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第63話 幕間・夜明けのプレリュード
しおりを挟む夜。わたくし、クラヴィスの部屋は、静寂に満ちていた。だが、それは、数時間前までわたくしを支配していた、あの、全ての色と音を吸い込んでしまうような、墓場のような沈黙ではなかった。窓は開け放たれ、穏やかな潮騒と、涼やかな夜気が、部屋を満たしている。そして、わたくしの手には、何ヶ月ぶりだろうか、埃をかぶっていたはずの、相棒…リュートが、確かに握られていた。
テーブルの上には、空になった、白いスープ皿。
まだ、舌の記憶には、あの、衝撃的なまでの味の奔流が、鮮明に残っている。
日向耕介。あの、不思議な料理人が作った、『トムカーガイ』。
わたくしは、あのスープを、音楽として、分析しようとしていた。
最初の一口。それは、音楽ではなかった。ただの、混沌(カオス)だ。
唐辛子の、舌を刺すような、鋭い**辛み**。それは、まるで、激情に任せてかき鳴らされる、不協和音のようだ。
ライムの、喉を駆け抜ける、鋭利な**酸味**。それは、過去の後悔を責め立てるかのような、甲高いノイズ。
魚醤の、深く、切ない**塩味**。それは、心の底に澱む、涙の味そのもの。
そして、それら全てを、嘲笑うかのような、ほんのわずかな**甘み**。
そうだ。これは、わたくしの心の中そのものだ。
あの日…わたくしが、最も信頼していたはずの友に裏切られ、全てを失った、あの日の、魂の叫び。怒り、後悔、悲しみ、そして、楽しかった日々の、残酷なまでの甘い記憶。それらが、互いに憎しみ合い、決して交わることなく、わたくしの内側で、不協和音を奏で続けていた。
わたくしは、その混沌から、耳を塞いだ。心を閉ざした。そして、音を、失ったのだ。
だが。
あのスープには、続きがあった。
その、荒れ狂う混沌の全てを、まるで、慈愛に満ちた母の腕のように、優しく、優しく、包み込む、あの**ココナッツミルクの、絶対的な温かさ**が。
それは、他の味を、ねじ伏せるのではない。否定するのでもない。
ただ、そこに存在することを、許し、受け入れ、そして、それぞれの音色が、最も美しく響くための「場所」を、与えてくれていた。
辛みは、情熱の赤に。酸味は、理性の青に。塩味は、憂いの紫に。甘みは、希望の黄色に。
ココナッツミルクという名の、白いカンバスの上で、混沌だったはずの色と音は、互いの存在を認め合い、誰も聴いたことのない、複雑で、切なくて、しかし、どこまでも美しい**『調和(ハーモニー)』**を、奏で始めたのだ。
あの料理人は、言った。
『あなたを苦しめる過去の記憶は、消し去るべき不協和音ではない。最高の音色なのだ』と。
わたくしは、震える指で、リュートの弦を、そっと、弾いた。
ぽろん、と、一つの、か細い音が、夜の静寂に響く。
わたくしは、もう一度、弾く。今度は、別の弦を。
悲しみの音。怒りの音。後悔の音。喜びの音。
指が、自然と、動いていく。
あのスープが、わたくしの魂の中で奏でた、あの、混沌として、しかし、美しい調和を、再現するように。
それは、まだ、音楽と呼ぶには、あまりにも、たどたどしい旋律だった。
だが、その音色には、確かに、新しい命の息吹が、宿っていた。
長い、長い夜が明け、新しい朝の光が、差し込んできたかのような。
わたくしは、涙が頬を伝うのも構わずに、ただ、夢中で、弦を弾き続けた。
この、生まれたての音楽に、まだ、名前はなかった。
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