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第22話 幕間・老料理長の夜
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夜。
全ての明かりが消え、静寂に包まれた厨房に、わし、バスティアンは一人、ただ立ち尽くしていた。
手の中には、まだ、あの素朴なスープの温かさが、幻のように残っている。
(……なんだったのだ、あれは)
昼間の光景が、脳裏に焼き付いて離れない。
わしの弟子たちが、あの田舎者の作った、ただの煮込み汁をすすり、子供のように泣いていた。
「母の味だ」と。
馬鹿馬鹿しい。ここは王国有数の美食の館だ。お前たちが目指しているのは、そんな感傷に浸るような、安っぽい家庭料理ではないはずだ。
そう、自分に言い聞かせた。
だが、わしの鼻腔の奥には、あの忘れがたい香りが、まだこびりついている。
野菜の甘い香り、鶏の優しい香り、そして、あの不思議な根菜が放つ、慈愛に満ちた香り。
あの香りは、わしの、何十年もかけて築き上げてきた、鉄壁のプライドを、いともたやすくすり抜けて、心の最も柔らかな場所を、直接撫でてきやがった。
好奇心ではなかった。
あれは、確認作業だったのだ。
あの若造の料理の、欠点を見つけ出し、叩き潰してやるための。
そう思って、誰もいなくなった厨房で、冷めかけたあのポトフを、一口、口に運んだ。
その刹那。
わしの、七十年の人生が、走馬灯のように、蘇った。
(……ああ、そうだ。この味は……)
わしがまだ、何者でもなかった頃。
故郷の、小さな村の、貧しい食堂で、親父の背中を見て育った頃。
冬の寒い夜、売れ残った野菜のクズと、骨についたわずかな肉を、大きな鍋で煮込んで、家族みんなで分け合って食べた、あのスープの味だ。
腹が満たされるだけじゃない。凍えた心まで、温めてくれた、あの魂の味だ。
いつからだろう。
わしが、この味を忘れてしまったのは。
王都に出て、貴族に仕え、最高の食材と、最高の技術だけを追い求めてきた。
料理は、芸術だ。美しく、完璧で、寸分の隙もない、至高の芸術。
そう信じて、全てを捧げてきた。
だが、その果てに、わしが作り上げていたものは、何だったのだ。
心がなく、ただ美しいだけの、冷たい抜け殻ではなかったか。
『素材が持つ本来の力を信じて、その声を聞き、最高の形で引き出してあげる』
あの若造の言葉が、脳裏に突き刺さる。
そうだ。わしは、いつしか、素材の声を聴くことをやめていた。
ただ、自分の技術を誇示するためだけに、食材をねじ伏せていただけだったのだ。
わしは、スプーンを持つ手が、カタカタと震えていることに、初めて気づいた。
目頭が、熱い。
この感情は、悔しさではない。
ああ、違う。これは、喜びだ。
もう一度、あの頃に戻れるかもしれない。
ただ、純粋に、「美味しい」と言ってくれる人の笑顔が見たくて、夢中で鍋を振っていた、あの頃の自分に。
わしは、残りのスープを、一滴残らず飲み干した。
そして、厨房の扉を、静かに閉める。
明日、あの若造に、一杯のコーヒーでも淹れてやろう。
もちろん、礼を言うつもりなど、毛頭ない。
あれは、ただの気まぐれだ。
そう、ただの、気まぐれに過ぎん。
だが、わしの心に、何十年ぶりかに、温かい火が再び灯ったことだけは、紛れもない、事実だった。
この、凍てついた厨房にも、ようやく、春が訪れるのかもしれない。
そんな、予感がした。
◼️◼️◼️◼️◼️
ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございます!皆さんの感想や、フォロー・お気に入り登録が、何よりの励みになります。これからも、この物語を一緒に楽しんでいただけたら幸いです。
全ての明かりが消え、静寂に包まれた厨房に、わし、バスティアンは一人、ただ立ち尽くしていた。
手の中には、まだ、あの素朴なスープの温かさが、幻のように残っている。
(……なんだったのだ、あれは)
昼間の光景が、脳裏に焼き付いて離れない。
わしの弟子たちが、あの田舎者の作った、ただの煮込み汁をすすり、子供のように泣いていた。
「母の味だ」と。
馬鹿馬鹿しい。ここは王国有数の美食の館だ。お前たちが目指しているのは、そんな感傷に浸るような、安っぽい家庭料理ではないはずだ。
そう、自分に言い聞かせた。
だが、わしの鼻腔の奥には、あの忘れがたい香りが、まだこびりついている。
野菜の甘い香り、鶏の優しい香り、そして、あの不思議な根菜が放つ、慈愛に満ちた香り。
あの香りは、わしの、何十年もかけて築き上げてきた、鉄壁のプライドを、いともたやすくすり抜けて、心の最も柔らかな場所を、直接撫でてきやがった。
好奇心ではなかった。
あれは、確認作業だったのだ。
あの若造の料理の、欠点を見つけ出し、叩き潰してやるための。
そう思って、誰もいなくなった厨房で、冷めかけたあのポトフを、一口、口に運んだ。
その刹那。
わしの、七十年の人生が、走馬灯のように、蘇った。
(……ああ、そうだ。この味は……)
わしがまだ、何者でもなかった頃。
故郷の、小さな村の、貧しい食堂で、親父の背中を見て育った頃。
冬の寒い夜、売れ残った野菜のクズと、骨についたわずかな肉を、大きな鍋で煮込んで、家族みんなで分け合って食べた、あのスープの味だ。
腹が満たされるだけじゃない。凍えた心まで、温めてくれた、あの魂の味だ。
いつからだろう。
わしが、この味を忘れてしまったのは。
王都に出て、貴族に仕え、最高の食材と、最高の技術だけを追い求めてきた。
料理は、芸術だ。美しく、完璧で、寸分の隙もない、至高の芸術。
そう信じて、全てを捧げてきた。
だが、その果てに、わしが作り上げていたものは、何だったのだ。
心がなく、ただ美しいだけの、冷たい抜け殻ではなかったか。
『素材が持つ本来の力を信じて、その声を聞き、最高の形で引き出してあげる』
あの若造の言葉が、脳裏に突き刺さる。
そうだ。わしは、いつしか、素材の声を聴くことをやめていた。
ただ、自分の技術を誇示するためだけに、食材をねじ伏せていただけだったのだ。
わしは、スプーンを持つ手が、カタカタと震えていることに、初めて気づいた。
目頭が、熱い。
この感情は、悔しさではない。
ああ、違う。これは、喜びだ。
もう一度、あの頃に戻れるかもしれない。
ただ、純粋に、「美味しい」と言ってくれる人の笑顔が見たくて、夢中で鍋を振っていた、あの頃の自分に。
わしは、残りのスープを、一滴残らず飲み干した。
そして、厨房の扉を、静かに閉める。
明日、あの若造に、一杯のコーヒーでも淹れてやろう。
もちろん、礼を言うつもりなど、毛頭ない。
あれは、ただの気まぐれだ。
そう、ただの、気まぐれに過ぎん。
だが、わしの心に、何十年ぶりかに、温かい火が再び灯ったことだけは、紛れもない、事実だった。
この、凍てついた厨房にも、ようやく、春が訪れるのかもしれない。
そんな、予感がした。
◼️◼️◼️◼️◼️
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*この作品は「カクヨム」様にも投稿しています。
**週1(土曜日午後9時)の投稿を予定しています。**
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