影王の専属人は、森のひと

藤原 秋

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影王の専属人は、森のひと

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 幸か不幸か分からないけれど、わたしはその夜、いつもと違う心持ちで眠りにつくことが出来た。

 上手くいかない人間関係やら山積する課題やら、そういった事柄に鬱々と頭を悩ませながら寝るのではなく、影王に見事なまでのおくれを取った自分に盛大に腹を立てながら眠りについたのだ。

 それはそれでどうかという感じもするけれど、わたしの場合、胃に痛みを覚えながら寝るよりは、まだ怒りに任せて寝た方が精神的に良かったらしく、久々に朝までぐっすりと眠ることが出来た。

 考えてみればあんなに大声を出したのも、あんなにたくさん誰かと本音で話をしたのも、ずいぶんと久し振りだったな……。

 いつもより幾分スッキリとした目覚めを迎えていたはずのわたしは、歯磨きと洗顔を済ませ制服を着る段階になって、一気に気分が悪くなってしまった。

 ―――ウソ。これ、あの男の。影王の残り香がついている……。

 微かに染みついた清涼感のある高貴な香りはクリストハルト陛下と同じものだ。

 制服に染みついてしまったその香りはそれだけ長くあの男に羽交い絞めにされていたのだという事実をわたしに突きつけて、わたしは自身への不甲斐なさと相手に対する腹立たしさを改めて募らせた。

 洗い替え用の制服に着替えようかと逡巡して、やめる。時間もないし、窓から見上げた空は青い色がどこまでも広がっていて、そんな気分に左右されていること自体がバカバカしくなった。

 うん、いつまでもこんなふうに腐ってても仕方がないわね。表に出て明るい陽の光を浴びて、リセットしよう。

 それにわたしが微かに感じる程度の移り香なら、人間には気付かれないだろう。

 ―――そう思っていたのに、シルフィール様の居室で本日のスケジュールを確認していた時、思いも寄らない人物からまさかの指摘を受けて、わたしはぎょっとした。

「リーフィアから何だかお兄様と同じ香りがするみたい」

 何の気なしにそう口にしたのは、部屋の主であるシルフィール様その人だ。

 えっ……わたしが微かに感じる程度だから、誰にも気付かれないと思っていたのに!

「そんなこと、あるわけないじゃないですか。気のせいですよ」

 内心冷や汗をかきながら、平静を装ってやんわりと否定する。すると「そう?」と小首を傾げたシルフィール様はあろうことか可愛らしい顔をわたしの肩の辺りに近付けて、すん、と匂いを嗅いだ。

 ぎゃあっ!

 と叫びたくなるところをぐっとこらえて笑顔を作り、柔らかくたしなめる。

「シルフィール様、おやめ下さい。はしたないですよ」
「何だかやっぱり……」
「気のせいです!」

 目力を込めて諭すと、シルフィール様は完全には納得がいっていない様子ながら、とりあえずそれ以上の追及は諦めてくれた。

 危ない! ふんわりしていらっしゃるかと思えば時々こうして鋭いところがあって気が抜けない。この辺り、やはり陛下の妹君なんだわ。

 幸い離れたところにいた他の同僚には今のやり取りを聞かれずに済んだみたいだけど……危ない、危ない。下手なことがバレたら懲罰ものなんだから。

 こっそりと汗を拭ったその時、ノックの音が響いてわたしはドキリとした。

「私だ」

 陛下……!

 近くに控えていた同僚がうやうやしくドアを開け、主君を室内へと迎え入れる。

 ―――今日は本物のクリストハルト陛下だ……。

 現れたその姿を見てそんな事実に胸をなで下ろしながら、わたしは昨日の件が本物の陛下にも伝わっているんだろうなと考えて気まずい気分になった。

 あの男から陛下へは、わたしのことがどんなふうに伝えられているんだろう? その件で何か沙汰があったりはしないんだろうか……?

