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第百九十話:おかえりと、あたたかなスープ
しおりを挟む地下水路の湿った闇から這い出し、夜の冷気に触れた瞬間、肺の奥まで凍りつくような錯覚を覚えた。
月明かりが、静まり返ったリーフ村の小道を青白く照らしている。遠くで夜鳥が鋭く鳴く声が響き、それが現実の世界に戻ってきた唯一の証拠のように思えた。
「……ふぅ、やっと、戻ってきたな」
俺の声は掠れ、足元はおぼつかない。泥と、自分のものではない返り血で汚れた服が、夜風に吹かれて体温を奪っていく。全身の筋肉が「もう一歩も動きたくない」と悲鳴を上げ、視界の端では使い切ったポイントウィンドウが虚しく『15pt』という数字を点滅させていた。
この15ポイントは、地下から村へ辿り着くまでの間、無意識に道に転がっていた大きな石を端に寄せたり、力なく項垂れる街路樹の枝を整えたり、あるいは瀕死のフェンを片時も離さず抱えて歩き続けたことへの、システムからの微々たる「歩数・善行ボーナス」だろう。
かつて一万五千あった数字に比べれば、あまりにも心もとない。だが、どん底からでもポイントは貯まるのだという事実は、今の俺にとって奇妙な救いだった。
腕の中には、心地よい重みと温もりがあった。
クゥ、と鼻を鳴らしたのはフェンだ。
一時はあのジルヴァによって命の灯火が消えかけていた相棒。若体期への強引な覚醒という無理をさせたせいで、今は元の小さな子犬の姿に戻り、泥のように眠りこけている。
一万五千ポイントという、俺が心血を注いで積み上げてきた「貯金」は、すべて消えた。
明日買うはずだった、母さんのための石鹸も、父さんのための丈夫な軍手も、マキナが楽しみにしていた精製された真っ白な砂糖も。
だが。
腕の中に伝わる、トクトクという一定のリズムを刻む心臓の鼓動。
前世のあの夜、俺がどれだけ望んでも、どんなに効率的にポイントを稼いでも手に入らなかった「大切な奴の命」が、今、ここにある。
「……ポイントなんて、また貯めればいい。な、フェン」
俺は誰に聞かせるでもなくそう呟き、村の外れにある、見慣れた我が家の灯りを目指した。
---
我が家の扉の前に立ち、一つ深呼吸をする。
漏れ出すオレンジ色の灯火が、夜の闇を優しく切り取っていた。
震える手で木製の扉を押し開けると、建付けの悪い蝶番が、夜の静寂を破るような甲高い音を立てた。
「――ただいま」
その一言が終わるか終わらないかのうちに、奥の台所から激しい足音が響いてきた。
「ルークス! あんた、こんな時間までどこをほっつき歩いて……!」
現れたのは、母のリリアだった。手に持っていたおたまを放り出しそうになりながら、俺の姿を見て、彼女は目を見開いた。
「な、なによその格好! 怪我してるじゃない! 血まで……っ!」
「あはは……ちょっと、森で派手に転んじゃって。心配かけてごめん」
咄嗟についた嘘は、自分でも驚くほど下手くそだった。
ブラック企業時代、無理が祟って倒れそうになっても「大丈夫です」と笑って誤魔化してきた。あの頃と同じ、一人で抱え込もうとする悪い癖だ。
ジルヴァという異常な男との戦い、世界の理から外れたスキルの応酬。そんなことを話しても、母さんは理解できないだろうし、何よりこれ以上心配をかけたくなかった。
「森で転んで、服がこんなにボロボロになるわけないでしょ! あんたって子は、いつもそう! 一人で勝手に危ないことして、涼しい顔して……!」
母さんの声が震えている。彼女は俺の泥だらけの頬を、汚れるのも構わずに両手で包み込んだ。その手の温もりが、戦いで強張っていた俺の心をじわりと溶かしていく。
「馬鹿ね……本当に、大馬鹿者なんだから……」
母さんの目から大粒の涙がこぼれ、俺の泥汚れを洗い流すように滴った。
叱責。それは、俺を失うことを何よりも恐れた、深い愛情の裏返しだった。
「リリア、そこまでにしておけ。ルークスは戻ってきたんだ」
奥の部屋から、父のアルフレッドが静かに姿を現した。
彼は多くを語らなかったが、俺の下手な嘘など疾うに見抜いているだろう鋭い、けれど慈愛に満ちた眼差しで俺を見た。そして、何も聞かずに、節くれだったその大きな手を俺の肩に置いた。
その手の重みだけで、十分だった。
俺は、自分がどれだけの人々に支えられ、愛されているかを、今更ながらに痛感した。
いつか……いつか、この強くて優しい家族に、すべてを打ち明けられる日が来るだろうか。自分一人で抱え込まずに、心から頼ることができるだろうか。そんな願いが、温かな痛みと共に胸に去来した。
---
