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第61話 幕間・弟子の見た、新しい魔法
しおりを挟む夜。キャプテン・マードックが用意してくれた、客人のための小屋で、俺、レオは一人、眠れずにいた。窓の外からは、南国特有の、むせ返るような花の香りと、穏やかな波の音が聞こえてくる。昼間に見た、楽園のような景色。だが、その記憶に、あの貯蔵庫で嗅いだ、甘く酸っぱい腐敗の匂いが、どうしても重なってしまう。
(…あれは、呪いなどではない…)
師匠…日向耕介様は、そう断言した。
だが、正直に言えば、あの赤黒いカビを初めて見た時、俺の背筋にも、冷たいものが走ったのだ。あれは、ただのカビではない。まるで、意思を持っているかのように、あらゆる保存食を侵食し、命を喰らう、悪意の塊に見えた。島の長老たちが「海の神の怒りだ」と嘆くのも、無理はないと思った。
俺は、師匠との旅を通して、多くの「奇跡」を見てきたつもりだ。ドワーフの国では、栄養失調の竜を、一皿のローストで癒した。エルフの森では、呪われた大地を、生春巻きで浄化してみせた。それらは全て、師匠の持つ、膨大な「知識」と、食材の魂と対話する「心」が起こした奇跡だった。
だが、今回、師匠が示した道は、これまでとは、どこか、次元が違っていた。
彼は、カビを「目に見えない小さな生き物」だと断言した。そして、その対策として語った、あの『瓶詰め』の物語。
遠い故郷の、ナポレオンという皇帝。飢える軍隊。そして、その国家的な課題を解決した、一人の菓子職人の知恵。
「熱で、目に見えない敵を完全に殺し、空気が入らないように、固く、固く、密封する」
それは、俺がこれまで学んできた、どんな調理法とも違っていた。火加減や、塩加減ではない。もっと根源的な、世界の「理」そのものに干渉するような、まるで、魔法使いの理論だった。
俺は、昼間の、師匠の実演を思い出していた。
大鍋で、瓶をぐらぐらと煮込む「煮沸消毒」。
瓶の中の空気を追い出す「脱気」。
そして、蓋を固く閉める「真空密封」。
一連の作業には、一切の無駄がなく、まるで、精密な儀式のように、粛々と進められていった。
その姿を見て、俺は、ようやく理解したのだ。
師匠の持つ「現代知識」とは、単なるレシピの多さではないのだ、と。
彼は、この世界の誰も知らない、「微生物」という概念を、知っている。なぜ物が腐るのか、その根本原因を知っている。だから、呪術師が祈りで呪いを払うように、彼は、「殺菌」と「密封」という、科学の祈りで、腐敗の呪いを払うことができるのだ。
(…なんという、深淵だ…)
師匠の知識の、その底知れなさに、わたくしは、改めて、身震いした。
王都にいた頃の俺は、技術こそが全てだと信じていた。だが、この旅で、俺は、技術のさらに奥にある、「心」や「物語」の重要性を学んだ。そして、今、この南の島で、俺は、そのさらに先にある、**「科学」**という名の、新しい魔法の扉を、見せられているのだ。
今、あのカビだらけの貯蔵庫の暗闇の中で、師匠が作った、たった一つのガラス瓶が、静かに、その真価を問われている。
島の皆は、まだ、半信半疑だ。だが、俺だけは、確信している。
数日後、あの瓶は、必ずや、その中身を、完璧な状態で保ち続けるだろう。
そして、その小さな瓶は、この島の人々を、絶望という名の呪いから解放する、何よりも輝かしい、希望の光となるのだ。
俺は、師匠の元で学ぶことができる、この幸運を、改めて、噛みしめていた。
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