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第百七十二話:絶対零度の微笑、あるいは「化かし合い」の序曲
しおりを挟む王都の中央市場、その最果てにある廃棄場。
腐敗した魚の内臓が放つ鼻を突く悪臭と、石畳に染み付いた古びた油の匂い。市場の喧騒が遠く反響するこの場所で、時間は唐突に凍りついた。
「おやおや。そんなゴミの山を熱心に眺めて、君は随分と……そう、独創的な『趣味』をお持ちのようだね」
絹のように滑らかで、それでいて氷の刃のように背筋を撫でる声。
俺――ルークス・グルトは、伸ばしかけた手を止めることなく、コンマ数秒の間で脳内の「演技プロトコル」を起動した。心拍数を意図的に引き上げ、瞳孔を僅かに開き、驚きと好奇心が混ざり合った「無邪気な子供の仮面」を貼り付ける。
ゆっくりと振り返った視界の先。そこに立っていたのは、陽光を弾くほど完璧に整えられた銀髪と、非の打ち所のない穏やかな微笑を浮かべた青年だった。
(……ジルヴァ。設定資料集に記された、もう一人の転生者。そして、ポイントを『奪う側』の略奪者)
俺の右目は、無意識に彼の情報を読み取ろうと「鑑定」を走らせる。
だが、網膜に投影されたのは、これまでこの世界で見てきた何よりも異常な、壊れたログだった。
【対象:ジルヴァ……[ERROR]……判定不能】
【ステータス:[SYSTEM_ERROR]……文字化け……赤黒い警告表示】
【ポイント換算価値:測定不可(世界の理に対する致命的な不協和音)】
(なんだ……? 文字化け、だと? 『鑑定』スキルが、こいつの存在そのものを拒絶しているのか。こいつ、ただの転生者じゃない。ポイントシステムの根幹にまで、何らかの『毒』を流し込んでいるのか……)
「あ、こんにちは! お兄さんもこれ、探しに来たの? この貝殻、太陽に当てるとすっごく綺麗なんだよ! 妹にお土産にしようと思って!」
俺は、拾い上げた『アビス・パールの母貝』を掲げ、満面の笑みを作った。
一言の台詞を発する間にも、俺の意識はジルヴァの僅かな筋肉の動き、視線の指向性をミリ単位でトレースし続ける。
彼の視線は、俺の手元にある貝殻には目もくれず、俺の「瞳」の奥にある魂の正体を引き摺り出そうとするかのように、執拗に食い込んでくる。
「『綺麗』、か。確かに、無知な者にとってはただの美しいゴミだろうね。だが、それは本来、ここにあるべきものではないんだよ」
ジルヴァが、優雅な所作で一歩、間合いを詰めてくる。
石畳を叩く彼の靴音は、周囲の喧騒を物理的に塗り潰すほどに冷たく、重く響いた。
俺の足元で、愛らしい小犬に扮したフェンが、喉の奥を僅かに震わせた。念話を通じずとも伝わってくる、魔獣としての本能的な、最大級の警告だ。
(フェン、堪えろ。ここで牙を剥けば、俺たちの正体が、積み上げてきた平穏が、全て露見する)
「……ここにあるべきじゃない? どういうこと? 落ちてたんだから、誰かが捨てたゴミでしょ? 拾ったもん勝ちじゃないのかな」
俺は首を傾げ、いかにも「難しいことは分からないが、自分の権利は主張する」という図太い子供を演じる。
「ゴミ、か。ふふ、君の言う通りだ。この世界は、真の価値を知らぬ者たちが宝をゴミとして捨て、価値のないゴミに虚飾の価値を見出して争う……実に『出来の悪いクソゲー』なんだよ、ここは」
ジルヴァの言葉に、前世の記憶が鋭い棘となって突き刺さる。
深夜のオフィス。意味のない会議。実態のない数字。あちらの世界も、彼に言わせれば同じ「クソゲー」だったのだろう。だが、俺はそのクソゲーの泥濘の中から、ポイントというささやかな希望を拾い集め、わずかな幸せを守るために必死に生きて、死んだ。
こいつの言う「価値」とは、他者を踏みにじるための力でしかない。
「クソゲー……? お兄さん、変なこと言うんだね。僕はただ、お土産が欲しいだけなんだけどな。あ、それともこれ、お兄さんのだった? それなら返してあげるけど」
「いや、僕のものではないよ。ただ……その『欠片』がここにあるということは、南の海で『深淵の心臓(アビス・ハート)』に、取り返しのつかない綻びが生じている証拠だ。……世界が喰われ始めている。その前触れだよ、少年。君が拾ったのは、滅びの招待状だ」
