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しおりを挟むルーシェルは魔獣に襲われて大怪我をした。特に、顔に大きな傷ができて、八針も縫った。宮廷医からは、傷が癒えても傷跡は残ると言われた。
社交界は常に足の引っ張り合い。女たちは互いに粗を見つけようといつも目を光らせている。目に見える傷は好奇の対象になるだろう。
ルーシェルはそのことで相当ショックを受けたが、心配してくれる人はいなかった。
侍女のセレナは、今回の騒動で、慰謝料という名目で多額の口止め料を王家から支払われて、ルーシェルの元を去って行った。
国王はルーシェルの浅はかな行動に怒り心頭。国王は学園を休学して二年謹慎するように命じてきた。
(どうしてわたくしがこんな思いを……)
自室で一人きり。寝台の上で、手鏡を眺める。顔に巻いた包帯に血が滲んでい痛々しい。鏡を壁に投げつけたあと、ぎゅうとシーツを握り締めて、歯ぎしりした。
◇◇◇
イリト王国王女が魔獣を飼っていたことは世間に露見しなかった。もしこの件が外に漏れていたら、民衆は大混乱だっただろう。魔獣は未だに逃亡中。騎士団が総出で捜索しているところだ。
「お嬢様。クラウス様がいらっしゃいましたよ。こちらにお通ししますか?」
「いえ。わたしが応接室に行くわ」
「で、ですが……無理はなさらない方が……」
「平気よ」
脱走した魔獣はまだ見つかっていない。騎士団が探しているが、手がかりひとつ掴めていない。その間にエルヴィアナはどんどん生命力を吸い取られて憔悴していった。
ドレスに着替えて応接間に行く。どうしても好きな人の前では綺麗な姿でいたくて、寝巻きのままではいられず、無理に身支度を整えた。
「お待たせしたわね。クラウス様」
クラウスは見るからに弱ったエルヴィアナの姿を見て眉をひそめた。
「身体の調子は……どうだ?」
「まぁまぁよ」
お見舞いに果物のかご盛りを渡され、リジーが丁寧に受け取る。
「何か召し上がりますか?」
「りんごを」
「分かりました」
クラウスとエルヴィアナはテーブルを挟んで向かい合って座った。その横でリジーが茶を用意し、りんごの皮を剥き始めた。
今回の騒動でルーシェルは学園を休学した。エルヴィアナも体調不良で休学中。クラウスは学園の制服を着たまま、毎日のようにエルヴィアナの屋敷にお見舞いに来た。
エルヴィアナは温かい紅茶を一口飲み、カップをテーブルに置いた。
クラウスはエルヴィアナのことが余程気がかりらしく、表情がかなり暗い。
「――もし、元気になったら」
「……なったら?」
伏せていた目をこちらに向けて、首を傾げるクラウス。
「一緒に出かけたいわ。かごに美味しいご飯を入れて、景色が綺麗なところにピクニックに行きたい」
「もちろん。いい場所を探しておこう」
少しだけ硬い表情が柔らかくなったのを見て安心する。エルヴィアナはぎこちなく笑みを返した。
お弁当を作ったら喜んでくれるだろうか。そもそも、エルヴィアナは彼の好きなものをほとんど知らない。
「サンドイッチの具は何が好き?」
「強いて言えばたまご……だろうか。いやでも俺は君が作ってくれたものならなんでも――」
「あ、分かりました結構です。それじゃあ好きなお菓子は?」
「菓子にはあまり詳しくないが、昔エリィが作ってくれたマドレーヌは美味しかった」
「マドレーヌなんて作ったことあったかしら」
「七年と27日前だ」
「こわい」
「とにかく、俺は君が作ってくれたものはなんでも――」
「あ、分かりました結構です」
そのあとに長々と続きそうな言葉は容易に想像できる。エルヴィアナへの賛辞は耳にたこができるくらい聞き飽きているので途中で遮る。
(そういえばクラウス様。服についていた糸ぼこりを取って差し上げた日も正確に記憶されていたわね)
この人はどれだけエルヴィアナとの思い出を細かく記憶しているのだろう。愛が重いし、記憶力がよすぎる。もっと違うところで能力を発揮したらどうなのか。
「なら、わたしの得意なお菓子を何か作っていくわ」
「楽しみにしておく」
「これからは……クラウス様の好きなものを沢山教えてちょうだい。もっとあなたのことが――知りたいの」
真っ直ぐに彼のことを見つめれば、彼の美しい瞳の奥が揺れた。
「エリ、」
すると、りんごをカットし終わったリジーがそれを皿に盛り付けて立ち上がった。
「ご馳走様でした。邪魔者は退散しますのでごゆっくりどうぞ~」
会話につい夢中になっていたが、他人に聞かせるにはだいぶ恥ずかしい内容を話していたことに気づく。退出していくリジーの後ろ姿を見送りつつ、気まずくなったエルヴィアナは俯き、無心でカットされたりんごをひと口フォークで口に運んだ。みずみずしくて甘い。
「わたし……果物の中で一番りんごが好き。苦手なのはいちぢく。食感がだめで。クラウス様は?」
好きなものも苦手なものも、もっと知りたい。色んなことを共有したい。
「ぶどうだな。砂糖とレモン果汁で煮詰めたコンポートを夜食に食べる。苦手なものは特にない」
「好きな料理と野菜は?」
「海鮮が好きだ。野菜は大半が好きだが、ピーマンとトマトだけはどうも……」
「ふ。子どもみたいね」
ピーマンやトマトを前にして渋い顔をしているクラウスを想像したら、なんだかおかしくて笑ってしまった。
一問一答形式で、次々に質問を投げかけていけば、彼は真剣に答えてくれた。
もうひと口、りんごをフォークで刺して口に運ぼうとしたとき――。
「俺が一番好きな人は、エルヴィアナだ」
「…………」
フォークを持ったままぴたりと硬直する。
「ひと言も聞いてないけれど」
「一番好きな瞬間は、エリィといるときだ。とても心が安らぐ。君を見ているだけで癒される」
顔を赤くしながら俯くと、「照れた顔も好きだ」と畳み掛けられる。聞いてもいないのに次々と甘い言葉を囁く口に、りんごをひと口押し込んだ。
「……んんぐん(訳:大好きだ)」
りんごを咀嚼しながらまだ愛を語ろうとするクラウス。もうこっちはお腹いっぱいだ。
「はいはい」
やっぱり魅了魔法は恐ろしい。寡黙で自分のことを語ろうとしなかったクラウスが、隙あらば愛を告げてくるのだから。でもそれが、魅了魔法の力に後押しされて引き出された彼の本心だと思うと、ますます恥ずかしくなる。
「いつから……? いつからわたしのことが好きなの?」
上目がちに尋ねると、クラウスはりんごを飲み込んでから答えた。
「アカデミーに入ったころだ」
王立学園に入る前、エルヴィアナとクラウスは初等教育機関のアカデミーに通っていた。アカデミーに入った年齢でいえば、七歳かそこらの話だ。
(そんなに前から……)
「どこを……好きになったの?」
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