 その時、空色の視線がふとこちらへ流れてきて、わたしは思わず姿勢を正した。その視線は一瞬だけわたしを捉えた後、ごく自然にシルフィール様へと流れて、それが自分へ向けられたものでなかったことに心からホッとする。

 ああ、スゴく心臓に良くないわ……別に悪いことをしているわけじゃないんだけど、わたしが影王の存在を知ってしまったことを陛下がどう受け止めているのかが分からないから、こちらとしてはどう対処したらいいか分からなくて身構えてしまう。

 それにしても午前中のこんな早い時間帯に陛下がいらっしゃるのは珍しいわね……どうしたんだろう……?

 と思った傍から、疑問が解決した。

「シルフィール、今日はお前に頼みがあってきたのだ」

 なるほど、所用があっていらしたのね。

「これを。街までの使いを頼みたい」
「はいお兄様、喜んで」

 シルフィール様は兄王の要請をひとつ返事で快諾すると、差し出された真っ白い封書を受け取った。

 そのやり取りを目にしながら、わたしは内心で首をひねる。

 王族や貴族の屋敷ではなく、街までの使いに妹君を出すの……? 治安が回復してきているとはいえ、危なくはないんだろうか。

「護衛にはそこの者を連れて行け」

 続いた陛下の声にハッとする。空色の瞳が真っ直ぐにわたしの琥珀色の瞳と交わって、主君の言う「そこの者」が自分なのだと悟り、わたしは唐突な指名とその内容に驚いた。

 えっ、わたしだけ……? シルフィール様が街まで出向くのに、わたし一人しか護衛に付けない、ってこと!?

 要人警護の観点において、それはちょっとどうなの!?

「はい、ではリーフィアを伴って参ります」

 わたしの戸惑いをよそに、あまり深刻に捉えていない様子のシルフィール様は笑顔でそう応じている。

「うむ。では頼んだぞ。くれぐれも気を付けて行くように」

 ちょ、ちょっと待って!

 あせって護衛長の方を見やると、彼女は何とも苦々しい顔つきで口をつぐみ、事の成り行きを見守っていた。その雰囲気から、これはやっぱり普通のことではないのだと判断する。

 わたしはとっさにその場で膝を折り、部屋から退出しようとする陛下に声をかけていた。

「―――陛下、僭越ながら」
「何だ」

 足を止めこちらを見下ろした、感情の窺い知れない空色の眼差しに、形容しがたい迫力を覚えて気圧される。

 この方はそう、言うなれば目に見えないおごそかな光のようなものを周囲に漂わせている。一瞬で人を射抜く、静寂を纏った苛烈な雷光のようなものを―――。

 本人を目の前にして、そこがあの影王とは違っていたのだと今更ながら思い至った。

 一国の王というのは、往々にしてこういった風格を持ち合わせているものなのだろうか。クリストハルト陛下が神秘の森の奥に湛えられた霊験あらたかな泉だとしたら、それを演じていた影王のものは深い森の奥にある静謐せいひつな泉だ。纏う威光の温度差―――とでも言えばいいのだろうか、わたしにはそれが感じられ、引っ掛かったのだ。

 気を抜くと飲み込まれてしまいそうな圧を伴う陛下の眼差しに、わたしはかしこまって床に視線を這わせながら、喉が震えないように気を付けつつ自らの懸念を伝えた。

「シルフィール様が街へお出ましされるのに護衛が私のみというのは、様々な側面からかんがみて、いかがなものかと思うのですが―――」
「護衛の数が多いと人目を引く。余計な危険を招き寄せることにもなると考えての判断だ」

 んん? ということは―――このお使いは公式なものではなくお忍び、ということなんだろうか。それにしたって従者がわたし一人というのは―――。

「それとも其方には荷が重いということか? 一人ではシルフィールを護り抜ける自信がないのか」

 良く通る低い声に試すような響きが滲んだ。

 影王の件もあって、わたしを推し量ろうとしてるの―――?

「いえ。そういうわけでは―――」

 ただ安全面を考慮すると、不測の事態に備えてもう一人は護衛が欲しい。

 けれどそれを申し出る暇を陛下は与えてはくれなかった。

「ならば職務を全うせよ」

 速やかに話を切り上げられて、視界の隅に赤色のマントが翻る。遠ざかっていく靴音を耳にしながら、これは決定事項で覆らないものなのだと理解した。

「は……」

 わたしはうつむいてかしこまったまま言葉を飲み込み、その場を引き下がるしかなかった。
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