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第12話 幕間・老学者の目覚め
しおりを挟む屋敷の書斎に、久しぶりに西日が差し込んでいる。
わし、エルドリンは、何ヶ月ぶりかに開け放った窓のそばに立ち、その温かい光を、ただ黙って浴びていた。
腹の底には、まだ、あの日向とかいう若者が作ったリゾットの、優しい温もりが残っている。
(……参ったな)
心の内で、そう呟く。
あの若者に、そして、リリィアに、完膚なきまでに打ちのめされてしまった。
いや、違うな。打ちのめされたのではない。
分厚い埃と、凝り固まったプライドの壁に閉ざされていた、この老いぼれの心を、いともたやすく救い出されてしまったのだ。
いつからだろう。
わしが、知識の海で、独りぼっちになってしまったのは。
若い頃は、ただ、知ることが楽しかった。
世界の成り立ち、歴史の秘密、魔法の法則。新しい知識を得るたびに、世界が輝いて見えた。そして、その輝きを、誰かに伝えたくて仕方がなかった。
目を輝かせて、わしの話に耳を傾ける子供たちの顔を見るのが、何よりの喜びだった。
だが、いつしか、わしは変わってしまった。
知識は、人と分かち合う喜びの泉ではなく、他人を見下すための、高い塔になった。
「どうせ、お前たちには分かりはしない」
「こんな初歩的なことも知らんのか」
わしは、知らず知らずのうちに、知識の探求を始めた頃の、あの純粋な心を、自らの手で汚してしまっていた。
やがて、わしの周りから、人は去っていった。
図書館を訪れる者もいなくなり、この書斎は、誰にも理解されない知識の墓場と化した。
情熱は、諦めに変わり、やがて、全てがどうでもよくなった。
ペンを握る気力も、本を開く気力も、失せてしまった。
――あの、一皿に出会うまでは。
あの若者が作ったリゾットは、ただの米料理ではなかった。
一口食べた瞬間、脳を駆け巡ったのは、味ではない。
**『声』**だった。
『焦らないで』
『ゆっくりでいいんですよ』
『あなたの心が開くまで、ずっと、そばにいますから』
鍋のそばに付きっきりで、根気よく、優しくかき混ぜ続けたであろう、作り手の声。
その声が、米の一粒一粒に、確かに宿っていた。
そして、あのキノコ。
『賢者の目覚め』。口に入れた瞬間、頭の中の霧が晴れ、遠い昔に忘れていた、あの感覚が蘇った。
そうだ。わしは、これが好きだったのだ。
知らなかったことを、知る喜び。
分からなかったことが、分かる感動。
その純粋な光を、わしは、自ら見失っていたのだ。
(……アルデンテ、か)
あの若者は言っていた。
相手が自分で考え、噛みしめるための『芯』を残すことこそが、本当の教育なのだと。
わしは、何と傲慢だったことか。
自分が全てを知り、全てを与えなければならないと、思い上がっていた。
だが、違ったのだ。
本当の教師とは、答えを与える者ではない。
相手の中に眠る「知りたい」という名の種に、そっと水をやり、芽吹くのを、辛抱強く待ち続ける、庭師のような存在だったのだ。
わしは、書斎の机に向かう。
そこには、何ヶ月もインクが乾いたままの、羽ペンが置かれていた。
そっと、それを手に取る。
不思議と、あれほど重かったペンが、今はとても軽く感じられた。
(……まだ、間に合うだろうか)
リリィアのような、純粋な知への好奇心を持つ子供たちに、わしが伝えられることは、まだ、残っているだろうか。
わしは、新しい羊皮紙を広げ、インク壺の蓋を開けた。
そして、こう書き始める。
**『リゾットの調理法に見る、教育論についての一考察』**
カリカリ、とペンが走る音。
それは、一人の老学者が、長い眠りから覚め、再び、その情熱の炎を灯し始めた、確かな音だった。
明日、図書館の扉を開けるのが、少しだけ、楽しみになっていた。
◼️◼️◼️◼️◼️
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