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第57話 冬風邪と、滋養の参鶏湯 (57-3)
しおりを挟む完成した参鶏湯は、乳白色の、滋味あふれるスープとなっていた。
俺たちは、そのスープを、売り物にはしなかった。レオたち弟子が、手分けをして、街中の、風邪で寝込んでいる家、一軒一軒へと、無償で配って回ったのだ。それは、商売ではない。俺たちの厨房から、街の皆への、心からの「お見舞い」だった。
俺は、一番症状が重いと聞いていた、年老いた漁師の家を訪れた。部屋の隅の寝床で、小さな孫娘に看病されながら、老人は、ゼイゼイと、苦しそうな呼吸を繰り返している。
「…日向の、旦那か…。すまねえな、こんな姿で…」
俺は、何も言わずに、土鍋に入った熱々の参鶏湯を、彼の前に置いた。蓋を開けると、優しい湯気と共に、命の香りが、部屋いっぱいに広がる。
老婆が、震える手で、そのスープを匙ですくい、老人の口元へと運んだ。
そして、一口。
その刹那。
老人の、虚ろだった瞳に、ほんのりと、光が宿った。
…温かい。
ただ、ひたすらに、温かい。鶏の、どこまでも優しい旨味と、米の甘みが溶け込んだスープが、乾ききった喉を、そして、冷え切った体の芯を、じんわりと、じんわりと、溶かしていく。あの『陽だまりの根』の苦味は、完全に消え去り、代わりに、大地の力強さを感じさせる、心地よい香ばしさだけが、舌に残る。
それは、ただの食事ではなかった。弱った体に、温かい生命力が、直接、注ぎ込まれていくような、再生の「体験」だった。
老人は、もう何も言わず、ただ、夢中で、スープを飲み干していく。
やがて、土鍋が空になる頃には、あれほど苦しそうだった彼の呼吸は、穏やかな寝息へと変わっていた。その顔には、久しぶりに、安らかな血の気が戻っている。
数日後。街の風景は、一変していた。
あれほど鳴り響いていた咳の音は消え、市場には、元気を取り戻した人々の、活気ある声が戻っていたのだ。
『木漏れ日の食卓亭』も、再び、満員の客で賑わっていた。
「日向さん! あのスープ、すごいや! 飲んだ次の日には、すっかり元気になったよ!」
「ありがとうよ、旦那! まさに、命のスープだったぜ!」
厨房の入り口で、その光景を見ていた弟子たちの顔には、これまでのどの成功とも違う、深く、そして、穏やかな誇りが浮かんでいた。
彼らは、今日、料理人として、新しい扉を開いたのだ。
人を笑顔にするだけでなく、人の苦しみに寄り添い、その命を、温めることができるのだと。
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