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第4話:代償の法則
病院の廊下は、消毒液の匂いと死の気配が混ざり合い、独特の重苦しさを帯びていた。結衣は、病室のドアの前で一度立ち止まった。手に握りしめた「お守り」が、まるで心臓のようにドクンドクンと脈打っている。
(健介。私を愛しているなら、受け入れてくれるわよね?)
ドアを開けると、そこには車椅子に座り、窓の外を虚ろに見つめる健介がいた。両足の太ももから先がないそのシルエットは、以前の快活な彼からは想像もできないほど小さく、無残だった。
「……健介、来たわよ」
結衣の声に、健介の体がびくりと跳ねた。彼はゆっくりと車椅子を回転させ、結衣を見た。その瞳には、もはや怒りすらなく、深い、底知れない諦念と恐怖だけが漂っている。
「……また、来たのか。僕を……次はどうするつもりだ。腕でももぎ取るか?」
「ひどいわね。私はあなたを元気づけようと思って。……ねえ、これ。ハルくんのお守りなんだけど、すごく霊験あらたかなの。あなたが早く回復するように、預かってきたわ」
結衣は微笑みながら、あの黒ずんだ布切れを健介の膝の上に置いた。その瞬間、健介の顔が紙のように白くなった。
「……あ、が……あ……!」
健介の喉が鳴る。お守りが触れた場所から、ジリジリと肉が焼けるような音が聞こえ、健介のパジャマの上が黒く変色し始めた。しかし、結衣にはそれが「癒やし」の儀式に見えていた。彼女の肩を押し潰していた重圧が、健介の体へと吸い込まれていく快感。
「やめろ……。結衣、やめてくれ……! 何かが入ってくる、僕の中に、おぞましい何かが……!」
健介が叫び、お守りを振り払おうとしたその時、病室のテレビが砂嵐と共に、異様な映像を映し出した。砂嵐の向こう側に映っていたのは、古い、土壁の蔵のような場所だった。そこには数人の男女が白装束で座り、中央に置かれた籠を囲んで祈祷を捧げている。籠の中には、まだ赤ん坊にも満たないような小さな影が蠢いていた。
「これは……ハルくんの一族?」
結衣は吸い寄せられるようにテレビ画面に歩み寄った。音声は途切れ途切れだったが、老婆のしわがれた声が鮮明に響いた。
『この子は「負」の依代(よりしろ)じゃ。村の不運、病、飢え……すべてをこの器に詰め込み、外へ出すな。この子が泣けば不運が漏れる。この子が笑えば呪いが完成する。……ゆめゆめ、慈しむことなかれ。愛すれば、呪いは愛した者へと還るのじゃから』
結衣の頭を、激しい衝撃が貫いた。ハルの家系――それは、代々「呪いのゴミ箱」を作り続けてきた一族だったのだ。一族の反映のために、一人の子供を徹底的に不幸にし、世界の歪みをそこに押し込める。そして、その呪いの「安全弁」としてのルール。呪われた子供を「愛してしまった者」は、その子が抱えていた負を一括して引き受けることになる。ハルの両親が、なぜあのような凄惨な虐待に及んだのか。その答えが、そこにあった。彼らはハルを憎んでいたのではない。ハルを愛してしまった瞬間、自分たちが「負」の濁流に飲み込まれて死ぬことを知っていたから、防衛本能として、必死に「憎悪」という盾を構えていたのだ。
(あのご両親は……ハルを助けようとしていたんじゃなくて、自分たちが助かりたい一心で、あの子を傷つけていたの?)
