16 / 43
16
しおりを挟む孫雁の執務室から内之宮に戻り、浴場で身を清めるらんか。宮には皇后のための浴室があり、大きな丸い木の桶が備えてある。ここに湯を張って、日本と同じように浸かるのだ。
本物の樹蘭は、入浴を複数の女官に手伝わせていた。彼女はただ、湯の中でじっとしているだけ。
ひとりが念入りに髪を洗い、また別のひとりは肌を洗う。樹蘭のふりをして過ごしているらんかも、本来ならそのようにするべきだが、素肌を見られた場合、正体を知られてしまう可能性がある。
樹蘭は絞殺されたときの首の痣と、胸に七箇所の傷痕がなければならないから。
だから今は、傷跡を誰にも見られたくないという口実で、凛凛のみに手伝ってもらっている。
「髪くらい、自分で洗えるわよ?」
「そういう訳には参りません。らんか様は今、皇后陛下なのです。樹蘭様はご自分で髪を洗うようなことはなさいませんでした。どうぞ私にお任せください」
桶の中に浸かるらんかの髪を、凛凛は慣れた手つきで洗う。頭皮の方まで揉みほぐされて気持ちがいい。
「悪いわね。あなたにばっかり大変なことをさせて」
「いえ。らんか様は樹蘭様のために身代わりとなってくださっているんです。このくらいのこと、当然です。なんの負担でもございません」
「そう……」
らんかは小さく息を吐き、目を伏せた。
お湯には薔薇の花弁が浮かんでいて、お湯と一緒に手ですくうと、かすかに甘い香りがする。
手持ち無沙汰に花弁を弄べば、ちゃぽんとお湯が跳ねる音が室内に響いた。
凛凛は真面目で、口数も少なく、少し気難しい性格をしている。だが、樹蘭への忠誠心は強いものだった。
(悪女として嫌われていたのに、どうして凛凛さんだけは樹蘭様を慕っていたのかな)
樹蘭を想って泣いていた彼女のことを思い出して、らんかは不思議に思った。
「凛凛さんはどうして、樹蘭様のことを慕っているの? 後宮にいる人たちの多くが、彼女のことを嫌っていたわ。横暴で、意地悪な人だった……と」
すると、凛凛はらんかの髪を洗う手を止めた。
「樹蘭は……本当はお優しい方なのですよ」
彼女は寂しそうに呟き、それ以上は何も言わなかった。
肌着を着て素肌を隠したあと、他の侍女たちも招き、着替えを手伝わせる。
浴室を出たのち、凛凛を含めた複数の侍女を付き従え、寝所へ向かった。
だだっ広い回廊を歩いていると、途中で下女が床に這いつくばっているのを見かけた。
「あの、大丈夫で――」
咄嗟に、大丈夫ですか、と声をかけそうになったが、口を噤む。
(いけない、気を抜くとすぐにらんかに戻っちゃうんだから。今の私は――悪女樹蘭でしょ)
気持ちを切り替え、冷たい表情で下女を見下ろす。
「邪魔だ。そのような場所で何をしている」
「こ、皇后陛下……っ!?」
らんかが声をかけると、彼女はびくと大きく肩を跳ねさせ、青白い顔でこちらを振り返った。
「申し訳ございません! 何卒お許しください。どうか、どうか、お許しくださいませ……っ!」
こちらを見るやいなや、彼女は床に額を擦り付けた。
彼女の足元には見るも無惨に破損した陶器の壺が転がっていた。
葫の形をした曲線のある壺で、鮮やかな赤と黄の蝶の絵と、金粉をまぶしたような装飾が施さている。
宮殿にふさわしい、いかにも高級そうな代物だ。
(あちゃ……高そうな壺。これ、いくらするんだろ)
皇后が居住する宮に飾られるくらいなのだから、もしかしたら目が飛び出でるような金額のものかもしれない。
すると、らんかの後ろにいた凛凛が、破片のひとつを拾い上げて確かめる。
「この壺、皇后陛下が三年前に異国の商人から購入し、大事になさっていた代物では……」
さりげなく凛凛が説明してくれた。
(凛凛さん、解説ありがとう……!)
