわりとした温かさ。一口飲めば、体の芯から、まるで春の雪解け水のように、温かいものがじんわりと広がっていく。
俺の隣で、リディアは暖炉の炎をじっと見つめていた。揺らめくオレンジ色の光が、彼女の美しい青い瞳に映り込み、まるで意志の炎のように燃えている。
「…これが、『冬を越す』ということなのだな」
彼女は、誰に言うでもなく、静かに呟いた。その脳裏を、一瞬、過去の記憶がよぎったのかもしれない。凍てつく風が吹き荒れる兵舎、固いパンと冷たいスープだけが命綱だった日々。仲間たちが寒さと飢えで次々と倒れていった、あの灰色の日々が。
「私の知る、寒さと飢えに耐えるだけの『越冬』とは、全く違う…」
彼女の言葉には、深い実感と、そして、今手にしている温もりへの、万感の想いが込められていた。それは、俺がこの世界にもたらした、新しい冬の価値観。そして、この温かい場所を、この満ち足りた時間を、自分の全てをかけて守り抜くという、聖域の守護騎士による、静かで、しかし何よりも力強い誓いの言葉だった。
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