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しおりを挟む「えっと……その……そうです厠! 厠を探していて!」
「嘘をつくな」
「だからその……道に迷って……」
「――本当は?」
圧をかけるように見下ろされて、らんかは観念する。
「ひっ、ごめんなさい! 操魂の術で使われた鏡はないかと物色していました!」
正直に物色していたことを白状すれば、彼は忌々しそうに眉をひそめ、こちらに手を伸ばした。
(叩かれる……!?)
まさか、体罰でもする気ではないかと身を竦め、ぎゅっと目を閉じる。
――こつん。
「あいたっ」
「残念だったな。李家に伝わる家宝を、人の出入りがあるこの部屋に置きはしない。あの鏡は李家の血を引く人間には割れないまじないがかかっているが、それ以外の人間なら壊すことができるからな」
彼はらんかの額を指先で軽く弾き、手から髪飾りを取り上げた。
彼の顔を見上げながら、おずおずと尋ねる。
「怒って……いませんか?」
「別にこの程度では怒ったりしない。ただ、次から入室には許可を取れ」
「は、はい。すみません」
注意されてらんかが少しだけ反省していると、彼は言った。
「術には代償がかかるから、他にお前を帰す方法がないか考えている。……何やら、何万人もの人間が、お前の帰りを待ち望んでいるらしいからな?」
「あ、その顔、絶対嘘だと思ってますね……! 本当ですから。何万人どころか、何百万人の人が私のことを知ってくれているんですよ」
日本にいたときに女優をしていた、と話したが、どうやら彼はらんかが売れない女優なのに見栄を張っていると思っているらしい。
いつもは表情の機微に乏しいのに、らんかをからかうときは口角が上がっている孫雁。
「ふ。そうか」
そして今、完全に鼻で笑われた。ネット環境とスマートフォンさえあれば、らんかの実績を証明できるのに。それができないのが非常に残念である。
彼は嘘つきを見るかのようにすぅと半眼を浮かべた。
「夢が叶うといいな」
「絶対それ馬鹿にしてますよね!?」
本当に、心の底から残念である。孫雁は文机の奥の座椅子に腰を下ろし、髪飾りを引き出しにしまった後に、仕事をし始めた。
文机を挟んだ向かいにらんかはちょこんと座り、彼の流麗な筆跡で文字が綴られるのを眺めていた。
「徳妃の元へ行って、何か収穫はあったか?」
「ひとまず、翠徳妃が美男子がお好きなことはよく分かりましたけど。なんていうか、彼女を放っておいて後宮の風紀は大丈夫なんですか? 取り締まった方がよいのでは」
「宦官との間に子を成すことはできないから、血統を混乱さえさせなければよい。そもそも、後宮を統括するのは皇后の仕事だ」
「ああ……それで規律が緩くなったんですね。理解しました」
樹蘭は後宮統括という重要な仕事を放棄していた。そのおかげで、後宮内で問題が頻発していたそう。後宮の責任者である樹蘭が、率先して風紀を乱す悪女ではどうしようもない。
翠花に襲われかけたことを思い出して、背筋に冷たいものが流れる。
「翠花様は色んな意味で自由奔放な方でしたが、悪い方には思えませんでした。皇帝陛下が樹蘭様を愛していることも知っていて、その上で妬む感情もないようでしたし。彼女には……樹蘭様を殺す動機が見えませんでした」
――今のところは、と付け加える。たった一度会ったきりでは分からないことの方が多いだろう。また宦官の姿をして彼女に会いにいくかどうかは……要検討だ。
けれど、後宮の雰囲気を知るという意味では有意義な時間だった。
「これに懲りたら、今後は部屋で大人しく――」
「次は、淑妃様のところへ行ってきます」
「…………は?」
性懲りもないことを言うらんかに、孫雁は呆れたような反応を返した。
「淑妃は警戒心が強い。美しい宦官の姿で籠絡することはできないぞ」
「同じ手は使いませんよ。何かいい案はありませんか? 私なら、どんな役もできますよ」
文机に頬杖を着いて、彼の顔を見上げる。彼は煩わしそうにしつつも、按摩師がいいだろうと提案した。按摩師は、身体を指圧して刺激を与え、筋肉の懲りを解す仕事だ。
事前に孫雁からもらった資料によると、淑妃麗明は、武芸を嗜むような豪胆な妃だった。
彼女は気さくでざっくばらんな性格だが、自分のことはあまり話したがらないらしいので、樹蘭の話を聞き出すのは容易ではないだろう。
そして、万年腰痛に悩まされている。
「私から彼女に、『腕利きの按摩師がいる』とでも言って紹介すれば、簡単に接触できるだろう」
