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第8話 幕間・美食の女王の目覚め
しおりを挟む自室に戻ったエレオノーラは、窓辺の椅子に深く腰掛け、静かに夜の庭園を眺めていた。
手の中には、もう空になったプリンの器と、金のティースプーンが、まだ固く握りしめられている。
器の底に残ったカラメルソースの、ほろ苦く甘い香りが、部屋の空気に溶けていた。
(……プリン、か)
あの日向耕介とかいう料理人。
彼は、ただの腕利きの料理人などではない。
人の心の奥底を見通し、その人が本当に求めているものを、一皿の料理という形で差し出す、恐るべき観察眼の持ち主だ。
この私が、ただの卵と牛乳でできたお菓子に、心を揺さぶられるなどと、誰が想像しただろう。
首都の宮廷料理人たちが、世界中から取り寄せた最高級の食材で作る、あの芸術品のようなデザートの数々でさえ、私の心を動かすことはできなかったというのに。
だが、あのプリンは違った。
スプーンを口に運んだ瞬間、忘れていたはずの光景が、奔流のように蘇ってきたのだ。
――あれは、私がまだ、伯爵家の令嬢というだけの、ただの子供だった頃。
厳格な父と、病弱な母。広すぎる屋敷の中で、私はいつも一人だった。
そんな私の唯一の心の拠り所が、侍女のリゼットだった。彼女は、年の離れた姉のように、いつも私のそばで、優しく笑ってくれていた。
ある日の午後、リゼットは「お嬢様に、秘密のおやつを作ってきて差し上げます」と言って、こっそり厨房へ向かった。そして、小さな器に入れて持ってきてくれたのが、あの卵のお菓子だった。
『まあ、リゼット! なんて美味しいのかしら!』
『ふふふ、お嬢様が笑顔でいてくださることが、私にとっての一番の宝物でございますから』
その素朴な甘さは、私の心を温かく満たしてくれた。リゼットが作ってくれるお菓子を食べる時間だけが、私の孤独を忘れさせてくれる、宝物のような時間だった。
だが、そんな幸せな日々は、突然終わりを告げる。
リゼットは、家の事情で、遠い故郷へ帰ることになったのだ。
泣きじゃくる私に、彼女は最後にこう言った。
『お嬢様。たとえ離れていても、私の心は、いつもお嬢様のおそばにございます。この味を、どうか覚えていてくださいまし。この味が、いつかきっと、お嬢様をお守りいたしますから』
それ以来、私は二度と、あの味を口にすることはなかった。
成長するにつれて、私は『美食の女王』と呼ばれるようになった。だが、どれだけ高価なものを食べても、どれだけ珍しいものを味わっても、私の心が満たされることはなかった。
リゼットがくれた、あの温かい宝物の味を、心のどこかでずっと探し続けていたのだ。
(……そうか。私が求めていたのは、未知の味ではなかったのね)
失ってしまった、温かい記憶。
もう二度と手に入らないと思っていた、幸せな時間。
あの料理人は、それを一皿のプリンに乗せて、私の元へ届けてくれたのだ。
エレオノーラは、そっと目を閉じた。
瞼の裏に、リゼットの優しい笑顔が浮かぶ。
「……リゼット。私、見つけたわ。あなたの宝物を……」
目頭から、一筋の涙が、静かに頬を伝った。
それは、何年も忘れていた、温かくて、そして少しだけ甘い味がした。
翌朝。
宿屋を立つエレオノーラの表情は、昨日までの氷の女王ではなく、どこか吹っ切れたような、晴れやかなものだったという。
彼女は、もう珍しいだけの食材を追い求めることはやめた。
その代わりに、彼女は自らの領地で、最高の卵と、最高の牛乳を作るための、新しい事業を始めた。
いつか、自分の手で、あの思い出のプリンを再現するために。
そして、その傍らには、彼女が何年もかけて探し出し、再び城に迎え入れた、かつての侍女リゼットの姿があったという。
それは、また別の、心温まる物語。
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