ジルヴァが、さらりと「世界の捕食者」に関わる禁忌の知識を口にする。
市場の喧騒が、急に真空の中に置かれたように遠ざかった。
夕闇が路地裏に忍び寄り、石畳の熱を奪っていく。頭上の魔法灯がチカチカと不規則に明滅し、俺とジルヴァの影を、化け物のように不自然に引き伸ばした。
(……凄まじい揺さぶりだ。俺がこの単語の意味を理解できるかどうか、その反応の0.1秒の遅れを、こいつは見逃すつもりがない)
俺は「ぽかん」とした、最高に馬鹿げた表情を数秒間維持した。それから、わざとらしく鼻を鳴らして笑ってみせる。
「ふーん、よくわかんないや! お兄さん、吟遊詩人になれるくらいお話を作るのが上手なんだね。でも僕、もう帰らなきゃ。夕飯の献立を考えなきゃいけないんだ。今日は宿屋のおじさんに、特別なスープを試食させてあげる約束だから」
そう。どんな巨大な世界の危機が語られようと、俺の最優先事項は常に「今日の献立」と「目の前の安らぎ」だ。
ジルヴァを単なる「変な人」として処理し、背を向けて一歩踏み出す。
その背中に、再び彼の声が――今度は温度を持たない氷結の宣告となって突き刺さる。
「……ルークス・グルト君。辺境伯の懐刀、リーフ村の神童。君が持ち込んだその『砂糖』と『知識』は、王都の均衡を壊しかねない。……君は、どちら側のプレイヤーなのかな?」
俺の足が、一瞬だけ止まる。
名前、経歴、王都での行動。全てが既に、蛇の毒のように回っていた。
振り返らず、俺はわざと明るい声で、肩をすくめてみせた。
「お兄さん、本当に詳しいんだね。でも僕はただの農民だよ。美味しい野菜を育てて、お小遣いを貯めて、いつか一日中お昼寝して暮らすのが夢なんだ。じゃあね、不思議なお兄さん!」
俺はフェンを促し、早足で市場の雑踏の奥へと紛れ込んだ。
背後には、ジルヴァの視線が粘りつくような冷気となって残り、俺の心臓の鼓動を不気味にトレースし続けていた。
(……喰われる世界、か。そんな大層な問題は、世界の救世主か管理組合にでも任せておけばいい。俺は俺の、手の届く範囲の『平穏』を、絶対に手放さない。そのためには……もっと圧倒的な、誰も手出しできないほどのポイントが必要だ。あのジルヴァという略奪者に、俺の農民としてのペースを乱されてたまるか)
宿屋『銀の蹄亭』への帰り道。
俺は収納魔法の深奥にある『世界樹の髭根』と『アビス・パールの欠片』の、目に見えない重みを意識しながら、脳内では既に、今日の市場で鑑定した食材のリストを再構築していた。
「……主よ、あ奴は危険だ。ポイントイーター……いや、存在そのものがこの世界の『バグ』だ。次に会う時は、私がその喉笛を、主の平穏のために食い千切ってやる」
「……ああ。だが今は、奴の毒に当てられた心を中和するための『栄養』が必要だ。フェン、帰ったら特製の肉野菜炒めだ。王都産の香辛料を贅沢に使ってな。……影に怯えて、飯の味が分からなくなるような生き方は、俺はあっちの世界で卒業したんだよ」
市場の巨大な門を抜けると、白亜の城壁が夕日に赤黒く、まるで血の色に染まっていた。
平和なスローライフを追い求める俺の足元に、王都編の巨大な陰謀という「深淵」が、不気味に、そして確実に口を開けていた。
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【読者へのメッセージ】
第百七十二話(真・完全版)をお読みいただき、ありがとうございます!。
システムエラーを起こすほどのジルヴァの異質さと、それに対し「夕食の献立」という日常を盾にして戦うルークス。この歪な対比こそが、本作の真骨頂です。
次回、拾った「ゴミ」がもたらす驚愕のポイント精算と、その加工。さらに、ルークスの料理の香りに誘われて宿を訪れる、意外すぎる「最初のVIP」とは……?
「ジルヴァの不気味さに鳥肌が立った!」「ルークスの『農民のフリ』が凄まじい……」という方は、ぜひ評価やブックマークで応援をよろしくお願いいたします!皆様のブックマークが、ルークスの次なる「対侵食防衛プロトコル」の起動キーとなります。
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