「え、いいんですか?」
「ああ。樹蘭のために動いてくれているんだ。このくらいの協力はする。思いのほか、お前は役に立つ駒になりそうだからな」
「駒……」
いちいち偉そうなのが腹立たしい。
按摩師のふりをして麗明に近づくことが決まったところで、らんかは小さく挙手した。
「あのぅ。私、按摩師の勉強とかしたことないんですけど」
「何とかしておけ」
「何ともなりませんけど」
「…………」
すると孫雁は、面倒くさそうに眉をしかめ、筆をことんと置いた。
「書でも講師でも、必要なものは用意してやる。用が済んだならさっさと出て行け。それともなんだ。――私に構ってほしいのか?」
「暇なので」
「私は忙しい」
見て分からないのか、と目で圧をかけてくる彼。そんな彼を、らんかはじっと見つめる。
「……なんだ?」
「いや……仕事でずっと下を向いてたら身体が凝ったりしないのかなって」
「まぁ、あちこち凝っているな」
「それじゃあ、手を出してください」
「手……?」
孫雁は疑いつつも、言われるがままに片手をこちらに差し出した。
その手に触れる寸前で、らんかはぴたりと手の動きを止めた。そういえば以前、髪についた糸埃を取ろうとして、勝手に触れるなと苦言を呈されたのだった。
「練習台になってほしいので、触れても? さっき、必要なものは用意するとおっしゃいましたよね」
彼は少しのためらいのあと、触れることを承諾した。
そっと両手で彼の手を包み込み、両方の親指の腹を使って彼の手のひらを揉みほぐしていく。
「どうですか? 意外と上手いでしょう?」
「ああ、悪くはない」
「小さいとき、よく父の手や肩を揉んでいたんです。らんかは揉みほぐしの天才だ……って褒められたんですよ?」
「単純な奴め。煽てられて、いいように使われていたんだな」
「その言い方やめてください」
憎らしさ据え置きの孫雁。彼は意地悪なことを言ってらんかをからかうことがある。けれどこういう小競り合いも、案外嫌ではなく、むしろ心地がいい。
孫雁の手はらんかよりふた周りも大きくて、長い指は節ばっている。男性の手だった。
「父は優しい人でした。数年前に他界しましたけど」
「……慕っていたのだな」
「はい」
「ずっと……とても後悔しているんです。私は父に、何もしてあげられなかったから」
誰にも打ち明けたことがなかった父の喪失について、なぜか彼に打ち明ける。
伏し目がちな表情に憂いが乗ったのを、孫雁は見逃さなかった。
「少なくともお前の愛情は届いていたはずだ。人を失ったときの自己嫌悪や後悔は、誰しも経験する。そしてそれは、時間が解決してくれるものだ。お前の父はきっと、お前が嘆き悲しむより、毎日を幸福に生きることを望んでいるのではないか?」
彼の言葉が、らんかの胸に染みる。憎らしいことばかり言うくせに、どうしてこういうときの声は優しいのだろう。触れる手は温かくて、父の死で凍っていた心の深いところが溶かされていくよう。
「ありがとう。――あなたにも、同じ言葉を贈りたいです」
それは、樹蘭を喪ってまもない彼に。
ふいに、らんかの脳裏に、先ほど書物の間から落ちてきた髪飾りが思い浮かんだ。
「……あの髪飾りは、樹蘭様に贈るためのものですか?」
上級妃には、それぞれを象徴する宝石がある。樹蘭は紅玉だった。
孫雁は少し間を開けてから答える。
「贈ってすぐに壊され、突き返されたんだ」
彼が樹蘭に、あの髪飾りを送ったのは、彼女が後宮に入ってすぐのことだった。彼女は受け取って早々、こんなものはいらないと打ち捨てた。
そして、片割れだけが孫雁の手に残った。
「捨てることもできず、あの場所にしまっていた。お前が見つけるまで忘れていたがな」
そう言って苦笑する彼は、傷ついているように見えた。
うっとりしてしまうほど、綺麗な髪飾りだった。孫雁が樹蘭を想って選んだのだろう。髪飾りを捨てられたときの彼の気持ちを考えると、胸が痛くなる。
(樹蘭様は皇帝陛下が心底お嫌いだったのね。陛下はそんなに……悪い人じゃないと思うけどな)
不本意だが、孫雁に少しずつ心を許している自分がいる。父の死を打ち明けたのは彼が初めてだった。
こんなに綺麗な髪飾りをもらえたなら、らんかは喜んで毎日着けていただろう。
たとえ気に入ってなくとも、くれた相手の気持ちを踏みにじることはしない。そんな風に心の中で思った。
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