何やら、樹蘭のお気に入りの壺らしい。樹蘭のお気に入りをらんかが知らない訳にはいかない。
その事実に、下女の顔色が更に悪くなる。
「私……家族を養わなくてはならないんです。父が足を患って働けなくなってしまった上に、弟もまだ五歳になったばかりで……。どうか、命だけは……っ」
彼女は悲嘆に暮れ、すっかり狼狽している。らんかはどうしたものかと悩んだ。
悪女樹蘭なら、簡単に許さないだろう。彼女の生活がどうなろうと、償わせようとしたに違いない。
けれど、目の前で震えながら詫びを口にする彼女を、これ以上怯えさせるのは、あまりにも心苦しかった。
「――壺ひとつで大袈裟な」
「え……?」
「妾が壺が割れた程度のことで怒るほど、器の小さき人間だと思っているのか?」
「と、とんでもございません……! 皇后陛下のお心は海よりも深く……」
「世辞はよせ。散らばった破片を片付けておけ。それをそなたの罰とする」
「…………!」
下女は涙ぐみながら、何度も何度もらんかに頭を下げた。
「感謝のしようがありません……っ。ありがとうございます、ありがとうございます……。このご慈悲は一生、忘れません」
そのまま踵を返すらんか。悪女の予想外に寛大なな対応に、その下女や、らんかの侍女たちは当惑して顔を見合わせていた。
◇◇◇
「ちょっと、優しくしすぎたなぁ。ねえ、本物の樹蘭様だったらさっきの状況でどうしたと思う?」
部屋に戻ってから、らんかは凛凛と反省会を行った。
らんかは樹蘭のふりをして過ごしているが、できるだけ他人を傷つけない形で役をこなしていきたいと思っている。もちろん、正体を悟られない範囲で。
「そうですね……。樹蘭様であれば、割れた壺を見て声を荒らげ、まず叱責ていたと思います」
「――よくも割ってくれたな! みたいな感じ?」
「はい。そうです。ご気分が悪ければ、手が出ることも」
「なるほど」
らんかは凛凛に指摘された点を紙に書き残していく。
なりかわりを知られないためには、常に本物の樹蘭に近づいていく努力をしなければ。
「樹蘭様は、壺がお好きだったの?」
「壺だけではございません。掛け軸や他の陶磁器などの骨董品、衣装、宝飾品などあらゆるものを買い集めておられました」
「ああ、それで散財家って言われてたのね」
樹蘭が悪女として嫌われていた理由のひとつが、散財癖だった。国民の血税を使って豪遊していたそうだから、非難されるのも当然のことだ。
ふいに、凛凛の指先に傷ができてきて、血が滲んでいることに気づいた。
「凛凛さん、指を怪我してるわ」
「ああ、先ほど割れた陶器の破片で切っただけです。大した怪我ではありませんので、ご心配なく」
「駄目よ、結構深いもの。細菌が入って化膿したりしたら大変。ちゃんと保護しておかなくちゃ」
らんかは日本から持ってきた小物入れを引き出しから引っ張り出して、その中から絆創膏を取った。凛凛に指を貸すように言って、ぺりりと剥がした絆創膏を巻いていく。
「ありがとう……ございます」
凛凛は見慣れない絆創膏が巻かれた指を、不思議そうに眺めつつ、おもむろに呟いた。
「私がまだ、周家のお屋敷に仕えていたころ、壺を割ってしまい、樹蘭様に庇っていただいたことがありました」
「へぇ。凛凛さんはしっかりしているように見えるけど、そういう失敗もするのね」
「人並みにはします。旦那様は大変厳しい方で、先ほどの下女のように、私も咎められるのを恐れておりました」
しかし、樹蘭は『妾が割ったことにすればいい』と庇い、父親に謝ってくれたらしい。そして、貯めていたお小遣いで弁償さえしたのだと。
その話だけを聞くと、召使いにまで気を遣える良い主人のように思える。
「浴室であなたがさっき言っていた、『樹蘭様は優しい人』っていうのは、そういうところなのね」
「他にも沢山あります。そもそも私は、孤児だったところを樹蘭様に拾っていただき、侍女になりましたので。とにかく、樹蘭様は――昔はとてもお優しい方でした」
そのとき、翠花から聞いた話を思い出した。樹蘭は昔は優しい人だったのだと。噂話程度に言っていたが、ずっとそばにいた凛凛が言うのなら真実なのだろう。
そのとき、父のことが脳裏を過ぎった。らんかの父は、らんかが高校生のときにこの世を去ってしまった。