虐待は、呪いの転移を防ぐための、唯一の「絶縁体」だった。そして、無知な善意を持ってハルを抱きしめ、慈しみ、「愛」を注いでしまった結衣は、自らその絶縁体を焼き切り、巨大な負の電流を引き込んでしまったのだ。
「……はは、はははは!」
結衣は、病室で高笑いした。おかしくてたまらなかった。自分が「救済者」だと思って行っていたすべての行為が、実は最も効率的に呪いを起動させるための「鍵」だったのだ。
「健介、聞いた? 私はあの子を愛しすぎたの。だから、こんなに幸せになれたのね。……でも、今の私はもう一杯なの。これ以上は、溢れちゃうのよ」
結衣は車椅子の健介に歩み寄り、彼の首に優しく手を回した。
「だから、健介。あなたが、半分……いえ、全部引き受けて。私を愛しているって、いつも言っていたじゃない」
「……離せ……。化け物め……!」
健介の手が、結衣の腕を掴む。その瞬間、結衣は見た。健介の指先が、見る間に腐り落ち、黒い液体となって滴り落ちるのを。健介の生命力が、結衣の欲求に従って、呪いの泥に変換されていく。病院の警報が鳴り響いた。健介のバイタルサインが異常を示し、看護師たちが駆け込んでくる。結衣は混乱に乗じて、病室を後にした。背後で、健介の「結衣、許さない……絶対に許さないぞ!」という呪詛のような叫びが聞こえたが、今の彼女にはそれさえも、心地よい子守唄のように響いた。
結衣は、ハルの両親の背景をさらに調べるため、彼らがかつて住んでいた村の跡地へと向かった。そこは、地図からも消されたような、山奥の廃村だった。朽ち果てた家々の間に、ひときわ大きく、威圧感のある屋敷が残っていた。ハルの一族の本家だ。結衣が屋敷に足を踏み入れると、床板が腐り、そこから得体の知れない黒いキノコのようなものが無数に生えていた。そのキノコからは、死臭に似た、けれどどこか甘ったるい香りが漂っている。奥の部屋には、巨大な仏壇があり、そこには歴代の「依代」たちの写真が飾られていた。どの子供も、ハルと同じ、空っぽの瞳をしていた。そして、その写真の横には、それぞれの依代を「愛してしまい、破滅した者たち」の記録が記されていた。
『享保三年、依代を憐れんだ尼僧、全身の肉が溶け落ちて絶命』
『明治二十年、依代を救おうとした医師、発狂して家族全員を屠り、自害』
記録は現代まで続いていた。そして、最後のページ。そこにはまだ何も書かれていなかったが、結衣には自分の名前が浮かび上がってくるのが見えた。
(私は、死なない。死んでやるもんか)
結衣は仏壇の前に置かれた古い日記帳を手に取った。それはハルの父親、大吾が残したものだった。そこには、彼がハルを授かった時の、悲痛な叫びが綴られていた。
『この子が生まれた時、私は泣いた。あまりに愛らしく、守ってやりたいと思った。……その瞬間に、私の親父が死んだ。心臓を何者かに掴み取られたような死に顔だった。親父は死に際、私を睨んでこう言った。「愛するな。その子を人間だと思うな。でなければ、一族はおろか、関わるすべての者が腐り果てる」と』
大吾は、息子を救うために、必死に「悪」になろうとしたのだ。殴り、蹴り、食事を与えず、暗い部屋に閉じ込める。そうすることで、ハルの中にある「負」を、ハル自身の内に封じ込めようとした。けれど、それは延命処置に過ぎなかった。「負」は蓄積し、爆発の瞬間を待っていた。そこへ、最高の「愛」を持った結衣が現れたのだ。
「……そうか。お父さんも、お母さんも、頑張っていたのね」
結衣は日記を閉じ、不敵に微笑んだ。
「でも、甘いわ。憎しみや暴力で抑え込もうとするから、自分が壊れるのよ。私は、この呪いを『循環』させるわ」
結衣は気づいていた。自分の中に流れ込んできた負は、誰かに移譲するだけでなく、もっと別の、巨大な「消費先」を見つければいいのだということに。屋敷を出ようとした時、結衣の背後で、パチパチと音がした。振り返ると、仏壇のロウソクがいつの間にか灯り、歴代の依代たちの写真が、一斉に結衣を見つめていた。
『……おいで……』
『……こちらの側へ、おいで……』
子供たちの声が、風に乗って聞こえてくる。結衣の肌が、一瞬にして黒い煤のようなもので覆われた。彼女は自分の腕をかきむしった。ハルの母親がしていたのと全く同じ仕草。
「くっ……あああああ!」
激痛。けれど、その激痛の直後に、脳が蕩けるような快感が押し寄せる。結衣は、自分がもう「人間」という種を逸脱し始めていることを自覚した。彼女の影は、もはや屋敷の天井を覆い尽くすほど巨大になり、壁のシミと同化して蠢いている。
「ハルくん……待ってて。今、最高のプレゼントを持っていくから」
結衣は、壊れた人形のような足取りで、山を下り始めた。彼女の通り過ぎた跡には、草木が黒く萎れ、小鳥たちが空からボタボタと落ちていく。生命の循環を、彼女という存在が一方的に断ち切り、飲み込んでいく。
結衣が市街地に戻ると、街は異様な雰囲気に包まれていた。至る所で突発的な事故が起き、人々が理由もなく掴み合いの喧嘩をしている。結衣が歩くたびに、周囲の人々の運気が、まるで目に見える糸のようになって彼女へと吸い寄せられていく。幸福のインフレ。結衣一人が輝くために、街全体の彩度が落ちていく。人々はどんよりとした灰色の顔をし、生気を失い、結衣だけが、血のような真っ赤な唇を吊り上げて歩いている。彼女は、一時保護所へと向かった。ハルは、そこで待っているはずだ。自分と、ハル。二人の依代が合わさった時、この呪いはどんな完成を見るのか。結衣は、保護所の入り口で自分を制止しようとした警備員を、一瞥した。それだけで、警備員は自分の喉をかきむしりながら崩れ落ちた。
「邪魔をしないで。私は、私を愛してくれる人のところへ行くの」
彼女は、ハルの部屋の前に立った。ドアの隙間から、あの黒い液体が、溢れんばかりに染み出している。結衣は迷わず、そのドアを開けた。
「ハルくん。お待たせ」
部屋の中、ハルは以前よりもさらに小さく見えた。けれど、その背後にある影は、結衣のものと共鳴し、部屋全体を真っ暗な奈落へと変えていた。ハルは、結衣の方を向き、無言で手を伸ばした。その手には、もうあのお守りはなかった。代わりに、ハルの小さな掌には、ドロドロに溶けた「誰かの心臓」のようなものが握られていた。
「……それを、私にくれるの?」
結衣は跪き、ハルの手を自分の胸へと押し当てた。冷たい。けれど、熱い。世界の終わりを告げるような、静寂と轟音が、結衣の身体の中で爆発した。
その夜、市営の一時保護所は、原因不明の火災により焼失した。焼け跡からは、数十人の遺体が発見されたが、どれも死因は焼死ではなく、全身の水分が奪われたことによる「即時のミイラ化」だったという。そして、その中には、佐伯結衣と少年の姿はなかった。生存者は、たった一人。病院のベッドで、両足を失い、狂乱状態で叫び続ける相馬健介だけだった。
「……あいつが来る。あいつが、この世のすべてを黒く塗りつぶしに来るぞ!」
健介の叫びは、精神病棟の奥深くへと消えていった。しかし、その病室の壁には、いつの間にか黒いシミが広がっていた。そのシミの形は、寄り添う女性と子供のように見えた。そして、街のあちこちで、同じような「シミ」が報告され始める。それを見つめた者は、その夜から、自分でも理由のわからない「幸運」に見舞われるようになるという。呪いの再配布が、始まったのだ。結衣という、より強固で、より美しい「新しい器」を通じて。
(健介。私を愛しているなら、受け入れてくれるわよね?)
ドアを開けると、そこには車椅子に座り、窓の外を虚ろに見つめる健介がいた。両足の太ももから先がないそのシルエットは、以前の快活な彼からは想像もできないほど小さく、無残だった。
「……健介、来たわよ」
結衣の声に、健介の体がびくりと跳ねた。彼はゆっくりと車椅子を回転させ、結衣を見た。その瞳には、もはや怒りすらなく、深い、底知れない諦念と恐怖だけが漂っている。
「……また、来たのか。僕を……次はどうするつもりだ。腕でももぎ取るか?」
「ひどいわね。私はあなたを元気づけようと思って。……ねえ、これ。ハルくんのお守りなんだけど、すごく霊験あらたかなの。あなたが早く回復するように、預かってきたわ」
結衣は微笑みながら、あの黒ずんだ布切れを健介の膝の上に置いた。その瞬間、健介の顔が紙のように白くなった。
「……あ、が……あ……!」
健介の喉が鳴る。お守りが触れた場所から、ジリジリと肉が焼けるような音が聞こえ、健介のパジャマの上が黒く変色し始めた。しかし、結衣にはそれが「癒やし」の儀式に見えていた。彼女の肩を押し潰していた重圧が、健介の体へと吸い込まれていく快感。
「やめろ……。結衣、やめてくれ……! 何かが入ってくる、僕の中に、おぞましい何かが……!」
健介が叫び、お守りを振り払おうとしたその時、病室のテレビが砂嵐と共に、異様な映像を映し出した。砂嵐の向こう側に映っていたのは、古い、土壁の蔵のような場所だった。そこには数人の男女が白装束で座り、中央に置かれた籠を囲んで祈祷を捧げている。籠の中には、まだ赤ん坊にも満たないような小さな影が蠢いていた。
「これは……ハルくんの一族?」
結衣は吸い寄せられるようにテレビ画面に歩み寄った。音声は途切れ途切れだったが、老婆のしわがれた声が鮮明に響いた。
『この子は「負」の依代(よりしろ)じゃ。村の不運、病、飢え……すべてをこの器に詰め込み、外へ出すな。この子が泣けば不運が漏れる。この子が笑えば呪いが完成する。……ゆめゆめ、慈しむことなかれ。愛すれば、呪いは愛した者へと還るのじゃから』
結衣の頭を、激しい衝撃が貫いた。ハルの家系――それは、代々「呪いのゴミ箱」を作り続けてきた一族だったのだ。一族の反映のために、一人の子供を徹底的に不幸にし、世界の歪みをそこに押し込める。そして、その呪いの「安全弁」としてのルール。呪われた子供を「愛してしまった者」は、その子が抱えていた負を一括して引き受けることになる。ハルの両親が、なぜあのような凄惨な虐待に及んだのか。その答えが、そこにあった。彼らはハルを憎んでいたのではない。ハルを愛してしまった瞬間、自分たちが「負」の濁流に飲み込まれて死ぬことを知っていたから、防衛本能として、必死に「憎悪」という盾を構えていたのだ。
(あのご両親は……ハルを助けようとしていたんじゃなくて、自分たちが助かりたい一心で、あの子を傷つけていたの?)
