伊賀者、推参

武智城太郎

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脱出

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 安土城の拷問蔵。
 真夜中。空には半月。
 出入り口の扉の前で、茂平が見張り番として立っている。が、ウトウトと眠りかけている。
「おーい! おーい!」
 拷問蔵の中から、弥左衛門の騒がしい呼び声。
 茂平はハッと目を覚ます。
「おーい! ちょっと来てくれー!」
「…なんじゃ?」
 不審そうな顔つき。
「そこにおるんじゃろう! おーい!」
 茂平は面倒くさそうに懐から鍵を取り出し、扉を開ける。
 中は暗がりである。
 茂平は奥にある牢に近寄っていく。
 牢内で、弥左衛門があぐらをかいて待っている。
「いかがした?」
「わしは明日、磔で死ぬ身じゃ。錆びた槍を尻の穴から突き入れられて串刺しになることを思うと、恐ろしゅうて眠れぬ。しばし話し相手になってはくれぬか?」
 弥左衛門の膝元には、皿に盛った豆飯と鳥肉、それに酒が半分残っている徳利がおいてある。処刑の前日ということで、今夜はちょっとした御馳走が出されたのだ。
夕餉ゆうげの残りもあるよって…」
 茂平の、他愛のない卑しい表情。

 牢の格子を挟んで、弥左衛門と茂平が差しむかいで座って話し込んでいる。格子は木製だが頑丈な作りになっていて、隙間から手を出すことすらできない。床には、灯した大きな蝋燭を立てている。
「なんと無茶なお下知じゃ! しておぬし、いかがしたのじゃ?」
「わしは夜陰に乗じて柵を乗り越え、水掘りを泳いで渡り、敵の本丸に忍び入った。それから屋形に火を付けてまわり、敵方を混乱に陥れたのじゃ」
 弥左衛門の話し声はいつもとちがい、低く響きわたって耳に心地良く、神秘的で威厳に満ちている。それにくわえて蝋燭のゆらめく照明が、幻想的な雰囲気をさらに強める。
 茂平は弥左衛門の武勇伝にすっかり夢中になっている。その表情は、しだいに魅入られたようになっていく。
「その隙をついてお味方が総攻めを仕掛け、城は落ちた。わしがこの戦を勝ちに導いたのじゃ」
「おお…! まさにおぬしは天下一の伊賀者じゃ!」
 手放しで賛美する。すっかり弥左衛門の虜になっている。
「おや?」
 膝元の床に目を落とし、
「かようなところに、大きなカタツブリが這うておるぞ」
「カタツブリ? この寒いのに?」
 弥左衛門は床を指差し、
「ほれほれ、ここにおるではないか」
 茂平は目を凝らして、もっとよく見てみる。
 薄暗がりの中に、大きなカタツムリの姿がだんだんと浮かび上がってくる。
「まことに! これまたでかいのう!」
 だがそこにカタツムリの姿などない。
 弥左衛門の幻術にかかっているのだ。
「おい、太郎左衛門殿が参ったぞ」
「なに?」
 ふりむくと、暗闇から太郎左衛門が現れて、こちらに歩み寄ってくる。
 茂平はあわてて立ち上がり、
「太郎左殿、いかがなされました?」
「その伊賀者を牢から出すのじゃ。別の場所へ移す」
「かような夜更けにですか?」
「早うせい! 急ぐのじゃ」
 弥左衛門による、見事な太郎左衛門の口真似である。
 茂平は、誰もいない薄暗がり相手にしゃべっている。
「はっ、承知いたしました」
 上着の衿口に手を突っ込み、紐の先に結ばれた鍵を取り出す。紐の根元は胴回りにガッチリと結びつけてある。
 茂平は錠前をはずし、格子戸を開ける。
 弥左衛門は牢から出てくる。身体の衰弱で足元はふらついている。
 茂平は不思議そうに辺りを見回す。太郎左衛門の姿が掻き消えているのだ。
「…太郎左殿?」
 その隙をついて、弥左衛門は正拳突きを顎に食らわす。
 茂平は失神して仰向けにくず折れる。
 弥左衛門はその腰から脇差を奪い、自分の腰に差す。
                     
 主郭の庭は、所々でかがり火が焚かれ、そばに番士が立っている。
 拷問蔵から出てきた弥左衛門は、番士に見つからぬように濃い闇を選び、忍び足で移動していく。
 番士たちは、手がとどくほど近くを通りすぎる弥左衛門の姿に気づかない。
 主郭の隅のほうにまでたどり着くと、弥左衛門は助走をつけて塀を蹴りあげ、瓦屋根に上半身をとりつかせる。だが体力が衰えているせいで、そこから下半身を引き上げるのに苦労するありさま。
 なんとか塀を乗り越え、城外に身を乗り出す。
 塀の下は、高さ十メートルもある石垣になっている。
 弥左衛門は石垣にヤモリのようにへばりつき、手足を巧みに動かして下りていく。
 下り立った荒地を警戒しながら駆けていき、まもなく町に入る。                    
 町の通りに人影はなく、昼間の喧騒がうそのように静まり返っている。
 弥左衛門は一息つき、ゆったりと歩き進む。
「…!」
 だが不意に、ギョッとして足を止める。
 慌ててふりむくが、誰の姿も見えない。
 夜目の修行で研ぎ澄ました瞳を凝らすと、暗闇に複数の追っ手の姿が浮かびあがってくる。
「おのれ!」
 疲労した身体に鞭打ち、駆け出す。
                     
