虚無の器と名付けられた少年

九十九 避役

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第7話:絶望の貯蔵庫

 黄金都バビロンの華やかな街並みの真下には、その輝きを維持するための「内臓」が広がっていた。
 地下水道を抜け、カイたちが辿り着いたのは、直径数百メートルにも及ぶ巨大な縦穴――「魂の貯蔵庫(ソウル・サイロ)」だった。

「……何だ、これは。街そのものが、巨大な漏斗(じょうご)の上に建っているのか?」
 ジークが、手すりの錆びた鉄柵から身を乗り出し、奈落の底を見下ろして戦慄した。

 縦穴の壁面には、無数の透明なパイプが血管のように張り巡らされている。その中を流れているのは、地上で「スキル」を行使した人々から徴収された、青白く発光する液体――すなわち、人の魂のエネルギーだ。
 それらは全て、縦穴の底にある巨大な「攪拌槽(かくはんそう)」へと流れ込み、そこで不純物を取り除かれ、より純度の高い「神への献上品」へと精製されていた。

「……あそこに溜まっているのは、ただの魔力じゃない。人々の『可能性』そのものだよ」

 ミミが水晶の破片をかざし、その瞳に絶望を宿した。

「あの青い光の一つ一つが、誰かが叶えたかった夢、愛したかった人、守りたかった約束。……それを無理やり液体にして、ランク付けして、効率よく消費してる。……バビロンは街じゃない、巨大な『ジューサー』だ」

 カイは、パイプの一つに触れた。
 その瞬間、彼のスキル『因果の蒐集』が、パイプの中から漏れ出す無数の「声」を拾った。

「お腹いっぱい食べたい」
「あの子に告白したい」
「もっと、強くなりたい」

 数千、数万の未完成の因果が、形を失い、ただの燃料として消費されるのを待っている。

「……これを壊せば、地上のみんなはどうなるの?」

 リナが、震える声で尋ねた。

「スキルが使えなくなるだけじゃ済まないわ。……街のインフラ、明かり、水、そして人々の『生きる意欲』そのものが、このシステムに依存させられている……」

「……それでも、壊さなきゃいけないんだ」

 カイは、奥歯を噛み締めて断じた。

「依存させているんじゃない、飼い慣らされているんだ。……僕たちの未来が、神様の夕食になるのを、黙って見てるわけにはいかない」

「実に見事な見識だ、バグの少年。……君を、ただの故障(エラー)ではなく、一つの『知性』として尊重したくなってきたよ」

 空間を揺らすような、低く、甘い声。
 攪拌槽の中央から、黄金の粒子が渦を巻き、一人の男を形作った。
 七賢者が一人、【供給の賢者】黄金のミダス。
 彼は負った傷など微塵も感じさせない、完璧な美しさを湛えてそこに立っていた。

「ミダス……!」

 ジークが即座に抜剣し、カイとリナの前に出る。

「どの口が『尊重』なんて言葉を吐きやがる。あんたがやってるのは、ただの略奪だ」

「略奪? 心外だね、掃除屋。……私は『交換』を提供しているのだよ。彼らはスキルという『力』を望み、私はその代わりに、彼らが持て余している『未来』を回収している。……どちらかが強制したわけではない。これは、この世界の正当な経済活動だ」

 ミダスは優雅に歩み寄り、カイを見据えた。

「カイ・エルロッド。……君に、特別な提案(ディール)をしよう。……君が持つ『因果を書き換える力』。それは、管理者様が最も欲している、最上級の素材だ。……君が自らこの貯蔵庫に身を捧げるなら、代わりに、その隣の聖女を『人間』として解放してあげよう」

 カイの心臓が、大きく跳ねた。

「……リナを、解放する?」

「そうだ。彼女に刻まれた『管理コード』を私が削除し、削られた記憶を全て復元し、寿命の砂時計を元に戻す。……君一人が我々の養分になれば、彼女は『自由』を手に入れ、普通の女の子として天寿を全うできる。……悪い取引ではないだろう?」

「カイさん、耳を貸しちゃダメ!」

 リナが、カイの腕を強く掴んだ。

「この人は……あなたの魂を奪って、私を『孤独な自由』の中に突き放そうとしているだけ。……あなたがいない世界で一人で生きるなんて、そんなの、私にとっては死んでいるのと同じだわ!」

「……聞こえたか、ミダス。僕たちの答えは一つだ」

 カイは短剣をミダスに向けた。

「リナを救うのは僕だ。……あんたの力なんて、これっぽっちも必要ない」

「……交渉決裂(ノー・ディール)か。……残念だよ。……ならば、力ずくで『清算』させてもらうとしよう」

 ミダスが手を掲げると、貯蔵庫の壁面のパイプが一斉に破裂した。
 中から溢れ出したのは、精製される前の、濁った黒い魔力の奔流。
 それは、人々がスキルを行使した際に生じた「負の因果」――嫉妬、絶望、苦しみといった不純物の塊だった。

