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第七十四話『冬の谷と、騎士の一投』
しおりを挟むシラタマの、決意に満ちた雄叫びが、冬の森の静寂に溶けていく。その声に応えるように、俺は静かに、しかし力強く頷いた。
「行きましょう」
その一言が、俺たちの覚悟の全てだった。俺たちは再び、未知の森の奥深くへと足を踏み出す。
先頭を行くシラタマの足取りには、もう迷いはない。彼の魂が、見えざる声の主へと、確かに引き寄せられている。その後ろを、俺とリディアが続く。時折、滑りやすい雪面で俺が体勢を崩せばリディアがそっと腕を支え、彼女の視界が木々で遮られれば俺が前方の危険を告げる。言葉はなくとも、背中を預け合う騎士のように、俺たちの間には、確かな信頼が満ちていた。
太陽が低くなり、木々の影が青く長く伸び始める。空気は、肌を刺すように冷たい。だが、俺たちの心は、仲間を想う一つの目的によって、不思議なほど温かかった。
数時間進んだ頃、森が、まるで世界が終わるかのように、ぷっつりと途切れた。
俺たちの目の前に、巨大なクレバス…深く、そして広い『谷』が、巨大な口を開けて横たわっていた。夏であれば激流が走っていたであろうその場所は、今は厚い雪と氷に覆われ、対岸が霞むほど遠い。底を覗き込もうにも、ただただ青黒い闇が広がっているだけだ。
「これは…迂回するしかないな…」
リディアが呆然と呟き、谷の縁へと一歩踏み出そうとした、その瞬間。
「リディアさん、シラタマ、動かないで!」
俺の、今までにないほど鋭い声に、二人が凍り付く。
「そこから先、雪が庇(ひさし)のように張り出している…『雪庇(せっぴ)』です!見た目は地面の続きに見えますが、下は空洞だ。重みをかければ、一瞬で谷底へ崩れ落ちますよ!」
俺のサバイバル知識が、絶体絶命の危機から、仲間を救った。リディアは、自分の足元にあった、死への入り口を想像し、青ざめた顔でゴクリと喉を鳴らした。
陽が傾き、冷たい風が谷から吹き上げてくる。決断の時が迫っていた。
「この谷を、渡ります」
俺の静かな宣言に、リディアは「正気か!?」と目を見開く。俺は、スキルで、これまで召喚したどんな紐よりも太く、頑丈なロープと、命を繋ぐための道具を召喚した。
ポンッ!ポンッ!
【創造力:80/150 → 60/150】
(Bランクの『物干しロープ』と、Dランクの『カラビナ』数個。コストは20か…安いものだ。これで、みんなの命が繋がるなら)
俺は、ロープの端に重い石を括り付け、それをリディアに渡した。
「リディアさん。あなたの力と、正確さが必要です。対岸の、あの一番太い樫の木に、これを…!」
「…承知した!」
リディアは、もはやただの女騎士ではなかった。彼女は、狙いを定める投擲手のように、風を読み、距離を測り、全身の筋肉をしなやかなバネのように使った。
「はっ!」
短い気合と共に、彼女の手から放たれた石は、美しい放物線を描いて、唸りを上げて対岸へと飛んでいく。そして、まるで意思を持っているかのように、狙い過たず、樫の木の幹に、ガツン!という音と共に命中し、ぐる、ぐると、完璧に巻き付いた。
それは、もはやただの力ではない。幾多の戦場を生き抜いてきた、彼女の騎士としての技術の、結晶だった。
ロープをこちら側の木に固く結びつけ、一本の頼りない命綱が、絶望の谷に架かった。
「私が先に行く。対岸で、貴殿たちの安全を確保する」
リディアは、寸分の迷いもなく、ロープにカラビナをかけると、驚くほど安定した体幹で、谷の闇の上へと進んでいく。
彼女が無事に対岸にたどり着き、ロープを固く固定したのを確認すると、次はいよいよ俺とシラタマの番だ。俺はシラタマを胸にしっかりと抱きかかえる。
「大丈夫、絶対に落としませんから」
シラタマは、俺の腕の中で、恐怖に小さく震えながらも、暴れることなく、ただじっと俺の顔を見つめていた。その瞳が、「信じている」と語っていた。
一歩、また一歩と、闇の上を進む。ロープが体重できしみ、谷底から吹き上げる風が、体温を容赦なく奪っていく。下を見るな。前だけを見ろ。腕の中の温もりだけを、信じろ。
永遠にも思える時間を経て、俺たちの足が、ついに対岸の固い地面を踏んだ時、全身からどっと力が抜けた。
決死の渡渉を終え、三人が対岸に降り立った時、誰もが、世界の空気が変わったことに気づいた。
谷のこちら側とは違い、風はなく、木々は静まり返り、まるで巨大な聖堂の中にいるかのような、神聖な静寂が満ちている。この谷が、外部の侵入者を拒む、天然の城壁だったのだ。
そして、シラタマが、一点を見つめて、ぴたりと動きを止めた。
彼の視線の先。雪に覆われた、巨大な洞窟の入り口。まるで、山そのものが、大きく口を開けているかのようだ。その入り口の周りだけ、不思議と雪が溶け、微かな湯気のようなものが立ち上っている。
俺たちが、息を殺して耳を澄ますと、その暗闇の奥から、確かに聞こえてきた。
―――スゥゥゥ……フゥゥゥ……
雄叫びではない。何かを深く、深く吸い込み、そして穏やかに吐き出す、巨大な生物の、安らかな『寝息』が。
あの呼び声の主は、今、この中で、静かに眠っている。
俺たちの旅は、一つの目的地にたどり着いた。そして、それは、全く新しい物語の、始まりの扉でもあった。
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