66 / 185
第六十六話『酵母の教えと、町のパン』
しおりを挟む「パン作りは、まず、窯と対話することから始まります」
石窯の前に立ち、俺がそう切り出すと、アニカは緊張した面持ちでこくりと頷いた。彼女の視線の先では、窯の口から揺らめく炎が、まるで生き物のように呼吸している。
「金属の窯はすぐに熱くなる分、冷めやすい。でも、こいつは違う。一度温まると、この分厚い石と粘土が、母親の懐みたいに、じんわりと優しい熱を保ち続けてくれるんです」
俺は手のひらを窯の入り口にそっとかざし、柔らかな熱の対流を感じる。薪がはぜる乾いた音、燻された木の香り。俺は、薪の種類による火力の違いや、ひとつまみの粉を窯に投げ入れ、その焦げ色で完璧な温度を見極める「試し粉」の技術など、自然の素材と向き合うからこそ生まれた知恵を、一つひとつ丁寧に彼女に伝えていく。
次に、俺は工房の棚から、一つのガラス瓶を大切そうに下ろした。中では、とろりとした液体が、時折「ぷくり」と小さな気泡を浮かべている。まるで、穏やかに呼吸をしているかのようだ。
「これが、うちのパンの心臓部、『天然酵母』です」
瓶をアニカに手渡すと、彼女は恐る恐るそれを受け取った。蓋を開けると、ふわりと鼻をくすぐる、甘酸っぱく、どこか果物を思わせる芳醇な香り。
「これは道具じゃない、生き物なんです。毎日、餌をあげて、機嫌を伺って…子育てと同じですよ」
俺がそう語り始めると、工房の隅から、つちのこがそっと姿を現した。彼は迷いなくこちらへやってくると、アニカが持つ瓶の隣にちょこんと座り、まるで我が子を見守るように、頭の双葉を優しく揺らしている。
「それに、果実酒を作った時に出る澱(おり)のような、栄養価の高いものを少し加えると、酵母がもっと元気になるんです。見てください、喜んでる」
俺が指さすと、澱を加えた瓶の中で、気泡が生まれる速度がわずかに速まった。アニカは、酵母をまるでペットのように扱い、そして、小さな精霊にまで愛される俺のパン作りの光景に、言葉を失っていた。彼女の世界では、酵母とは「材料」であり、決して「仲間」ではなかったからだ。その価値観の根底からの揺らぎが、彼女の瞳を大きく見開かせていた。
生地の発酵と成形の工程で、俺はアニカのパン作りをさらにレベルアップさせるための、いくつかの道具を自作してみせた。
まずは、生地の最終発酵で形を整えるための『発酵かご』の代用品だ。俺は手のひらに意識を集中し、頭の中のカタログを高速でめくる。これと、これだ。
ポンッ!ポンッ!
霧散した光の粒子の中から、まず白いプラスチック製のザルが、続いて畳まれた清潔な綿のふきんが現れ、俺の手に収まった。
【創造力:150/150 → 139/150】
(Dランク『プラスチック製のザル』コスト10、Eランク『綿のふきん』コスト1。合わせて11か。称号『キャンプシェフ』の効果で5%軽減されて、消費は10.45。よしよし)
「パン屋には『バヌトン』っていう専用の発酵かごがあるんですが、これで十分。ザルに布巾を敷くだけで、生地が乾燥するのを防ぎながら、綺麗な形を保ってくれるんですよ」
俺が手際よくセットして見せると、アニカは「そんなもので代用できるなんて…」と感心しきりだ。
そして、ついに、アニカが、俺の教えの全てを注ぎ込み、自分の手でパンを焼き上げる時が来た。彼女は、自らの手で成形し、震える指でクープを入れた生地を、まるで祈るようにして熱い石窯の中へと滑り込ませた。
待つこと、しばし。工房の中は、沈黙と、薪のはぜる音、そして次第に満ちてくる、甘く香ばしい匂いだけに支配されていた。それは、商業用のイーストが放つ単調な香りではない。小麦の力強い香り、酵母が醸し出す複雑でフルーティーな香り、そして石窯が与える微かな燻香が混じり合った、生命力に満ちた芳香だった。
「……そろそろ、ですね」
俺の言葉に、アニカはごくりと唾をのむ。
俺が長いピールで窯から取り出したパンは、芸術品と言ってもよかった。こんがりと焼けたキツネ色の表面は、クープを入れた部分が見事に花のように開き、力強く盛り上がっている。それは「天使のささやき」と呼ばれる、焼きたてのパンだけが奏でる、パチパチ…という微かな音を立てていた。
アニカは、まだ熱いパンを両手でそっと受け取ると、その重みと温かさを確かめるように、じっと見つめている。そして、ひとかけらをちぎり、おそるおそる口へと運んだ。
サクッ、という軽快な音。次の瞬間、彼女の瞳が驚きに見開かれる。そして、噛みしめるほどに広がる、小麦の深い甘みと、酵母の豊かな風味に、ハラハラと大粒の涙が頬を伝った。
「美味しい…!美味しいです…!」
彼女は、涙を拭うと、俺に向かって深々と頭を下げた。
「パンの作り方だけじゃありません…。薪の割り方、火の熾し方、酵母との静かな対話、そして…なにより、仲間と温かいものを囲んで笑い合う、この時間…。私が町で追い求めていた『最高のパン』の答えは、技術の先にある、こんな毎日の中にあったんですね…」
彼女のその言葉こそ、俺たちがこの森で築き上げてきた、豊かな生活の価値を証明するものであり、最高の賛辞だった。
40
あなたにおすすめの小説
DIYと異世界建築生活〜ギャル娘たちとパパの腰袋チート
みーくん
ファンタジー
気づいたら異世界に飛ばされていた、おっさん大工。
唯一の武器は、腰につけた工具袋——
…って、これ中身無限!?釘も木材もコンクリも出てくるんだけど!?
戸惑いながらも、拾った(?)ギャル魔法少女や謎の娘たちと家づくりを始めたおっさん。
土木工事からリゾート開発、果てはダンジョン探索まで!?
「異世界に家がないなら、建てればいいじゃない」
今日もおっさんはハンマー片手に、愛とユーモアと魔法で暮らしをDIY!
建築×育児×チート×ギャル
“腰袋チート”で異世界を住みよく変える、大人の冒険がここに始まる!
腰活(こしかつっ!)よろしくお願いします
異世界に転生したら?(改)
まさ
ファンタジー
事故で死んでしまった主人公のマサムネ(奥田 政宗)は41歳、独身、彼女無し、最近の楽しみと言えば、従兄弟から借りて読んだラノベにハマり、今ではアパートの部屋に数十冊の『転生』系小説、通称『ラノベ』がところ狭しと重なっていた。
そして今日も残業の帰り道、脳内で転生したら、あーしよ、こーしよと現実逃避よろしくで想像しながら歩いていた。
物語はまさに、その時に起きる!
横断歩道を歩き目的他のアパートまで、もうすぐ、、、だったのに居眠り運転のトラックに轢かれ、意識を失った。
そして再び意識を取り戻した時、目の前に女神がいた。
◇
5年前の作品の改稿板になります。
少し(?)年数があって文章がおかしい所があるかもですが、素人の作品。
生暖かい目で見て下されば幸いです。
精霊さんと一緒にスローライフ ~異世界でも現代知識とチートな精霊さんがいれば安心です~
舞
ファンタジー
かわいい精霊さんと送る、スローライフ。
異世界に送り込まれたおっさんは、精霊さんと手を取り、スローライフをおくる。
夢は優しい国づくり。
『くに、つくりますか?』
『あめのぬぼこ、ぐるぐる』
『みぎまわりか、ひだりまわりか。それがもんだいなの』
いや、それはもう過ぎてますから。
ようこそ異世界へ!うっかりから始まる異世界転生物語
Eunoi
ファンタジー
本来12人が異世界転生だったはずが、神様のうっかりで異世界転生に巻き込まれた主人公。
チート能力をもらえるかと思いきや、予定外だったため、チート能力なし。
その代わりに公爵家子息として異世界転生するも、まさかの没落→島流し。
さぁ、どん底から這い上がろうか
そして、少年は流刑地より、王政が当たり前の国家の中で、民主主義国家を樹立することとなる。
少年は英雄への道を歩き始めるのだった。
※第4章に入る前に、各話の改定作業に入りますので、ご了承ください。
小さいぼくは最強魔術師一族!目指せ!もふもふスローライフ!
ひより のどか
ファンタジー
ねぇたまと、妹と、もふもふな家族と幸せに暮らしていたフィリー。そんな日常が崩れ去った。
一見、まだ小さな子どもたち。実は国が支配したがる程の大きな力を持っていて?
主人公フィリーは、実は違う世界で生きた記憶を持っていて?前世の記憶を活かして魔法の世界で代活躍?
「ねぇたまたちは、ぼくがまもりゅのら!」
『わふっ』
もふもふな家族も一緒にたくましく楽しく生きてくぞ!
高校生の俺、異世界転移していきなり追放されるが、じつは最強魔法使い。可愛い看板娘がいる宿屋に拾われたのでもう戻りません
下昴しん
ファンタジー
高校生のタクトは部活帰りに突然異世界へ転移してしまう。
横柄な態度の王から、魔法使いはいらんわ、城から出ていけと言われ、いきなり無職になったタクト。
偶然会った宿屋の店長トロに仕事をもらい、看板娘のマロンと一緒に宿と食堂を手伝うことに。
すると突然、客の兵士が暴れだし宿はメチャクチャになる。
兵士に殴り飛ばされるトロとマロン。
この世界の魔法は、生活で利用する程度の威力しかなく、とても弱い。
しかし──タクトの魔法は人並み外れて、無法者も脳筋男もひれ伏すほど強かった。
子育てスキルで異世界生活 ~かわいい子供たち(人外含む)と楽しく暮らしてます~
九頭七尾
ファンタジー
子供を庇って死んだアラサー女子の私、新川沙織。
女神様が異世界に転生させてくれるというので、ダメもとで願ってみた。
「働かないで毎日毎日ただただ可愛い子供と遊んでのんびり暮らしたい」
「その願い叶えて差し上げましょう!」
「えっ、いいの?」
転生特典として与えられたのは〈子育て〉スキル。それは子供がどんどん集まってきて、どんどん私に懐き、どんどん成長していくというもので――。
「いやいやさすがに育ち過ぎでしょ!?」
思ってたよりちょっと性能がぶっ壊れてるけど、お陰で楽しく暮らしてます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる