50 / 54
50
しおりを挟む
ノラオの体調不良はそこから改善することなく、日々悪化の一途をたどっていった。
―――何だ、コレ。ただの風邪じゃねぇのか……?
いっこうに回復の兆しを見せない体調にそんな思いが頭をかすめたものの、バスや電車を使って自力で病院へ行くのはもはや不可能なくらい、体調が悪かった。
タクシー呼ぶか? ―――いやダメだ、番号が分かんねぇ……。
普段からあまり物が入っていない冷蔵庫は既に空で、米びつに米だけはあったものの、そもそも食欲も体力もなかったから、自炊しておかゆを作るという気にもなれなかった。
食欲がなくても食べないとまずいよな……そうは思うものの、身体が辛くて、昨日あたりから水しか飲めずにいる。
欠勤が丸々一週間に達すると上司から電話がかかってきて、来週も来れないようならやめてもらって構わない、と事実上のクビを通告された。
―――こっちだって好き好んで休んでいるわけじゃねぇ! 本当に体調不良なんだと電話の声からも分かるはずなのに、そりゃあちょっと横暴じゃねぇのか―――!
頭の中でブチ切れながら、そういえばこの上司のお気に入りの女子社員から告白されて断ったことがあったな、と頭の片隅でふと思い出す。
そこからこの上司の当たりがキツくなった気配はあったが、まさかその仕返しも含まれているんじゃねぇだろうな―――そんな疑惑が胸に湧いたものの、咳込んでろくに喋ることが出来ず、弱り切ったノラオにはそこを詰めるだけの体力も気力もなかった。
おじいちゃんから聞いた話によると、実はこの時ノラオは風邪ではなくインフルエンザを患っていて、それが肺炎に転じかかっていたのだけれど、医療機関へかかっていない彼がそれに気付くことは出来なかった。
相当具合が悪い自覚はあったものの、それでもノラオは県外にある実家や、離れて暮らす結婚したばかりの弟を頼る気にはなれなかったのだ。
その根底には、この状態を父親に知られることは絶対に避けたいという思いがあった。
それに、他人を煩わせるくらいなら自分が耐え忍べばいいという、幼い頃から培われた長男気質もあった。
けれど、体調を崩して十日目に入ると、とうとう満足に呼吸も出来なくなり始め、リアルな死の影が彼の脳裏をかすめた。
さすがにマズい、と思って、最後の選択肢、救急車を呼ぼうと身体を起こしかけたその時―――視界が暗転して、気が付いた時には、床に倒れてしまっていた。
目の前に電話機が見える、あの受話器を上げて、119をダイヤルしないと―――そこへ必死に腕を伸ばそうとしながら、あの電話が何度も何度も時間を置いて鳴っていたあの光景を思い出した。
何度も何度も、時間を置いて鳴っていたあの電話。なのに、頑なに受話器を取ろうとしなかった自分―――その時の光景を思い出して、涙が溢れた。
次の日もまた次の日も、夕方過ぎに何度も何度も鳴っていた電話。
あれはきっと、エージからの着信だった。
きっとエージが約束を守れなかったことを詫びようと、寒い中待たせてしまったに違いない自分を心配して、何度も何度もかけてきてくれていた。
あの時変な意地を張らずに電話に出ていたら、エージの声が聞けたのに。
ずっとずっと聞けていなかった、エージの声を聞くことが出来ていたはずなのに。
大好きな、あのエージの声を。
―――エージ、エージ……! もう一度、お前に会いたい。
その想いが、胸に溢れる。
会って、詫びたい。何度も何度もかけてきてくれたのに、電話に出なくてごめん、と。
ちょっと拗ねていただけなんだ、会えると思ってスゴく楽しみにしていたのに、会えなかったから、悲しくて、やりきれなくて、拗ねていただけなんだ。
大人げなくて、ごめん。
でもそれだけお前に会いたかったんだ、お前のことが大好きで大好きで、たまらなかったんだ。
―――エージ、愛している。
ずっとずっと、お前だけを愛している―――。
白んでいく視界に電話機を映しながら―――ノラオの意識はゆっくりと遠ざかり、そしてそのまま、彼は二度と目を覚ますことがなかった。
ある冬の朝。外からは、近くの高校へ登校する生徒達の明るい声が聞こえていた―――。
―――何だ、コレ。ただの風邪じゃねぇのか……?
いっこうに回復の兆しを見せない体調にそんな思いが頭をかすめたものの、バスや電車を使って自力で病院へ行くのはもはや不可能なくらい、体調が悪かった。
タクシー呼ぶか? ―――いやダメだ、番号が分かんねぇ……。
普段からあまり物が入っていない冷蔵庫は既に空で、米びつに米だけはあったものの、そもそも食欲も体力もなかったから、自炊しておかゆを作るという気にもなれなかった。
食欲がなくても食べないとまずいよな……そうは思うものの、身体が辛くて、昨日あたりから水しか飲めずにいる。
欠勤が丸々一週間に達すると上司から電話がかかってきて、来週も来れないようならやめてもらって構わない、と事実上のクビを通告された。
―――こっちだって好き好んで休んでいるわけじゃねぇ! 本当に体調不良なんだと電話の声からも分かるはずなのに、そりゃあちょっと横暴じゃねぇのか―――!