「……私の父もね、子どものころは優しかったけど、あるとき急に変わっていったの。怒鳴ったり、かと思えば気分が落ち込んだり……。ずっと、情緒不安定だった」
「何がきっかけで、お父様は変わってしまわれたのですか?」
「過労……かな。多忙な人だったから、無理が祟ったんだと思う」
父は仕事で大企業の役職を務めていた。しょっちゅう海外を飛び回り、目の下にくまばかり作っているような人で。らんかは女優の仕事で忙しく、父が悩んでるいることに全く気づけなかった。そのことを今でも悔やんでいる。
「それでお父様は今、どうされているんですか?」
「……亡くなったわ。もう何年も前のことだけど」
凛凛はなぜか悲しそうな顔をして、目を伏せた。
「そうですか。言いづらいことを聞いてしまって申し訳ございません」
「ううん。気にしないで」
凛凛が部屋を出て行ったあと、らんかは露台に出て夜空を眺めた。
暗闇に白い月が煌々と光り、冷たい風が頬を撫でる。
凛凛と話しながら、父のことを思い出した。父は悪女と呼ばれる樹蘭と似ていた。
(夜中に奇声……朝まで暴れる……。散財に、下女への過度な叱責と恫喝。でも前は優しい人だった。全部お父さんと一緒だ。でもお父さんは、幻覚に幻聴――明らかに病的な症状が出ていたから)
78
あなたにおすすめの小説
ブスすぎて嫁の貰い手がないから閨勤侍女になれと言われたので縁を切ります、完全に!完全縁切りの先にあったのは孤独ではなくて…
ハートリオ
恋愛
ルフスは結婚が決まった従姉の閨勤侍女になるよう父親に命令されたのをきっかけに父に無視され冷遇されて来た日々を終わらせようとブラコン父と完全に縁を切る決意する。
一方、従姉の結婚相手はアルゲンテウス辺境伯とのことだが、実は手違いがあって辺境伯が結婚したいのはルフス。
そんなこんなの異世界ファンタジーラブです。
読んでいただけると嬉しいです。
2/26 番外編を投稿しました。
読んでいただけると嬉しいです。
思っていたよりずっとたくさん読んでいただいていてとても嬉しいです。
とてもとてもありがとうございます!!
行き遅れのお節介令嬢、氷の公爵様と結婚したら三人娘の母になりました
鳥柄ささみ
恋愛
お節介焼きで困っている人を放っておけないシアは、数多のご令嬢達から人気の令嬢だ。毎日ファンレターが届き、社交界に出れば令嬢に取り囲まれるほどである。
けれど、それに反比例するように男性からの人気はなく、二十七だというのに嫁の貰い手もないため、毎日母から小言をもらっていた。
そんなある日のこと、突然公爵家から縁談の話が。
シアは公爵家がなぜ自分に縁談など持ち掛けるのかと訝しく思いつつ話を受けると、なんと公爵の後妻として三人の娘の母代わりになれと言われる。
困惑するも、自分へ縁談を持ちかけた理由を聞いて、お節介なシアは嫁ぐこと決めたのだった。
夫になるレオナルドはイケメンなのに無表情で高圧的。三人の娘も二女のアンナを除いて長女のセレナも三女のフィオナもとても反抗的。
そんな中でもお節介パワーを発揮して、前向きに奮闘するシアの物語。
※他投稿サイトにも掲載中
義妹の嫌がらせで、子持ち男性と結婚する羽目になりました。義理の娘に嫌われることも覚悟していましたが、本当の家族を手に入れることができました。
石河 翠
ファンタジー
義母と義妹の嫌がらせにより、子持ち男性の元に嫁ぐことになった主人公。夫になる男性は、前妻が残した一人娘を可愛がっており、新しい子どもはいらないのだという。
実家を出ても、自分は家族を持つことなどできない。そう思っていた主人公だが、娘思いの男性と素直になれないわがままな義理の娘に好感を持ち、少しずつ距離を縮めていく。
そんなある日、死んだはずの前妻が屋敷に現れ、主人公を追い出そうとしてきた。前妻いわく、血の繋がった母親の方が、継母よりも価値があるのだという。主人公が言葉に詰まったその時……。
血の繋がらない母と娘が家族になるまでのお話。
この作品は、小説家になろうおよびエブリスタにも投稿しております。
扉絵は、管澤捻さまに描いていただきました。
大根令嬢の雑学無双、王弟殿下を添えて。~ 前世を思い出したので、許婚をほったらかして人助けしまくります!!