「私のスキル『過剰代償(等価交換)』の真骨頂を見せてあげよう。……人は、自分では背負いきれないほどの『可能性』を与えられると、自重で潰れてしまうのだよ」

 ミダスが放ったのは、物理的な攻撃ではない。
 カイの脳内に、貯蔵庫に溜まった数万人分の「叶わなかった願い」が一気に流れ込んできた。

「もっとお金が欲しい」
「あの人を殺したい」
「私が一番になりたい」

 数えきれないほどの欲望と絶望のノイズが、カイの精神を内側から破壊しようとする。

「ぐわぁぁぁぁっ……!」

 カイは頭を抱えて叫んだ。あまりの情報量。一人の人間が処理できる因果の限界を、遥かに超えている。
 リナも、ミミも、ジークも、その重圧に膝をつき、意識が遠のいていく。

「さあ、飲み込まれるがいい。……世界中の欲に溺れて、君という『個』を失うがいいさ」

(……負けるもんか。……こんな、誰かのゴミみたいな願いに……!)
 カイは、意識が朦朧とする中で、必死に一本の「レコード」を探した。
 これだけの膨大なエネルギー。
 ミダスは「交換」だと言った。
 ならば、このエネルギーの「持ち主」は、まだこの地上のどこかに生きているはずだ。

『カイさん……繋がって!』

 リナの震える声が、意識の底で響く。

『このエネルギーは……ミダスのものじゃない。……元々、誰かの心にあった「熱」です。……それを、持ち主に返してあげて!』

(……ああ。……あんたに、一銭も払うつもりはないぞ、ミダス!)

 カイは、全身の血管が破裂しそうな負荷に耐えながら、自分のスキルを全開にした。
 今回彼が蒐集したのは、自分たちの「布石」ではない。
 「ミダスがこれまでに奪ってきた、数万人の契約」そのものだ。

 レコード①: この貯蔵庫にあるエネルギーには、すべて「元の持ち主」の署名(シグネチャー)が残っている。

 事実: ミダスは「管理代行」としてこれを預かっているに過ぎない。

 改変: この契約を「一方的な略奪(不法行為)」と定義し直し、今この瞬間に「全額返還」を命じる!

「――全額、払い戻せ(リファンド)!」

 カイが貯蔵庫の中央へ短剣を突き立てた。
 リナの観測が、ミダスの「等価交換」という絶対のルールを、一時的に「無効」へと書き換える。

 ゴォォォォォォォォォン……!

 貯蔵庫全体が、悲鳴のような音を立てて振動した。
 カイに流れ込んでいた黒い奔流が、一転して、パイプを逆流し始めた。
 バビロンの街中に、奪われていた「未来」と「感情」が、激流となって戻っていく。

「な、何だと!? 私の資産が……! 貯蔵庫が空になっていく!? バカな、返還だと!? 私の許可なく、契約を破棄するなど――!」

「あんたの許可なんていらないんだよ! ……これは元々、彼らのものだ!」

 逆流の衝撃波が、ミダスの黄金の肉体を直撃した。
 彼は自分の権能である「価値の固定」が崩壊し、ただの「金メッキの虚像」へと成り下がっていくのを感じ、絶叫した。

「おのれ……! おのれ、書かれざる者……! この損失は……管理者様が……貴様らの命で……償わせるぞぉぉぉっ!」

 爆発と共に、ミダスの姿が消え去った。
 だが、それは勝利を意味してはいなかった。

 貯蔵庫が空になったことで、バビロンの街を支えていたエネルギーの供給が完全にストップした。
 地上では、黄金のドームが砕け散り、街中の明かりが消え、人々が「戻ってきた感情の重さ」に混乱し、パニックが起きている。

「……やりすぎちゃったね、カイ」

 ミミが、瓦礫の山を這い上がりながら、街の惨状を見て呟いた。

「未来を返したのはいいけど、その未来をどう使えばいいか、あの人たちはもう忘れてる」

 カイは、力尽きて倒れたリナを抱き上げた。
 リナの顔は、今までで一番蒼白だった。彼女は目を開けることすらできず、ただ、浅い呼吸を繰り返している。

「……リナ、リナ!」

 返事はない。
 彼女の魂の砂時計は、今回の「巨大な返還の固定」によって、修復不能なほどの亀裂が入っていた。

「……おい、坊主。のんびりしてる暇はねぇぞ」

 ジークが、崩落の続く天井を見上げながら言った。

「この街そのものが、地盤沈下で沈み始めてやがる。……脱出するぞ。……教団の本隊が来る前に」

 カイは、リナを背負い、一歩一歩、崩れゆくバビロンの闇の中を進んでいった。
 背後では、奪われた未来を取り戻した人々が、暗闇の中で泣き叫び、あるいは祈っている。
 それがカイの望んだ結果だったのか。
 自由という名の、過酷な放り出し。

(……僕は、間違ってない。……はずだ)

 自分に言い聞かせるように、カイは前を見据えた。
 次の目的地は、情報屋ミミさえもが「死者の国」と呼んで忌み嫌う、記録の書庫が眠る極北の地。
 そこで待ち受けるのは、人の一生を「本」として管理する、第4の賢者エノク。
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