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第63話 沈黙の音楽家と、調和のトムカーガイ (63-2)
しおりを挟む翌日、俺は、再び丘の上の宿屋を訪れた。今度は、手ぶらではない。弟子たちに手伝わせて準備した、最高の食材と、調理器具を携えて。宿屋の主人に厨房を借りると、俺は、一人の芸術家の魂を救うための、静かな戦いを始めた。
完成した料理を、クラヴィスが眠る部屋へと運ぶ。盆の上には、白い磁器の深皿が一つ。蓋を取ると、乳白色のスープの中から、鶏肉やきのこ、そして、鮮やかな緑色のハーブが顔を覗かせた。ふわりと立ち上る湯気と共に、柑橘系の爽やかな香りと、ココナッツミルクの甘い香り、そして、唐辛子の刺激的な香りが、複雑に絡み合い、部屋の澱んだ空気を浄化していくようだった。
「…言ったはずだ。食欲は、ないと」
クラヴィスは、相変わらず、窓の外を見つめたまま、力なく言った。
俺は、彼の前に、静かに椅子を置き、腰を下ろした。そして、語りかける。
「クラヴィスさん。あなたの心の中は今、様々な音で、満ちているのではありませんか。悲しみ、怒り、後悔、喜び…それらが、互いに主張しあい、一つの音楽になることを拒絶している。そんな、魂の『不協和音』に、苦しんでいるのではないですか」
俺の言葉に、クラヴィスの肩が、ぴくりと震えた。初めて、彼の、氷の仮面に、小さな亀裂が入ったのを、俺は見逃さなかった。
俺は、目の前のスープを、匙ですくいながら、この料理…**『トムカーガイ』**が持つ、混沌の物語を語り始めた。これは、この問題を解決するための、俺なりの「経緯と対話」だった。
「このスープは、私の故郷で愛されている、少し変わった料理です。この中には、**辛み(唐辛子)、酸味(ライム)、塩味(魚醤)、甘み(砂糖)**という、全く異なる音色が、一つの鍋の中で、激しく、せめぎ合っているのです」
「初心者が作れば、ただの混沌とした、訳の分からない味になる。いわば、あなたを苦しめている、魂の不協和音そのものです。ですが、このスープには、たった一つ、全てをまとめ上げる、絶対的な指揮者が存在する」
俺は、スープの表面に浮かぶ、乳白色の液体を、匙でそっとすくってみせた。
「**ココナッツミルクという名の、『心』**です。この、どこまでも優しく、全てを包み込むクリーミーな心が加わることで、バラバラだったはずの音色は、互いの個性を殺すことなく、奇跡的なバランスで調和し、天国のような味わい…一つの、完璧なシンフォニーを、奏で始めるのです」
俺は、クラヴィスの、虚ろな瞳を、真っ直ぐに見つめた。
「あなたを苦しめる過去の記憶は、消し去るべき『不協和音』ではないのかもしれません。それらは、あなたの音楽を、誰よりも深く、豊かにするための、最高の『音色』なのです。必要なのは、その混沌と戦うことではない。全てを、ありのままに受け入れ、優しく包み込む、このココナッツミルクのような『心』なのです。そうすれば、あなたの混沌は、あなたにしか奏でられない、最高の『音楽』へと変わるはずですから」
俺の言葉は、静寂な部屋に、ただ、響き渡った。
クラヴィスは、何も言わない。だが、その、固く握りしめられていた拳が、ほんの少しだけ、緩んだのを、俺は見逃さなかった。
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