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第57話 幕間・薬師の処方箋
しおりを挟むわしの薬草院の扉を叩く者が、ここ数日、ぱったりと途絶えた。数週間前まで、咳の音と、助けを求める人々の苦しげな吐息で満ちていたこの場所は、今、薬草を煎じる音だけが響く、静かな空間へと戻っていた。
わし、ゲッコーは、帳簿をめくりながら、この不可解なまでの平穏の理由を、静かに反芻していた。
今年の冬は、ひどかった。ただ寒いだけではない。骨の髄まで染み込むような、陰鬱な湿気が、街の人々の体力を、じわじわと奪っていった。わしは、薬師として、持てる知識の全てを尽くした。咳を鎮めるための甘草の煎じ薬、熱を下げるための解熱作用のある木の皮、滋養をつけるための乾燥させた薬草。だが、それらは全て、対症療法に過ぎなかった。病の根そのものを断ち切るには、力が足りなかったのだ。薬師として、これほどの無力感を覚えたのは、何十年ぶりかのことだった。
そんな時だった。あの『木漏れ日の食卓亭』の若き料理人が、街の病人たちに、鶏の煮込み汁を配って回っているという噂を耳にしたのは。
正直、最初は、鼻で笑った。
料理人の、気休めの善意だろうと。病は、薬で治すものだ。腹を満たすだけの食い物が、この根深い冬風邪に太刀打ちできるはずがない、と。
だが、噂は、日増しにわしの耳を打った。「あのスープを飲んだら、翌朝には熱が引いた」「咳が嘘のように止まった」と。
わしは、薬師としての探究心を抑えきれず、一人の患者から、その残り物のスープを、少量だけ譲り受けた。
薬草院に持ち帰り、それを、乳鉢で、ゆっくりとすり潰し、成分を分析していく。
…驚愕した。
まず、ベースとなっている鶏の出汁。これは、ただの汁ではない。長時間煮込むことで、骨の髄から溶け出した、極上のゼラチン質とアミノ酸。弱った胃腸でも、容易に吸収できる、完璧な栄養の塊だ。
そして、米とナッツ。これも、体を温め、エネルギーへと即座に変換される、計算され尽くした配合。
だが、何よりわしを打ちのめしたのは、あの、独特の、しかし、どこか懐かしい土の香りの正体だった。
**『陽だまりの根』**。
わしら薬師の間では、体を温める作用は知られているが、その強烈な苦味と土臭さから、他の薬草と混ぜて、なんとか飲ませるのがやっとの、厄介者。
しかし、このスープの中では、あの不快な苦味が、完全に消え去っていた。それどころか、他の食材の旨味と結びつき、深く、そして、滋味あふれるコクへと、見事に**『変容』**していたのだ。
…日向耕介。
あの若者は、わしが『ニガの実』で経験した衝撃を、遥かに超える領域に、足を踏み入れていた。彼は、ただ苦味を甘みで覆い隠すのではない。**調理という名の、緻密な化学反応**を通して、素材が持つ性質そのものを、より高次の、薬効と美味が両立する次元へと、昇華させているのだ。
これは、料理ではない。
わしが、生涯をかけて追い求めてきた、**究極の『調合薬』**そのものではないか。
わしは、薬草を一つ一つ「単体」としてしか見ていなかった。だが、彼は、食材同士の「関係性」と「調和」の中に、真の薬効を見出している。
『医食同源』。彼が、かつて口にした言葉の、本当の重みを、わしは、今、思い知らされていた。
わしは、窓の外を見た。すっかり元気を取り戻した子供たちが、雪の残る広場を、元気に駆け回っている。
あの笑顔こそが、彼の「処方箋」が、わしの薬よりも、遥かに優れていたことの、何よりの証明だった。
わしは、古びた薬学書を取り出すと、新しいページを開いた。
そして、こう書き始める。
**『陽だまりの根と、鶏肉の脂肪分との相互作用による、苦味成分の変容に関する一考察』**と。
プライドなど、もうどうでもいい。
わしは、あの若き賢者に、教えを乞わねばならぬ。
この街の、人々の命を、本当に守るために。
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