異世界ほのぼのクッキングロード ~元フードコーディネーター、不思議な食材で今日も一皿~

はぶさん

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第69話 幕間・羊飼いの見た、温かい星

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夜。オアシスの畔では、まだ若い者たちの陽気な歌声が星空へと昇っていった。わし、ザドックは、少し離れた砂丘の上に腰を下ろし、その一つの大きな焚き火を囲む光の輪を、ただ黙って見つめていた。手の中には、冷めてしまったが、それでもまだ温かいグヤーシュの椀がある。
そのスモーキーで滋味あふれる香りを吸い込むたびに、四十年前の、あの凍てつく夜の記憶が鮮やかに蘇ってくる。
あの夜、わしは無力だった。仲間たちは互いを罵り、キャラバンは砂漠の闇の中で静かに死を待つだけだった。あの時、わしらを救ってくれたのは、一人の老いた羊飼いが作った、名もなき一杯のスープだった。
その記憶は、わしの長い商人人生における原点だった。そして、どんなに乾いた砂漠の旅路にあっても、決して涸れることのなかった、わが魂の、渇きを癒す、たった一つのオアシスでもあった。 食事が人の魂を救う。その、あまりにも非合理で、しかし確かな真実を、わしはあの日以来、ずっと胸の奥深くで信じ続けてきたのだ。
だから、日向耕介という料理人の噂を聞いた時、わしは賭けたのだ。この老いぼれの、最後の旅路の全てを。
彼が、分裂した我らの前で『グヤーシュ』の物語を語り始めた時、わしの魂は震えていた。そうだ、これだ、と。わしが四十年間、追い求めてきた光景は、これなのだ、と。焚き火の向こうで笑う彼の姿が、一瞬だけ、四十年前の、あの老いた羊飼いの、丸まった背中と重なって見えた。 彼は、ただ料理が美味いだけの男ではない。彼は、その一皿に込められた先人たちの「知恵」と「祈り」を、理解し、伝えることができる、稀有な語り部なのだ。
そして、あの『パプリカ』の奇跡。
若い衆が「安物の着色料だ」と鼻で笑った、あのありふれた赤い粉。油で熱するというほんの少しの知恵。それだけで、ガラクタだと思われていたものが、この料理の、そして我らの心を一つにする最高の「魂」へと生まれ変わった。
『価値がないと見過ごされているものにこそ、最高の宝物が眠っている』
あの男の言葉が、今も耳の奥で響いている。わしは商人として物の価値を見極めることを生業としてきた。だが、一体どれだけの宝物を、「価値がない」という己の浅はかな物差しだけで、見過ごしてきたのだろうか。
気づけば、目の前の光景が涙で滲んでいた。
若い商人も、古参の商人も、もうそこにはいなかった。ただ、同じ釜の飯を食い、同じ歌を歌い、腹の底から笑い合う、「一つの家族」の姿がそこにはあった。
四十年前、あの凍てつく夜に夢見た光景。それが今、この異邦の料理人によって、目の前で現実のものとなっている。
わしは、手の中の最後の一口を、ゆっくりと味わった。
…美味い。
四十年前のあのスープよりも遥かに洗練されている。だが、その腹の底から湧き上がってくる、この温かい力の味は、確かに同じものだった。
わしは静かに立ち上がると、夜空に浮かぶ旅人たちの道標…北極星を見上げた。
明日、我らのキャラバンは再び東へと向かう。
旅はまだ厳しいだろう。だが、もう何も怖くはない。腹の底に残る、この確かな熱と、同じ釜の飯の誓いを胸に抱いている限り。我らは、決して、道に迷うことはないのだから。

【作者より】
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