「さあ、いつまでそこに立ってるの。お風呂は無理でも、体を拭いて、温かいものを食べなさい。ほら、フェンちゃんもこっちへ」
母さんは涙を拭うと、すぐにいつものテキパキとした動きに戻った。
食卓には、ルークスが以前提供した『だしの素』を隠し味に使った、野菜たっぷりのスープが並べられた。
「おにーちゃん! フェンちゃんも!」
目をこすりながら起きてきたマキナが、俺の膝に飛びついてくる。俺は、いつもの小さな姿で「クゥ」と甘えるフェンをマキナに預け、用意されたスープを一口啜った。
「……あつい。けど、うまいな」
野菜の甘みと、出汁の深いコクが、疲れ切った胃に染み渡る。
ポイントで交換した豪華なフレンチや珍味なんかじゃない。リーフ村の痩せた土地で、家族が必死に育て、母さんが愛情を込めて煮込んだ、ただの「スープ」だ。
けれど、これこそが俺の求めていた「スローライフ」の真髄だった。
前世の俺は、深夜のオフィスでカップ麺を啜り、スマホでポイントの変動レートを眺めるだけの食事を「効率的」だと思い込んでいた。
だが、今の俺にはわかる。
大切な家族の顔を見ながら、今日あったことを(嘘を交えつつも)語り合い、同じ鍋の料理を囲む。
この「無駄」で「非効率」な時間こそが、命を繋ぐために最も必要な栄養素なのだ。
フェンも、マキナに小さく切ってもらったパンの切れ端を、寝ぼけ眼で幸せそうに咀嚼している。一時は若体期へと背伸びをして戦った反動か、今はただの食いしん坊な子犬に戻って、尻尾をパタパタと振っていた。
一万五千ポイント。
失った数字は大きいが、後悔はない。
「……よし、決めた」
「何を決めたの、ルークス?」
母さんが首を傾げる。
「ううん、何でもない。明日から、また畑仕事、頑張ろうと思ってさ」
俺はスープを最後の一滴まで飲み干した。
---
翌朝。
窓から差し込む眩しい朝日と共に、俺は目を覚ました。
昨夜の疲れはまだ残っているが、不思議と体は軽かった。
枕元で、お腹を出して仰向けに寝ているフェンの腹を軽く突っつく。
「おい、フェン。起きろ。仕事の時間だぞ」
「クゥ……? あるじ……まだ、ねむい。……あ、あさごはん……?」
フェンの念話も、いつもの幼い、けれど愛らしい響きに戻っていた。
俺は一人で苦笑しながら、視界の端にポイントウィンドウを呼び出した。
【現在の所持ポイント:15pt】
あまりの少なさに、思わず笑いが漏れる。
前世なら、一ヶ月分の給料が振り込まれた直後に残高が数百円になったような絶望感に襲われていただろう。
だが、今の俺は違う。
俺はクワを手に取り、裏庭の畑へと向かった。
冬を前に、土を休ませるための手入れが必要だ。堆肥の具合も確認しなければならないし、冬越しの野菜の苗も植えたい。
ふと、昨夜ジルヴァが去り際に見せつけた「幾何学的な黒い石」の、魂まで凍てつかせるような冷たさを思い出した。
一瞬、クワを握る手にぐっと力が入り、指先が白くなる。
あのような理不尽な絶望が、この穏やかな村を、俺の家族を狙っている。
守らなければならない。そのためには、もっと知識を、もっと力を、そしてもっと多くのポイントを積み上げなければ。
畑の雑草を一粒抜くたびに、1ポイント。
土を耕し、家族の笑顔を守るために汗を流すたびに、少しずつポイントが積み上がっていく。
派手な魔法も、世界を救う勇者の称号も、今の俺には必要ない。
俺は、この辺境の小さな村で、一人の「農民」として生きていく。
ジルヴァが残した予兆や、世界の捕食者という不穏な影は、依然としてそこにある。
けれど、俺は負けない。
この穏やかな日常を守るためなら、俺は何度でも、一からポイントを積み上げてみせる。
「いくぞ、フェン。まずはあの区画の雑草抜きからだ!」
「クゥ! ごほうびの……ひまわり油のお菓子……わすれないでね!」
相棒の元気な返事を聞きながら、俺は朝露に濡れた土に、力強くクワを打ち込んだ。
俺の、新しい「スローライフ」が、ここからまた始まるんだ。
---
読者の皆様、第百九十話「おかえりと、あたたかなスープ」をお読みいただきありがとうございました!
激戦を終え、ルークスが本当の幸せを再認識する「癒やし回」となりました。
一万五千ポイントという大きな財産を失っても、なお前を向くルークスの姿に、勇気をもらっていただければ幸いです。
次回からは、冬の足音と共に、辺境伯領に新たな動きが……?
ルークスの農業知識が、今度は村全体をどう変えていくのか。
ぜひ【評価】や【ブックマーク】で、ルークスの「一からのポイント稼ぎ」を応援してあげてください!
皆様の感想も、心よりお待ちしております!
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