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第17話 幕間・女将の休日
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その日一日、あたしは、何年ぶりかに、ただの「ベアトリス」に戻っていた。
自室の窓から、夕暮れに染まる街を眺める。食堂の方からは、あたしの代わりに店を切り盛りする、日向とリリィアの、楽しそうな声が聞こえてくる。
いつもなら、いてもたってもいられず、すぐに飛び出していくはずなのに。
今のあたしは、不思議と、穏やかな気持ちで、その声を聴いていた。
(……あたしは、間違っていたのかもしれないね)
腹の底には、まだ、あの朝ごはんの温かさが、確かに残っている。
宿屋が繁盛し始めた時、あたしは、嬉しかった。心の底から。
だが、それと同時に、怖くもあったのだ。
押し寄せる客、終わらない仕事。あたしが、この手で、この宿屋を守り抜かなければならない。夫が遺してくれた、この場所を、リリィアが帰ってくるこの場所を、絶対に無くしてはならない。
その想いが、いつしか、重い鎧になって、あたしの心と体を、ギリギリと締め付けていた。
疲れていることなんて、気づいていた。
朝、目が覚めても、鉛のように体が重いことも。
些細なことで、イライラしてしまう自分に、嫌気が差していたことも。
でも、あたしは「女将」だ。
弱音なんて、吐けるはずがなかった。
あたしが倒れたら、この宿屋は、リリィアは、どうなるのか。
そう思うと、休むことさえも、罪のように思えた。
――あの、朝ごはんを、目の前にするまでは。
日向が作った、あの二つの膳。
一つは、肉と豆が盛られた、力強い応援歌のような一皿。
もう一つは、飯と汁物が並んだ、ただひたすらに優しい、祈りのような一皿。
味噌汁を、一口すすった時のことを、忘れられない。
温かい出汁の味が、乾ききっていたあたしの心の荒野に、じんわりと、じんわりと、染み渡っていった。
それは、ただのスープじゃなかった。
「もう、一人で頑張らなくていいんだよ」
そう語りかけてくるような、優しい味だった。
そして、あの『月見うずら』の卵。
口に入れた瞬間、張り詰めていた神経の糸が、ぷつり、と、音を立てて切れたのが分かった。
涙が、溢れて止まらなかった。
あれは、悲しい涙じゃない。
悔しい涙でもない。
やっと、肩の荷を下ろすことができた、安堵の涙だったのだ。
あたしは、一人じゃなかった。
この宿屋には、あたしのことを、ちゃんと見ていてくれる家族が、もう一人、増えていたのだ。
(……ありがとうよ、日向)
あんたは、あたしの腹だけじゃなく、頑固な心まで、満たしてくれた。
あたしが、本当に守りたかったものは、宿屋の看板だけじゃない。
こうして、家族と笑い合いながら囲む、温かい食卓だったのだと、思い出させてくれた。
コンコン、と部屋の扉がノックされる。
「お母さん、夕ご飯、できたよ! 今日はね、私が日向さんに教わって、シチューを作ったんだ!」
リリィアの、弾むような声。
あたしは、涙の跡をそっと拭うと、扉を開けた。
「はいはい、今行くよ。あんたのシチューが、どんな味か、しっかり味見してやらないとね」
口ではそう言いながらも、あたしの顔は、きっと、この人生で一番、優しい顔をしていたに違いない。
女将じゃない、ただの母親としての、穏やかな笑顔を。
◼️◼️◼️◼️◼️
ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございます!皆さんの感想や、フォロー・お気に入り登録が、何よりの励みになります。これからも、この物語を一緒に楽しんでいただけたら幸いです。
自室の窓から、夕暮れに染まる街を眺める。食堂の方からは、あたしの代わりに店を切り盛りする、日向とリリィアの、楽しそうな声が聞こえてくる。
いつもなら、いてもたってもいられず、すぐに飛び出していくはずなのに。
今のあたしは、不思議と、穏やかな気持ちで、その声を聴いていた。
(……あたしは、間違っていたのかもしれないね)
腹の底には、まだ、あの朝ごはんの温かさが、確かに残っている。
宿屋が繁盛し始めた時、あたしは、嬉しかった。心の底から。
だが、それと同時に、怖くもあったのだ。
押し寄せる客、終わらない仕事。あたしが、この手で、この宿屋を守り抜かなければならない。夫が遺してくれた、この場所を、リリィアが帰ってくるこの場所を、絶対に無くしてはならない。
その想いが、いつしか、重い鎧になって、あたしの心と体を、ギリギリと締め付けていた。
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朝、目が覚めても、鉛のように体が重いことも。
些細なことで、イライラしてしまう自分に、嫌気が差していたことも。
でも、あたしは「女将」だ。
弱音なんて、吐けるはずがなかった。
あたしが倒れたら、この宿屋は、リリィアは、どうなるのか。
そう思うと、休むことさえも、罪のように思えた。
――あの、朝ごはんを、目の前にするまでは。
日向が作った、あの二つの膳。
一つは、肉と豆が盛られた、力強い応援歌のような一皿。
もう一つは、飯と汁物が並んだ、ただひたすらに優しい、祈りのような一皿。
味噌汁を、一口すすった時のことを、忘れられない。
温かい出汁の味が、乾ききっていたあたしの心の荒野に、じんわりと、じんわりと、染み渡っていった。
それは、ただのスープじゃなかった。
「もう、一人で頑張らなくていいんだよ」
そう語りかけてくるような、優しい味だった。
そして、あの『月見うずら』の卵。
口に入れた瞬間、張り詰めていた神経の糸が、ぷつり、と、音を立てて切れたのが分かった。
涙が、溢れて止まらなかった。
あれは、悲しい涙じゃない。
悔しい涙でもない。
やっと、肩の荷を下ろすことができた、安堵の涙だったのだ。
あたしは、一人じゃなかった。
この宿屋には、あたしのことを、ちゃんと見ていてくれる家族が、もう一人、増えていたのだ。
(……ありがとうよ、日向)
あんたは、あたしの腹だけじゃなく、頑固な心まで、満たしてくれた。
あたしが、本当に守りたかったものは、宿屋の看板だけじゃない。
こうして、家族と笑い合いながら囲む、温かい食卓だったのだと、思い出させてくれた。
コンコン、と部屋の扉がノックされる。
「お母さん、夕ご飯、できたよ! 今日はね、私が日向さんに教わって、シチューを作ったんだ!」
リリィアの、弾むような声。
あたしは、涙の跡をそっと拭うと、扉を開けた。
「はいはい、今行くよ。あんたのシチューが、どんな味か、しっかり味見してやらないとね」
口ではそう言いながらも、あたしの顔は、きっと、この人生で一番、優しい顔をしていたに違いない。
女将じゃない、ただの母親としての、穏やかな笑顔を。
◼️◼️◼️◼️◼️
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*この作品は「カクヨム」様にも投稿しています。
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