 弥左衛門は、山麓の沢沿いの道を苦悶の表情で進んでいる。すでに体力は限界に達しており、足を一歩前に出すのさえつらい。
 道沿いが沢から林に変わると、よろめきながらわけ入る。だが弥左衛門はついに力尽き、前のめりにドッと地面に倒れ込む。
 
 追っ手たちは、小頭を先頭に正確な隊列を組んで走っている。全員が紺色の忍者装束に身を包んでいる。人数は七人。そのうちの一人は、寝返った宮田長兵衛である。彼以外は全員が甲賀者だ。
 弥左衛門が林の中にわけ入った場所で、追っ手は的確に立ち止まる。長兵衛以外は、誰も息一つ乱していない。
 小頭は地面に残されている弥左衛門の足跡を確認し、無言で林の中を指差す。
 追っ手たちは林の中にわけ入ると刀を抜き、散開して探索をはじめる。
 甲賀者の一人が、踏みしめ、歩きすぎた地面に、人間の両目がギラリと現れる。
 弥左衛門が隠形術で身を隠していたのだ。地面を浅く掘って仰向けに土をかぶり、背の高い下草に埋もれている。
 そこへまた、一人の追っ手が近づいてくる。
 長兵衛である。
「!」
 弥左衛門はその顔に気づくと、一瞬で憤怒の形相となる。
 音もなく立ち上がり、背後から片手で長兵衛の口をふさぐと、脇差の切っ先で喉元を掻き切りながら地面に押し倒す。長兵衛はとっさのことでわけがわからず、されるがままに絶命する。

 東の空に朝日が昇りはじめ、辺りが明るくなってくる。
 弥左衛門は焦りの表情。隠形術といえども、日差しで照らされると格段に姿が目立ってしまうのだ。
 その甲賀者は、ハッと探索の足を止め、目を凝らす。
 十五メートルほど先の下草に、目的の人物が、うつ伏せの状態で身を潜めているのだ。
「いたぞっ! そこじゃ!」
 指差し、大声で仲間に知らせる。
 たちまちのうちに、残りの甲賀衆が馳せ参じる。
「囲め!」
 と小頭。
 甲賀衆は訓練された機敏な動作で、弥左衛門を取り囲む円陣を作る。全員が刀を構えている。
「詰めろ!」
 じわじわと円陣を小さく絞っていく。
 弥左衛門はガバッと立ち上がって敵に姿をさらし、
「あいわかった! もはや逃げも隠れもせぬ!」
 甲賀衆はピタッと動きを止める。
「貴殿が、伊賀の城戸弥左衛門に相違ござらぬな」
 と小頭。
「いかにも。それがしが城戸弥左衛門にござる。かようになっては是非もなし。この場にて自害させてはくれぬか」
 鞘に収めている脇差を見せる。
 小頭は束の間思案してから、
「伊賀甲賀の違いあれど、われらとおなじ忍び。承知した」
「かたじけない」
 丁寧に頭を下げる。
「あの枝振りのいい松の木のそばが良い」
 十メートルほど先に生えている松の木のほうへ歩いていく。
 甲賀衆は、その姿を遠巻きに見つめている。
 弥左衛門は言った通りに松の木のそばで立ちどまり、甲賀衆のほうにむきなおる。
 背後は断崖絶壁の谷になっている。
 手にしている脇差しを鞘から抜くと、弥左衛門はその切っ先を喉元にあてて、気合いとともに横一文字に切り裂いていく。
 喉元から、真っ赤な血がほとばしる。
 甲賀衆は壮烈な光景を目の当たりにして息を飲む。
 だが実は、刃先は折られており、さらに柄を握っている手の中には内臓の切れ端を隠し持っていて、それを握りつぶしていくことで出血に見せかけているのだ。
 ──長兵衛の死体が、下草に埋もれて横たわっている。左胸には、心臓をえぐられた無惨な傷口がある。
 首を見事に掻き切ったように見せかけた弥左衛門は、そのまま最期の力をふりしぼったかのように、谷に身を投じる。
 甲賀衆は谷の際に駆け寄り、見下ろす。
 崖の高さは二〇メートルほどもあり、谷底は急流になっている。川面に、死体のごとく浮かんでいる弥左衛門の姿が小さく見える。
 小頭は感嘆し、
「首級を取られるのを嫌ったか……。伊賀者、見事な最期なり」
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