虐待は、呪いの転移を防ぐための、唯一の「絶縁体」だった。そして、無知な善意を持ってハルを抱きしめ、慈しみ、「愛」を注いでしまった結衣は、自らその絶縁体を焼き切り、巨大な負の電流を引き込んでしまったのだ。
「……はは、はははは!」
結衣は、病室で高笑いした。おかしくてたまらなかった。自分が「救済者」だと思って行っていたすべての行為が、実は最も効率的に呪いを起動させるための「鍵」だったのだ。
「健介、聞いた? 私はあの子を愛しすぎたの。だから、こんなに幸せになれたのね。……でも、今の私はもう一杯なの。これ以上は、溢れちゃうのよ」
結衣は車椅子の健介に歩み寄り、彼の首に優しく手を回した。
「だから、健介。あなたが、半分……いえ、全部引き受けて。私を愛しているって、いつも言っていたじゃない」
「……離せ……。化け物め……!」
健介の手が、結衣の腕を掴む。その瞬間、結衣は見た。健介の指先が、見る間に腐り落ち、黒い液体となって滴り落ちるのを。健介の生命力が、結衣の欲求に従って、呪いの泥に変換されていく。病院の警報が鳴り響いた。健介のバイタルサインが異常を示し、看護師たちが駆け込んでくる。結衣は混乱に乗じて、病室を後にした。背後で、健介の「結衣、許さない……絶対に許さないぞ!」という呪詛のような叫びが聞こえたが、今の彼女にはそれさえも、心地よい子守唄のように響いた。
結衣は、ハルの両親の背景をさらに調べるため、彼らがかつて住んでいた村の跡地へと向かった。そこは、地図からも消されたような、山奥の廃村だった。朽ち果てた家々の間に、ひときわ大きく、威圧感のある屋敷が残っていた。ハルの一族の本家だ。結衣が屋敷に足を踏み入れると、床板が腐り、そこから得体の知れない黒いキノコのようなものが無数に生えていた。そのキノコからは、死臭に似た、けれどどこか甘ったるい香りが漂っている。奥の部屋には、巨大な仏壇があり、そこには歴代の「依代」たちの写真が飾られていた。どの子供も、ハルと同じ、空っぽの瞳をしていた。そして、その写真の横には、それぞれの依代を「愛してしまい、破滅した者たち」の記録が記されていた。
『享保三年、依代を憐れんだ尼僧、全身の肉が溶け落ちて絶命』
『明治二十年、依代を救おうとした医師、発狂して家族全員を屠り、自害』
記録は現代まで続いていた。そして、最後のページ。そこにはまだ何も書かれていなかったが、結衣には自分の名前が浮かび上がってくるのが見えた。
(私は、死なない。死んでやるもんか)
結衣は仏壇の前に置かれた古い日記帳を手に取った。それはハルの父親、大吾が残したものだった。そこには、彼がハルを授かった時の、悲痛な叫びが綴られていた。
『この子が生まれた時、私は泣いた。あまりに愛らしく、守ってやりたいと思った。……その瞬間に、私の親父が死んだ。心臓を何者かに掴み取られたような死に顔だった。親父は死に際、私を睨んでこう言った。「愛するな。その子を人間だと思うな。でなければ、一族はおろか、関わるすべての者が腐り果てる」と』
大吾は、息子を救うために、必死に「悪」になろうとしたのだ。殴り、蹴り、食事を与えず、暗い部屋に閉じ込める。そうすることで、ハルの中にある「負」を、ハル自身の内に封じ込めようとした。けれど、それは延命処置に過ぎなかった。「負」は蓄積し、爆発の瞬間を待っていた。そこへ、最高の「愛」を持った結衣が現れたのだ。
「……そうか。お父さんも、お母さんも、頑張っていたのね」
結衣は日記を閉じ、不敵に微笑んだ。
「でも、甘いわ。憎しみや暴力で抑え込もうとするから、自分が壊れるのよ。私は、この呪いを『循環』させるわ」
