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第59話 幕間・弟子の焼いた、小さな太陽
しおりを挟む夜。『木漏れ日の食卓亭』の営業が終わり、厨房の片付けを終えた後も、わたくし、レオは一人、客席のテーブルを磨いていた。昼間の喧騒が嘘のように、店内は静まり返っている。だが、わたくしの耳には、まだ、あの楽しげなパーティー会場の音楽と、リリィア様の、鈴が鳴るような笑い声が、響いているような気がした。
昨夜、彼女が流した涙を、わたくしは忘れることができない。
「わたしなんかが行っても…」
そう言ってうつむく彼女の姿に、わたくしは、この港町に来たばかりの頃の、未熟で、傲慢だった自分自身の姿を、重ねて見ていた。王都の技術こそが至高。そう信じ込み、自分とは違う価値観を持つ者を、ただ見下すことでしか、己の不安を隠せなかった、あの頃の自分を。
師匠…日向耕介様は、そんなわたくしのプライドを、決して力で砕きはしなかった。ドワーフの国で、エルフの森で、様々な料理とその物語を通して、ただ、静かに、辛抱強く、新しい世界の扉を、示し続けてくれた。
だから、わたくしにも、分かったのだ。今のリリィア様に必要なのは、「君は魅力的だ」という慰めの言葉ではない。彼女自身の手で、彼女自身の魅力という名の「物語」を、作り上げるための、ささやかな手伝いなのだと。
厨房での、あの時間は、わたくしにとっても、初めての経験の連続だった。
師匠に、マカロンという課題を与えられた時。わたくしの頭の中は、卵白の泡立て方、マカロナージュの見極め、オーブンの完璧な温度管理…そういった、技術的な思考で、いっぱいだった。
だが、リリィア様の隣に立ち、彼女の、小さくて、少し震える手に、自分の手を重ねて、生地の混ぜ方を教えた時。わたくしは、技術よりも、もっと大切なことを、伝えようとしている自分に気づいた。
「力を抜いて。生地の声を、聞くんです」
それは、師匠が、わたくしたちに、ずっと、ずっと、言い続けてくれた言葉だった。
そして、あの、夕焼け色のマカロン。
モグモグが、リリィア様自身が育てた、ありふれたハーブの花を、誇らしげに持ってきた瞬間。わたくしは、雷に打たれたような衝撃を受けた。
そうだ。師匠の起こす奇跡は、いつだって、そうだった。
伝説の食材や、魔法の力ではない。ただ、そこにある、誰もが見過ごしてしまうような、ささやかな日常の中に眠る「宝物」を、見つけ出すこと。
リリィア様を輝かせる魔法は、王都の高級食材店にあるのではない。彼女が、毎日、愛情を込めて水をやっていた、この宿屋の、小さな裏庭にこそ、あったのだ。
カラン、と、店の扉が開く音がした。
パーティーを終えた、リリィア様だった。
「レオさん! あのね、みんな、すっごく喜んでくれたの! わたしが作ったんですよって言ったら、宝石みたいに綺麗だって、びっくりしてて…!」
月明かりに照らされた彼女の笑顔は、もう、昨夜の、翳りを帯びた笑顔ではなかった。自信と、喜びに満ち溢れた、満開の花のような、眩しい笑顔だった。
「…これ」
彼女は、小さな箱から、最後の一つ残った、夕焼け色のマカロンを、わたくしの手のひらに、そっと乗せた。
「レオさんが、手伝ってくれたから。…ううん、レオさんが、いてくれたから、できたマカロンです。だから、これは、レオさんの分。…ありがとう」
その、あまりにも真っ直ぐな言葉と、笑顔。
わたくしは、顔が熱くなるのを感じて、咄嗟に、うつむいてしまった。
手のひらの上の、小さな菓子。
これを口にすれば、きっと、夕焼け空のような、甘酸っぱい味がするのだろう。
わたくしは、この、生まれて初めて知る、温かくて、少しだけ胸が苦しくなるような感情の正体を、まだ、言葉にすることができなかった。
ただ、この一つの小さな太陽を創り出すことができた、その喜びだけが、わたくしの心を、確かに満たしていた。
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