異世界ほのぼのクッキングロード ~元フードコーディネーター、不思議な食材で今日も一皿~

はぶさん

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第72話 幕間・職人が見た、魂の輪郭

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夜。わし、ゲンは、静まり返った工房の隅で、一人、冷たくなった作業台を、ただ、撫でていた。昼間の、あの広場での出来事が、まるで、遠い昔の夢のようだ。鼻の奥には、まだ、あの揚げ出し豆腐の、一番出汁の、気高い香りが残っている気がした。
数日前まで、わしは、絶望の淵にいた。
五十年間、来る日も、来る日も、この工房で、ただひたすらに、豆腐だけを作り続けてきた。最高の水と、最高の大豆。そして、わしの、不器用な魂。それだけが、わしの人生の、全てだった。
だが、あの『奇跡の香辛料』が現れてから、全てが変わった。
わしの豆腐は、あまりにも、味が、薄すぎたのだ。あの、強烈な旨味の前では、わしが、生涯をかけて守り抜いてきた、大豆の、か細い声など、誰の耳にも、届きはしなかった。
わしは、店を畳むことを決めた。わしの時代は、終わったのだ、と。
あの日、日向殿に、最後の豆腐を託した時も、わしは、もう、何も期待してはいなかった。ただ、一人だけでいい。この街に、わしの人生の証を、覚えていてくれる者がいれば、それで、もう、十分だと。
だから、今日、彼が、広場で、わしの豆腐を、あの桐の箱から取り出した時、わしは、人だかりの一番後ろで、ただ、息を殺して、見つめていた。
(…やめてくれ…)
そう、思った。わしの、静かな人生の終わりを、衆人の前で、晒し者にしないでくれ、と。
だが、違った。
彼の、あの、豆腐への向き合い方。それは、わしが、毎日、この工房で繰り返してきた所作、そのものだった。
彼は、この、小さな白い塊の中に宿る、わしの、五十年の魂と、静かに、対話してくれていたのだ。
彼が、語った言葉。
『本当の美味しさとは、何かを足すことだけではない。素材が持つ、か細い声を、丁寧に、丁寧に、聞き取ってあげること』
その言葉は、わしが、生涯、誰にも語ることのなかった、わしの哲学、そのものだった。
ああ、この街に、たった一人だけ、いたのだ。わしの、声なき声を聞き届けてくれる、本当の職人が。
もう、それだけで、わしは、報われた気がした。
そして、あの一皿。
彼が、わしの元へ、自ら運んできてくれた、あの、揚げ出し豆腐。
一口、口に運んだ、その刹那。わしの、乾ききっていた魂に、温かい、優しい味が、染み渡っていった。
衣が出汁を吸い、口の中でとろりととろけていく。その直後、やってくる、わしの豆腐そのものの、どこまでも優しく、そして深い、大豆の甘み。あの『香茸』の、気高い森の香りが、わしの豆腐の甘みの輪郭を、そっと、優しく、際立たせている。
わしが、生涯をかけて守ってきた味が、日向殿という、もう一人の職人の魂と出会って、わしの知らない、さらに、その先の高みへと、昇華している。
わしは、もう、声を上げて、泣くことしか、できなかった。
レオ殿が、あの香辛料の、からくりを暴いた時も、行商人が、いつの間にか姿を消していた時も、わしは、もう、どうでもいい、と思っていた。勝ち負けではない。ただ、わしの魂は、確かに、救われたのだから。
だが、翌朝。わしの店の前には、夜明け前から、長い、長い行列ができていた。皆、「すまなかった、ゲンさん」「あんたの豆腐が、一番だ」と、頭を下げてくれた。
わしは、工房の奥で、新しい大豆を、水に浸した。
どうやら、もう少しだけ。この、わしの、不器用で、実直な物語は、まだ、続きを紡いでいけるらしい。わしは、もう、ただの豆腐屋ではない。この街の「本物の味」を、あの若き料理人と共に守っていく、番人の一人なのだ。
工房に、新しい一日の、希望の匂いが、満ちていた。

【作者より】
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