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第六話:ワーウルフと満月のステーキ (1/3)
しおりを挟むドライアドの少女が希望を取り戻して森へ帰ってから、数日が過ぎた。店にはまた、穏やかで、少しばかり手持ち無沙汰な時間が戻ってきていた。俺、仏田 武ことぶっさんは、カウンターの内側で新しく手に入れた岩塩を指でつまみ、その味を確かめていた。
「ふむ、角のない、まろやかな塩味だ。これなら繊細な料理にも使えるな。次は、こいつで魚の塩釜焼きでも試してみるか……」
そんなことを考えながら、淹れたての珈琲で一息つく。窓の外では、木漏れ日がきらきらと揺れ、小鳥のさえずりが聞こえる。これぞスローライフ、平和そのものだ。
と、その時だった。
店の外から、奇妙な音が聞こえてきた。
**ガリッ……ポロポロ……。**
**ガリ、ガリッ……ポロ……。**
何かを引っ掻く音だが、どうにも歯切れが悪い。まるで、湿気った煎餅をかじるような、頼りない音だ。気になって外を覗いてみると、店の入り口脇の柱に寄りかかって、一人の少年がうなだれていた。年の頃は十代半ばだろうか。着ている服はところどころ擦り切れ、その頭にはぴんと立った狼の耳が、そして腰からは、力なく垂れたふさふさの尻尾が生えている。ワーウルフの子供だ。
彼は、店の柱で自分の爪を研ごうとしているらしかった。だが、その試みは、どう見てもうまくいっていない。鋭利な刃物が木を削るような小気味良い音はせず、彼の爪の方が、まるで脆くなったビスケットのように、ポロポロと虚しく欠けていくだけだった。
「おい、坊主。そんなことしてると、柱も、お前の大事な爪も、どっちもダメになっちまうぞ」
俺が声をかけると、少年は雷に打たれたようにビクッと体を震わせ、怯えに満ちた瞳でこちらを見た。その潤んだ目には、深い絶望と、諦めの色が浮かんでいる。
《ご、ごめんなさい……! すぐに、やめるから……! 怒らないで!》
「いや、別に怒っちゃいねえよ。ただ、ちょっと気になってな。それより、その爪、どうしたんだい? 随分と脆そうじゃねえか」
俺が彼の爪先に視線を落とすと、少年はまるで罪を隠すかのように、慌てて自分の手を背中に隠した。そして、ぽつり、ぽつりと、心の声で悩みを打ち明け始めた。
《もうすぐ、満月なんだ……。僕、ガルっていうんだけど……初めて、群れの狩りに参加するんだ。なのに……爪が、このザマで……。これじゃあ、獲物も仕留められないし、きっと、みんなに笑われちまう……》
なるほど。ワーウルフにとって、爪は誇りであり、生きるための狩りの道具だ。それがこれでは、死活問題だろう。俺は彼を店の中に招き入れ、落ち着かせるために一杯の温かいミルクを出してやった。
「もう少し、詳しく聞かせてくれるかい? いつからそんな状態なんだ?」
ミルクを一口飲んで少し落ち着いたのか、ガルは俯きながら、ぽつりぽつりと語り始めた。群れの中での自分の立場、狩りの下手さ、そして、いつも強い者たちの食べ残ししか口にできないこと。
俺は彼の話を聞きながら、その爪をもう一度よく見せてもらった。
(艶がなく、薄くて、層が剥がれかけている……。これは、病気や呪いの類じゃない。もっと根本的な、体の内側の問題だ)
俺の頭の中で、これまでの経験が一つの仮説を組み立てていく。
コカトリスの瞬膜、グリフォンの視力、ドライアドの葉緑素……そして、このワーウルフの爪。彼らの悩みは全て、その種族特有の体の仕組みと、それを正常に維持するための「栄養」に繋がっている。
そして、俺の料理を食べた彼らに起きた、即時的な回復。
あれは、ただの偶然じゃない。
(この世界の魔物や精霊たちは、その体に人間とは比べ物にならないほどの強大な魔力や生命力を宿している。だからこそ、その体を維持するための特定の栄養素が欠乏すると、一気に不調が表に出る。だが逆に言えば……)
俺は、目の前でうなだれる悩める少年に、確信めいた視線を送る。
(完璧な栄養素を、完璧な調理法で体に届けてやることができれば、彼らが本来持つ強大な生命力が起爆剤となって、驚異的な速度で自己修復を始めるんじゃないか……? 魔法と科学の相乗効果。俺の料理は、そのための『スイッチ』になるのかもしれない)
「……なるほどな」
俺は、自分の中で一つの答えにたどり着き、ニヤリと笑った。
「坊主、心配するな。あんたのその爪、俺が鋼のように、いや、ダイヤモンドのようにしてやるよ」
《え……? でも、どうやって……?》
「丈夫な爪を作るには、良質なタンパク質、それに亜鉛やビオチンが必要不可欠だ。つまり、最高の肉料理を食えばいい。問題は、その『最高の肉』をどうやって手に入れるかだが……」
俺がそう言って腕を組んだ、まさにその時だった。
店の外の空気が、一瞬にして変わった。突風が吹き、店の前の木々が大きくざわめく。空が、巨大な影で覆われた。
***
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