結衣は気づいていた。自分の中に流れ込んできた負は、誰かに移譲するだけでなく、もっと別の、巨大な「消費先」を見つければいいのだということに。屋敷を出ようとした時、結衣の背後で、パチパチと音がした。振り返ると、仏壇のロウソクがいつの間にか灯り、歴代の依代たちの写真が、一斉に結衣を見つめていた。
『……おいで……』
『……こちらの側へ、おいで……』
子供たちの声が、風に乗って聞こえてくる。結衣の肌が、一瞬にして黒い煤のようなもので覆われた。彼女は自分の腕をかきむしった。ハルの母親がしていたのと全く同じ仕草。
「くっ……あああああ!」
激痛。けれど、その激痛の直後に、脳が蕩けるような快感が押し寄せる。結衣は、自分がもう「人間」という種を逸脱し始めていることを自覚した。彼女の影は、もはや屋敷の天井を覆い尽くすほど巨大になり、壁のシミと同化して蠢いている。
「ハルくん……待ってて。今、最高のプレゼントを持っていくから」
結衣は、壊れた人形のような足取りで、山を下り始めた。彼女の通り過ぎた跡には、草木が黒く萎れ、小鳥たちが空からボタボタと落ちていく。生命の循環を、彼女という存在が一方的に断ち切り、飲み込んでいく。
結衣が市街地に戻ると、街は異様な雰囲気に包まれていた。至る所で突発的な事故が起き、人々が理由もなく掴み合いの喧嘩をしている。結衣が歩くたびに、周囲の人々の運気が、まるで目に見える糸のようになって彼女へと吸い寄せられていく。幸福のインフレ。結衣一人が輝くために、街全体の彩度が落ちていく。人々はどんよりとした灰色の顔をし、生気を失い、結衣だけが、血のような真っ赤な唇を吊り上げて歩いている。彼女は、一時保護所へと向かった。ハルは、そこで待っているはずだ。自分と、ハル。二人の依代が合わさった時、この呪いはどんな完成を見るのか。結衣は、保護所の入り口で自分を制止しようとした警備員を、一瞥した。それだけで、警備員は自分の喉をかきむしりながら崩れ落ちた。
「邪魔をしないで。私は、私を愛してくれる人のところへ行くの」
彼女は、ハルの部屋の前に立った。ドアの隙間から、あの黒い液体が、溢れんばかりに染み出している。結衣は迷わず、そのドアを開けた。
「ハルくん。お待たせ」
部屋の中、ハルは以前よりもさらに小さく見えた。けれど、その背後にある影は、結衣のものと共鳴し、部屋全体を真っ暗な奈落へと変えていた。ハルは、結衣の方を向き、無言で手を伸ばした。その手には、もうあのお守りはなかった。代わりに、ハルの小さな掌には、ドロドロに溶けた「誰かの心臓」のようなものが握られていた。
「……それを、私にくれるの?」
結衣は跪き、ハルの手を自分の胸へと押し当てた。冷たい。けれど、熱い。世界の終わりを告げるような、静寂と轟音が、結衣の身体の中で爆発した。
その夜、市営の一時保護所は、原因不明の火災により焼失した。焼け跡からは、数十人の遺体が発見されたが、どれも死因は焼死ではなく、全身の水分が奪われたことによる「即時のミイラ化」だったという。そして、その中には、佐伯結衣と少年の姿はなかった。生存者は、たった一人。病院のベッドで、両足を失い、狂乱状態で叫び続ける相馬健介だけだった。
「……あいつが来る。あいつが、この世のすべてを黒く塗りつぶしに来るぞ!」
健介の叫びは、精神病棟の奥深くへと消えていった。しかし、その病室の壁には、いつの間にか黒いシミが広がっていた。そのシミの形は、寄り添う女性と子供のように見えた。そして、街のあちこちで、同じような「シミ」が報告され始める。それを見つめた者は、その夜から、自分でも理由のわからない「幸運」に見舞われるようになるという。呪いの再配布が、始まったのだ。結衣という、より強固で、より美しい「新しい器」を通じて。
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