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第60話 南海からのSOSと、旅立ちの燻製 (60-1)
しおりを挟む港町に、冬の足音が聞こえ始めた穏やかな日の午後だった。『木漏れ日の食卓亭』は、暖炉に焚かれた薪がはぜる音と、客たちの陽気な笑い声に満ちていた。厨房では、一番弟子のレオ が、今や風格さえ漂わせながら、若い弟子たちに的確な指示を飛ばしている。その光景を、俺、日向 耕介 は、カウンターの奥から、満足げに、そして、少しだけ寂しいような、親鳥のような気持ちで見守っていた。
カラン、と店の扉が開く。看板娘のリリィア が、「いらっしゃいませ!」と、太陽のような笑顔で客を迎える。何もかもが、完璧なほどに、平和な日常だった。
その、平和を切り裂くように、事件は起きた。
店の窓ガラスに、ドン!という、何かがぶつかる鈍い音が響いたのだ。
「きゃっ!」
リリィア の短い悲鳴に、店中の視線が窓へと集まる。そこにいたのは、一羽の、見たこともないほどに大きく、そして、鮮やかな瑠璃色の羽を持つ海鳥だった。だが、その美しい姿は見る影もなく、羽は汚れ、ぐったりとポーチの上で倒れている。明らかに、長い、長い旅路の果てに、力尽きてしまったようだった。
「大変!」
純粋で心優しいリリィア は、真っ先に店の外へと駆け出した。俺も、心配して後を追う。リリィアが、その鳥をそっと抱き上げると、鳥は最後の力を振り絞るように、片足を差し出した。その足には、防水加工された、奇妙な革の筒が、固く結びつけられていた。
俺は、その筒を受け取ると、慎重に封を解いた。中から出てきたのは、羊皮紙ではない。魚の皮をなめしたような、独特の匂いがする、一枚の書状だった。そこに書かれていた、荒々しくも、どこか見覚えのある筆跡に、俺は息を呑んだ。
差出人は、キャプテン・マードック。かつて、この宿屋で『漆黒シチュー(イカ墨)』を味わい、故郷への想いを馳せた、あの陽気な南の船乗りだった。
俺は、その手紙を、皆が固唾をのんで見守る中、静かに読み上げた。
『友よ、日向の旦那。…どうか、この手紙が、無事に君の元へ届いていることを祈る。俺の故郷は今、滅亡の危機にある。原因は、呪いか、あるいは神の怒りか…突如として現れた、赤黒いカビが、我らの全ての保存食を、蝕んでいるのだ。塩漬けの肉も、干した魚も、一晩で、腐った泥のように変えられてしまう。船乗りにとって、保存食は命そのものだ。船を出せなくなった我らは、豊かな海に囲まれながら、飢えに苦しんでいる…』
手紙には、彼の、魂の叫びが綴られていた。
『…わらにもすがる思いで、君を思い出している。あの、イカの毒袋さえも、最高の御馳走に変えてみせた、君の不思議な知恵を。もし、この願いが届くのなら、どうか、力を貸してはくれまいか。この、友の、最後のSOSに…』
手紙を読み終えた時、食堂は、静まり返っていた。リリィアの瞳には、涙が浮かんでいる。
俺は、瑠璃色の鳥の頭を優しく撫でると、窓の外、どこまでも広がる、南の海を、真っ直ぐに見つめた。
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