頭の中でブチ切れながら、そういえばこの上司のお気に入りの女子社員から告白されて断ったことがあったな、と頭の片隅でふと思い出す。
そこからこの上司の当たりがキツくなった気配はあったが、まさかその仕返しも含まれているんじゃねぇだろうな―――そんな疑惑が胸に湧いたものの、咳込んでろくに喋ることが出来ず、弱り切ったノラオにはそこを詰めるだけの体力も気力もなかった。
おじいちゃんから聞いた話によると、実はこの時ノラオは風邪ではなくインフルエンザを患っていて、それが肺炎に転じかかっていたのだけれど、医療機関へかかっていない彼がそれに気付くことは出来なかった。
相当具合が悪い自覚はあったものの、それでもノラオは県外にある実家や、離れて暮らす結婚したばかりの弟を頼る気にはなれなかったのだ。
その根底には、この状態を父親に知られることは絶対に避けたいという思いがあった。
それに、他人を煩わせるくらいなら自分が耐え忍べばいいという、幼い頃から培われた長男気質もあった。
けれど、体調を崩して十日目に入ると、とうとう満足に呼吸も出来なくなり始め、リアルな死の影が彼の脳裏をかすめた。
さすがにマズい、と思って、最後の選択肢、救急車を呼ぼうと身体を起こしかけたその時―――視界が暗転して、気が付いた時には、床に倒れてしまっていた。
目の前に電話機が見える、あの受話器を上げて、119をダイヤルしないと―――そこへ必死に腕を伸ばそうとしながら、あの電話が何度も何度も時間を置いて鳴っていたあの光景を思い出した。
何度も何度も、時間を置いて鳴っていたあの電話。なのに、頑なに受話器を取ろうとしなかった自分―――その時の光景を思い出して、涙が溢れた。
次の日もまた次の日も、夕方過ぎに何度も何度も鳴っていた電話。
あれはきっと、エージからの着信だった。
きっとエージが約束を守れなかったことを詫びようと、寒い中待たせてしまったに違いない自分を心配して、何度も何度もかけてきてくれていた。
あの時変な意地を張らずに電話に出ていたら、エージの声が聞けたのに。
ずっとずっと聞けていなかった、エージの声を聞くことが出来ていたはずなのに。
大好きな、あのエージの声を。
―――エージ、エージ……! もう一度、お前に会いたい。
その想いが、胸に溢れる。
会って、詫びたい。何度も何度もかけてきてくれたのに、電話に出なくてごめん、と。
ちょっと拗ねていただけなんだ、会えると思ってスゴく楽しみにしていたのに、会えなかったから、悲しくて、やりきれなくて、拗ねていただけなんだ。
大人げなくて、ごめん。
でもそれだけお前に会いたかったんだ、お前のことが大好きで大好きで、たまらなかったんだ。
―――エージ、愛している。
ずっとずっと、お前だけを愛している―――。
白んでいく視界に電話機を映しながら―――ノラオの意識はゆっくりと遠ざかり、そしてそのまま、彼は二度と目を覚ますことがなかった。
ある冬の朝。外からは、近くの高校へ登校する生徒達の明るい声が聞こえていた―――。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
旧校舎の地下室
守 秀斗
恋愛
高校のクラスでハブられている俺。この高校に友人はいない。そして、俺はクラスの美人女子高生の京野弘美に興味を持っていた。と言うか好きなんだけどな。でも、京野は美人なのに人気が無く、俺と同様ハブられていた。そして、ある日の放課後、京野に俺の恥ずかしい行為を見られてしまった。すると、京野はその事をバラさないかわりに、俺を旧校舎の地下室へ連れて行く。そこで、おかしなことを始めるのだったのだが……。
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
愛しているなら拘束してほしい
守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。
クラスのマドンナがなぜか俺のメイドになっていた件について
沢田美
恋愛
名家の御曹司として何不自由ない生活を送りながらも、内気で陰気な性格のせいで孤独に生きてきた裕貴真一郎(ゆうき しんいちろう)。
かつてのいじめが原因で、彼は1年間も学校から遠ざかっていた。
しかし、久しぶりに登校したその日――彼は運命の出会いを果たす。
現れたのは、まるで絵から飛び出してきたかのような美少女。
その瞳にはどこかミステリアスな輝きが宿り、真一郎の心をかき乱していく。
「今日から私、あなたのメイドになります!」
なんと彼女は、突然メイドとして彼の家で働くことに!?
謎めいた美少女と陰キャ御曹司の、予測不能な主従ラブコメが幕を開ける!
カクヨム、小説家になろうの方でも連載しています!
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる