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第71話 二つの食卓と、融和のキッシュ (71-1)
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一番弟子レオが北の狩人たちの里で見事な独り立ちを果たしてから季節は再び巡り、港町には穏やかな夏の風が吹き始めていた。彼の成功は他の若い弟子たちにも大きな自信と誇りを与えた。『木漏れ日の食卓亭』の厨房は、もはや俺が細かく指示を出さずとも、レオという若き指揮官のもとで完璧なオーケストラのように日々の営業を見事に回している。
その光景を、俺、日向耕介は、カウンターの奥から満足げに、そしてほんの少しだけ、巣立ちの近い雛鳥を見守る親鳥のような寂しい気持ちで見つめていた。
そんな完璧なまでの平和が永遠に続くかのように思われた、ある日の午後だった。
事件は、荘厳な馬蹄の音と共にやってきた。
店の前の広場に、一台の豪華絢爛な馬車が滑るように停止したのだ。扉にはこの国の象徴である黄金の獅子の紋章が燦然と輝いている。王家の馬車だ。
そのあまりにも場違いな光景に、陽気だった港町の空気は一瞬で緊張に支配された。
馬車から下りてきたのは、近衛騎士団の純白の礼装に身を包んだ、見覚えのある男だった。かつて世話になった騎士団長その人だった。
彼は店の入り口に立つと、俺の姿を認めるなり、その場で騎士としての最も丁寧な礼を取った。
「日向耕介殿。王子、テオドア殿下からの、正式なる招聘状を、お持ちいたしました」
彼が恭しく差し出した王家の印章で封じられた手紙。そのあまりにも重い意味に、リリィアは息を呑み、女将のベアトリスは厳しい顔で成り行きを見守っていた。
俺は厨房にベアトリス、リリィア、そして全ての弟子たちを集めると、そのただならぬ気配を纏った手紙を静かに読み上げた。
手紙は、かつて心を病み食事への興味を失っていた、あの孤独な王子テオドアからの魂の叫びだった。
『親愛なる、我が心の師、日向耕介殿へ。
まず、改めて感謝を伝えさせてほしい。あなた様の一皿のグラタンが、わたくしの凍てついていた心を溶かし、再びこの世界に光を見出す力を与えてくれたこと、生涯忘れることはないだろう。
…(中略)…
この王都には、二つの、決して交わることのない食卓が存在するのだ。一つは我ら貴族の食卓。…そして、もう一つは貧民街の食卓だ。…このあまりにも巨大な食の断絶が、今、この国の土台を内側から静かに腐らせている。
…師よ。どうか、もう一度、わたくしに力を貸してはいただけないだろうか。両者の間に、温かいスープが流れる一本の架け橋を、共に、架けてはくれまいか』
俺が静かに手紙を置くと、厨房に重い沈黙が落ちた。その沈黙を破ったのは、女将のベアトリスだった。彼女は腕を組み、「…ふん。王族ってのは、どこまでも人使いが荒いねぇ」とぶっきらぼうに呟いた。だが、その横顔には、いつもの呆れだけではない。この店の料理人が一国の王子にこれほどまでに信頼されているという、隠しきれない誇りの色が確かに浮かんでいた。
その隣で、リリィアが悲しそうな顔でぽつりと呟いた。「…かわいそう。王都には、お腹を空かせている人がたくさんいるんだね…。みんなに、温かいグラタン、食べさせてあげたいね…」
その、あまりにも純粋な言葉。それこそが、この問題の、全ての答えなのかもしれない。
俺に、断る理由などあろうはずもなかった。
俺は、静かに頷くと、隣で拳を固く握りしめている一番弟子の顔を見た。(北の山、砂漠のキャラバン…。そうだ、どこへ行っても同じだ。食卓が分断されれば、人の心も分断される。これは、俺たちの、戦いだ)
「レオ。お前も、来い。今度の戦場は、王都だ」
その光景を、俺、日向耕介は、カウンターの奥から満足げに、そしてほんの少しだけ、巣立ちの近い雛鳥を見守る親鳥のような寂しい気持ちで見つめていた。
そんな完璧なまでの平和が永遠に続くかのように思われた、ある日の午後だった。
事件は、荘厳な馬蹄の音と共にやってきた。
店の前の広場に、一台の豪華絢爛な馬車が滑るように停止したのだ。扉にはこの国の象徴である黄金の獅子の紋章が燦然と輝いている。王家の馬車だ。
そのあまりにも場違いな光景に、陽気だった港町の空気は一瞬で緊張に支配された。
馬車から下りてきたのは、近衛騎士団の純白の礼装に身を包んだ、見覚えのある男だった。かつて世話になった騎士団長その人だった。
彼は店の入り口に立つと、俺の姿を認めるなり、その場で騎士としての最も丁寧な礼を取った。
「日向耕介殿。王子、テオドア殿下からの、正式なる招聘状を、お持ちいたしました」
彼が恭しく差し出した王家の印章で封じられた手紙。そのあまりにも重い意味に、リリィアは息を呑み、女将のベアトリスは厳しい顔で成り行きを見守っていた。
俺は厨房にベアトリス、リリィア、そして全ての弟子たちを集めると、そのただならぬ気配を纏った手紙を静かに読み上げた。
手紙は、かつて心を病み食事への興味を失っていた、あの孤独な王子テオドアからの魂の叫びだった。
『親愛なる、我が心の師、日向耕介殿へ。
まず、改めて感謝を伝えさせてほしい。あなた様の一皿のグラタンが、わたくしの凍てついていた心を溶かし、再びこの世界に光を見出す力を与えてくれたこと、生涯忘れることはないだろう。
…(中略)…
この王都には、二つの、決して交わることのない食卓が存在するのだ。一つは我ら貴族の食卓。…そして、もう一つは貧民街の食卓だ。…このあまりにも巨大な食の断絶が、今、この国の土台を内側から静かに腐らせている。
…師よ。どうか、もう一度、わたくしに力を貸してはいただけないだろうか。両者の間に、温かいスープが流れる一本の架け橋を、共に、架けてはくれまいか』
俺が静かに手紙を置くと、厨房に重い沈黙が落ちた。その沈黙を破ったのは、女将のベアトリスだった。彼女は腕を組み、「…ふん。王族ってのは、どこまでも人使いが荒いねぇ」とぶっきらぼうに呟いた。だが、その横顔には、いつもの呆れだけではない。この店の料理人が一国の王子にこれほどまでに信頼されているという、隠しきれない誇りの色が確かに浮かんでいた。
その隣で、リリィアが悲しそうな顔でぽつりと呟いた。「…かわいそう。王都には、お腹を空かせている人がたくさんいるんだね…。みんなに、温かいグラタン、食べさせてあげたいね…」
その、あまりにも純粋な言葉。それこそが、この問題の、全ての答えなのかもしれない。
俺に、断る理由などあろうはずもなかった。
俺は、静かに頷くと、隣で拳を固く握りしめている一番弟子の顔を見た。(北の山、砂漠のキャラバン…。そうだ、どこへ行っても同じだ。食卓が分断されれば、人の心も分断される。これは、俺たちの、戦いだ)
「レオ。お前も、来い。今度の戦場は、王都だ」
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