爺嬢

はゆ

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 書類上とはいえ、眼前に居る雪乃は母。不埒ふらちな目で見たり、よこしまな感情をいだくべきではない。
 理性で煩悩ぼんのうを抑制し、雪乃の発言の意味を考える。
 こういうタイプの店は、入ってしまったらすぐに出るとしても代金を支払わなければならない。雪乃がそのことを懸念しているのならば、言い分には一理ある。
 とはいえ空想の域を出ない。雪乃がどのような意図で言ったのか――太郎がどれだけ考えようと、正解は発言者本人、雪乃にしかわからない。だからいくら考えを巡らせても無意味。

 太郎は観念し、ソファの端に腰を下ろす。
 雪乃に尋ねたいことは色々ある。けれど、どう切り出せば良いかわからない。単刀直入に『詐欺師ですか?』と問うわけにはいかない。もしそうだとしても、雪乃が『そうです』と答えるはずが無い。誤魔化されてしまえば、真実はわからずじまい。
 それに、雪乃が真実を話したとして、太郎が信じるかは別の問題。太郎が予想した通りの回答であれば信じ、そうでなければ疑うだろう。このような状態で行う問答により得られるものは不信感のみ。良い結果は伴わない。

 今、太郎がすべきことは次の機会に繋げること。
 そのためにどうすべきか――結論が出ない。
 いや、結論は出ている。問答をしないこと。とはいえ無言の時間が延々と続く現状は、太郎が望むところではない。

「ぷっ」
 雪乃が唐突に笑い声を漏らす。
 笑えるようなことなんて、何も起きていない。
 しかし太郎は、この転機を逃せば次は無いと直感した。
「思い出し笑いですか?」
 話し始めるきっかけにさえなれば、放つ言葉は何でも良いと思った。けれど、太郎はすぐに自責の念にとらわれる。
 もしも雪乃が太郎の発言を馬鹿にしていると受け取ったら――雪乃の気分を害し、会話どころではなくなってしまう。太郎は、こんな言葉しか思い浮かばなかったことに対し、後悔の念をいだく。

「太郎さんも、こういう店に来るんだなって」
 雪乃の反応は、拍子抜けするほど和やかだった。
「いや、個室がある居酒屋だと思って来たら違っていただけで」
 太郎は安堵し気が緩んだ。話を広げなければならないのに、誤解を解きたい一心で否定してしまった。否定すれば会話が終わってしまう。
「ふーん……弁明しなくてもいいのに」
「本当なんだ」
「はいはい。そういうことにしておいてあげる。ところで私のこと、何か聞いてる?」
「何も」
「そっか。洋平さん、何も言ってないんだ」
「ええ」
 太郎は言葉選びを誤り続ける自分自身への苛立ちを募らせる。
「じゃあ、いいや」
 太郎が恐れていた台詞。ついに会話を終えられてしまった。
 雪乃の方から気になっていることを尋ねるきっかけをくれたというのに、太郎は自ら不意にしてしまった。

 でも、今ならまだ挽回出来る可能性は残っている。なんとしても食い下がるべきだ。
「教えてください」
「洋平さんが言ってないなら、言わない」
 雪乃の応対は誤っていない。洋平に対して誠実な回答。太郎も、この受け答えが正解だとわかっている。それでも――雪乃の左腕を掴み、ソファに押さえ付ける。
「教えてください。教えてくれないなら……」
「どうするの?」
 薄ら笑いを浮かべる雪乃。

 何故笑える? 襲われるかもしれない状況に陥っているのに、雪乃からは危機意識を全く感じられない。
 男を誘惑するような服装。偶然を装い太郎に近付いた。そしてこの余裕――これはハニートラップ。太郎は確信する。
 今まで酷い目に遭わされること無く、思い通りになっていたから、こんな態度を取るのだろう。雪乃は、所詮捕まってないだけの詐欺師なのだ。

 眼前で存在感を主張する雪乃の胸。
 太郎は乱暴に掴み、潰すように握る。
「こういうこと、されたいんだろ」
 雪乃は、太郎の手の甲に右手を被せる。
「んー……こう」
 太郎の手を退けると思った。しかし、雪乃は揉み方をレクチャーするかのように太郎の手を動かす。
 太郎は予想だにしなかった出来事に驚き、スッと手を引っ込める。
「不貞行為だぞ!」
「しーっ。太郎さんはどうしたいの? 私は、お金をもらえればいい」
「脅迫するのか! ついに本性を現したな。親父に報告してやる」
「ん……」
 雪乃は反論せず、困った表情を浮かべるのみ。
「報告されたくないのか?」

 雪乃はかばんからスマホを取り出し、発信画面が表示されている状態で卓上に置く。発信先には『洋平さん』と表示されている。
『もしもし。どうしたんだ? 今は仕事中だろう?』
 スピーカー越しに聞こえる声は、間違いなく洋平の声。
「うん。仕事中なんだけど」
 雪乃は何食わぬ顔し、嘘をいた。
 太郎は言葉を被せるように雪乃の発言を否定する。
「嘘をくな。俺と居るだろ!」
「太郎さんから、洋平さんに報告したいって要望があったの」
『そうか。わかった』

「お待たせ。他にも要望があれば、都度言って」
「親父、正気か!? こいつは不貞行為してるんだぞ」
 太郎はスマホの向こうに居る洋平に向かって問いかける。
『太郎こそ何を言ってるんだ? 年間200回以上、誰かと体の関係を持たなければならない。何の問題があるんだ?』

 洋平はイカれている。自分の妻が他人と不貞行為しなければならない回数を指定するなんて異常だ。

「太郎さんはどうしたいの?」
 またこの問い。
「脱げと言ったら脱ぐのか!?」
「うん」
 雪乃は躊躇なく服を下ろし、胸をあらわにする。
「セ、セックスしたいと言ったらするのか!?」
「うん。でも、ここは食事するところだから、場所を変える方がいいよ」
「夫が聞いているのに、よくそんなことを言えるな」
 雪乃は不思議そうに首をかしげる。
『太郎、何か勘違いしてないか?』
「勘違いしてるのは親父だろ。こいつは仕事なんてしてない」
『母をそんな呼び方するな! それに、仕事はしてるじゃないか』
 洋平が言っていることを理解出来ない。
 何故、洋平は雪乃の不貞行為を容認し、それを仕事と称しているのか。
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