古森真朝
恋愛
気弱な伯爵令嬢のカレンは、自分勝手な婚約者レナートに振り回されていた。耐え続けていたある日、舞踏会で何者かに突き飛ばされ、階段から落ちてしまう。
その傷が元で儚く……なるかと思いきや。衝撃で前世を思い出したカレンは一転、かの『ド根性大根』みたいな超・ポジティブ人間になっていた。
『モラハラ婚約者の思惑なんぞ知るか!! 今度こそ好きなことやって、目いっぱい幸せに長生きするんだから!!!』
昔ひたすら読書に耽って身に着けた『雑学』を武器に、うっかり採れ過ぎた作物や、開墾しようとすると不幸に見舞われる土地、不治の病にかかった王族、等々の問題をどんどん解決。
領地の内外で心強い友人が出来たり、いつの間にかものすごく有名になっていたり、何かと協力してくれる王弟ヴィクトルから好意を寄せられたり(注:気付いてない)する中、温かい家族と共に仕事に励んでいく。
一方、前世から因縁のある人々もまた、こちらに転生していて――
【完結】辺境に飛ばされた子爵令嬢、前世の経営知識で大商会を作ったら王都がひれ伏したし、隣国のハイスペ王子とも結婚できました
いっぺいちゃん
ファンタジー
婚約破棄、そして辺境送り――。
子爵令嬢マリエールの運命は、結婚式直前に無惨にも断ち切られた。
「辺境の館で余生を送れ。もうお前は必要ない」
冷酷に告げた婚約者により、社交界から追放された彼女。
しかし、マリエールには秘密があった。
――前世の彼女は、一流企業で辣腕を振るった経営コンサルタント。
未開拓の農産物、眠る鉱山資源、誠実で働き者の人々。
「必要ない」と切り捨てられた辺境には、未来を切り拓く力があった。
物流網を整え、作物をブランド化し、やがて「大商会」を設立!
数年で辺境は“商業帝国”と呼ばれるまでに発展していく。
さらに隣国の完璧王子から熱烈な求婚を受け、愛も手に入れるマリエール。
一方で、税収激減に苦しむ王都は彼女に救いを求めて――
「必要ないとおっしゃったのは、そちらでしょう?」
これは、追放令嬢が“経営知識”で国を動かし、
ざまぁと恋と繁栄を手に入れる逆転サクセスストーリー!
※表紙のイラストは画像生成AIによって作られたものです。
貴族令嬢、転生十秒で家出します。目指せ、おひとり様スローライフ
凜
ファンタジー
第18回ファンタジー小説大賞にて奨励賞を頂きました。ありがとうございます!
貴族令嬢に転生したリルは、前世の記憶に混乱しつつも今世で恵まれていない環境なことに気が付き、突発で家出してしまう。
前世の社畜生活で疲れていたため、山奥で魔法の才能を生かしスローライフを目指すことにした。しかししょっぱなから魔物に襲われ、元王宮魔法士と出会ったり、はては皇子までやってきてと、なんだかスローライフとは違う毎日で……?
【完結】転生7年!ぼっち脱出して王宮ライフ満喫してたら王国の動乱に巻き込まれた少女戦記 〜愛でたいアイカは救国の姫になる
三矢さくら
ファンタジー
【完結しました】異世界からの召喚に応じて6歳児に転生したアイカは、護ってくれる結界に逆に閉じ込められた結果、山奥でサバイバル生活を始める。
こんなはずじゃなかった!
異世界の山奥で過ごすこと7年。ようやく結界が解けて、山を下りたアイカは王都ヴィアナで【天衣無縫の無頼姫】の異名をとる第3王女リティアと出会う。
珍しい物好きの王女に気に入られたアイカは、なんと侍女に取り立てられて王宮に!
やっと始まった異世界生活は、美男美女ぞろいの王宮生活!
右を見ても左を見ても「愛でたい」美人に美少女! 美男子に美少年ばかり!
アイカとリティア、まだまだ幼い侍女と王女が数奇な運命をたどる異世界王宮ファンタジー戦記。
<完結>溺愛最強 ~気づいたらゲームの世界に生息していましたが、悪役令嬢でもなければ断罪もされないので、とにかく楽しむことにしました~
夏笆(なつは)
恋愛
「おねえしゃま。こえ、すっごくおいしいでし!」
弟のその言葉は、晴天の霹靂。
アギルレ公爵家の長女であるレオカディアは、その瞬間、今自分が生きる世界が前世で楽しんだゲーム「エトワールの称号」であることを知った。
しかし、自分は王子エルミニオの婚約者ではあるものの、このゲームには悪役令嬢という役柄は存在せず、断罪も無いので、攻略対象とはなるべく接触せず、穏便に生きて行けば大丈夫と、生きることを楽しむことに決める。
醤油が欲しい、うにが食べたい。
レオカディアが何か「おねだり」するたびに、アギルレ領は、周りの領をも巻き込んで豊かになっていく。
既にゲームとは違う展開になっている人間関係、その学院で、ゲームのヒロインは前世の記憶通りに攻略を開始するのだが・・・・・?
小説家になろうにも掲載しています。
本編完結済み。
続きのお話を、掲載中です。
続きのお話も、完結しました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる