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第六十六話『酵母の教えと、町のパン』
しおりを挟む「パン作りは、まず、窯と対話することから始まります」
石窯の前に立ち、俺がそう切り出すと、アニカは緊張した面持ちでこくりと頷いた。彼女の視線の先では、窯の口から揺らめく炎が、まるで生き物のように呼吸している。
「金属の窯はすぐに熱くなる分、冷めやすい。でも、こいつは違う。一度温まると、この分厚い石と粘土が、母親の懐みたいに、じんわりと優しい熱を保ち続けてくれるんです」
俺は手のひらを窯の入り口にそっとかざし、柔らかな熱の対流を感じる。薪がはぜる乾いた音、燻された木の香り。俺は、薪の種類による火力の違いや、ひとつまみの粉を窯に投げ入れ、その焦げ色で完璧な温度を見極める「試し粉」の技術など、自然の素材と向き合うからこそ生まれた知恵を、一つひとつ丁寧に彼女に伝えていく。
次に、俺は工房の棚から、一つのガラス瓶を大切そうに下ろした。中では、とろりとした液体が、時折「ぷくり」と小さな気泡を浮かべている。まるで、穏やかに呼吸をしているかのようだ。
「これが、うちのパンの心臓部、『天然酵母』です」
瓶をアニカに手渡すと、彼女は恐る恐るそれを受け取った。蓋を開けると、ふわりと鼻をくすぐる、甘酸っぱく、どこか果物を思わせる芳醇な香り。
「これは道具じゃない、生き物なんです。毎日、餌をあげて、機嫌を伺って…子育てと同じですよ」
俺がそう語り始めると、工房の隅から、つちのこがそっと姿を現した。彼は迷いなくこちらへやってくると、アニカが持つ瓶の隣にちょこんと座り、まるで我が子を見守るように、頭の双葉を優しく揺らしている。
「それに、果実酒を作った時に出る澱(おり)のような、栄養価の高いものを少し加えると、酵母がもっと元気になるんです。見てください、喜んでる」
俺が指さすと、澱を加えた瓶の中で、気泡が生まれる速度がわずかに速まった。アニカは、酵母をまるでペットのように扱い、そして、小さな精霊にまで愛される俺のパン作りの光景に、言葉を失っていた。彼女の世界では、酵母とは「材料」であり、決して「仲間」ではなかったからだ。その価値観の根底からの揺らぎが、彼女の瞳を大きく見開かせていた。
生地の発酵と成形の工程で、俺はアニカのパン作りをさらにレベルアップさせるための、いくつかの道具を自作してみせた。
まずは、生地の最終発酵で形を整えるための『発酵かご』の代用品だ。俺は手のひらに意識を集中し、頭の中のカタログを高速でめくる。これと、これだ。
ポンッ!ポンッ!
霧散した光の粒子の中から、まず白いプラスチック製のザルが、続いて畳まれた清潔な綿のふきんが現れ、俺の手に収まった。
【創造力:150/150 → 139/150】
(Dランク『プラスチック製のザル』コスト10、Eランク『綿のふきん』コスト1。合わせて11か。称号『キャンプシェフ』の効果で5%軽減されて、消費は10.45。よしよし)
「パン屋には『バヌトン』っていう専用の発酵かごがあるんですが、これで十分。ザルに布巾を敷くだけで、生地が乾燥するのを防ぎながら、綺麗な形を保ってくれるんですよ」
俺が手際よくセットして見せると、アニカは「そんなもので代用できるなんて…」と感心しきりだ。
そして、ついに、アニカが、俺の教えの全てを注ぎ込み、自分の手でパンを焼き上げる時が来た。彼女は、自らの手で成形し、震える指でクープを入れた生地を、まるで祈るようにして熱い石窯の中へと滑り込ませた。
待つこと、しばし。工房の中は、沈黙と、薪のはぜる音、そして次第に満ちてくる、甘く香ばしい匂いだけに支配されていた。それは、商業用のイーストが放つ単調な香りではない。小麦の力強い香り、酵母が醸し出す複雑でフルーティーな香り、そして石窯が与える微かな燻香が混じり合った、生命力に満ちた芳香だった。
「……そろそろ、ですね」
俺の言葉に、アニカはごくりと唾をのむ。
俺が長いピールで窯から取り出したパンは、芸術品と言ってもよかった。こんがりと焼けたキツネ色の表面は、クープを入れた部分が見事に花のように開き、力強く盛り上がっている。それは「天使のささやき」と呼ばれる、焼きたてのパンだけが奏でる、パチパチ…という微かな音を立てていた。
アニカは、まだ熱いパンを両手でそっと受け取ると、その重みと温かさを確かめるように、じっと見つめている。そして、ひとかけらをちぎり、おそるおそる口へと運んだ。
サクッ、という軽快な音。次の瞬間、彼女の瞳が驚きに見開かれる。そして、噛みしめるほどに広がる、小麦の深い甘みと、酵母の豊かな風味に、ハラハラと大粒の涙が頬を伝った。
「美味しい…!美味しいです…!」
彼女は、涙を拭うと、俺に向かって深々と頭を下げた。
「パンの作り方だけじゃありません…。薪の割り方、火の熾し方、酵母との静かな対話、そして…なにより、仲間と温かいものを囲んで笑い合う、この時間…。私が町で追い求めていた『最高のパン』の答えは、技術の先にある、こんな毎日の中にあったんですね…」
彼女のその言葉こそ、俺たちがこの森で築き上げてきた、豊かな生活の価値を証明するものであり、最高の賛辞だった。
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