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しおりを挟む事件の真相が明らかになって数日後。らんかは本殿の執務室に呼び出された。
執務室の戸の前の廊下には、いつも誰かしらが歩いているのに、今日は人払いがされていて誰もいない。
そして、室内に入ると、らんかがこの世界に来たときと同じように白い布がかかった祭壇が用意されていた。その真ん中に、操魂の術で使われていた鏡が置いてある。
「陛下……これは一体……」
「来たか。こっちへ来い」
困惑するらんかに対し、彼は近くに寄るように手招きする。彼に促されるまま、床に描かれた陣の上に立つ。
孫雁はこちらに歩いてきて、らんかの頭をぽんと一度撫でる。
「二月の間、大義だったな」
「は、はい……」
「見事な活躍だったゆえ、お前を元の世界に返すことに決めた」
「……!」
告げられた言葉に、瞠目するらんか。
最初の要求の内容は、『樹蘭を殺した犯人が分かるまで、彼女になりかわり過ごすこと』だった。今は彼女の死の真実が解明し、もはや犯人を探す必要はなくなった。
そして、らんかが役目を無事に果たせたら元の世界に帰すことを考えなくもない、と孫雁は言っていた。あのときの言葉を彼は覚えていたようだ。
「では、樹蘭様が自死したと公表なさるんですか?」
「ああ。それが純然たる事実だ。公表する他ないだろう」
「そう……ですか」
では、凛凛が必死になって樹蘭の名誉を守ろうとしたことは、無駄になってしまったという訳だ。
凛凛は皇后への傷害罪だけが残ってしまった。彼女の罪はどうなるのかと尋ねると、孫雁も彼女への処遇は悩んでいると答えた。本来は断頭台に送られてしかるべき重罪だ。
「どうか、凛凛さんのことを許して差し上げてください。彼女が罰を受けることを、樹蘭様も望んでいないはずです」
「……そうだな。分かった」
極刑は免れそうなのでほっと安堵するらんか。
これで、役目を果たした自分は、念願だった元の世界に帰れる。――それなのに。
(ずっと日本に帰るために頑張ってきたじゃない。それなのにどうして、帰りたくないって思うんだろう……)
らんかは上目がちに彼に問う。
「でも……操魂の術を使うと代償があるって、最初に言っていましたよね」
この部屋には文英の姿がない。彼は、らんかが元の世界に戻りたいと言ったときに、孫雁に代償がかかるからと反対していた。
「それは気にしなくていい。大したものではない」
「で、でも……」
せっかく元の世界に帰れるというのに、喜ぶどころか、でも、でも、と煮え切らない様子のらんか。孫雁は不審がり、ずいとこちらに顔を近づける。
「なんだ? 嬉しくないのか?」
「い、いえ……! もちろん、元いた場所に戻れるのは嬉しいです。ただ……」
「ただ?」
「陛下にお会いできなくなるのが、寂しいなって……」
日本に帰れば、もう二度と孫雁の顔を見ることも、話すこともできない。
らんかは彼のことが好きになってしまった。けれど彼は一途に亡くなった皇后を愛していて、決して自分に振り向いてくれることはない。孫雁の目にはひとりの皇后しか映っていない。それなのに、離れがたいと思ってしまう。
寂しそうにそう答えれば、孫雁は青い瞳の奥を揺らした。彼は、自分の中の何かと葛藤するように沈黙したあと、眉尻を下げて困ったように笑う。
「私もお前をからかうのは楽しい。だが、お前を待ち望んでいる者が――数百万人、いるんだろう?」
「……」
生まれ育った日本には、家族、友人、仕事仲間、大勢のファンがいる。突然いなくなったらんかのことを心配しているだろう。
らんかの本来の居場所は、興栄国ではない。樹蘭に見た目が似ているだけの自分の居場所は、ここにはもうないのだ。
「二月、大変だったけど、貴重な経験をさせてもらいました。雅で煌びやかな後宮の世界を味わえて、結構楽しかったです。さようなら。……どうかお元気で」
「お前もな。――では、術を始める」
別れの挨拶を早々に切り上げ、彼は祭壇の鏡に手をかざす。
陣の上に立ったらんかは、そっと目を閉じた。瞼の裏に、興栄国で孫雁と過ごした思い出が浮かび上がる。
最初は、役に立たなければ殺すなどと脅されてひどい出会いだったが、彼は冷酷なだけの人ではなかった。
小競り合いばかりしていた気もするが、傍にいるとなぜか落ち着く。楽しくて、心が安らいだ。
そして、一途にひとりの女性に焦がれ続けている彼が、らんかには美しく、愛おしく思えた。
(一緒に食べた焼き芋、美味しかったな……)
片手に術書を持った孫雁の薄い唇が呪文を唱え始めたのと、文英が格子戸をがらっと勢いよく開いたのは、同時だった。
彼は執務室の中を見て、血の気が引いた様相で声を荒らげる。
「なりません、陛下! 今すぐに術をおやめください!」
普段は冷静沈着な彼のいかにも切羽詰まった姿に、らんかは戸惑う。けれど孫雁の方は、制止を無視して呪文の続きを唱え続ける。
文英の反応を見るに、彼は孫雁が操魂の術を再び実行することを知らなかったようだ。
孫雁の詠唱に伴い、鏡と床の陣が光り始める。文英は太陽を見るかのように顔の前に手をかざし、目を眇めながら叫ぶ。
「術の最中、部外者は陣に近づくことができません! らんか様! 早く陛下を止めてください! この術は、代償として――術者の寿命を捧げるのです。壮絶な苦痛を伴いながら、あの鏡に寿命が吸い取られていきます」
「…………!」
術者の寿命、という言葉を聞いて、らんかの心臓が大きく音を立てた。
まさか孫雁が、自分の寿命を削ってまでらんかのことを元の世界に帰そうとしてくれていたなんて。
光の中で急いで走り、祭壇の鏡に手をかざしながら呪文を唱えている孫雁に、後ろから抱きついた。
ぎゅうと力いっぱいにしがみつきながら、彼の手の術書を取り上げようと片手を伸ばす。しかし孫雁は、らんかの手をすいとかわし、術書を高いところに掲げた。
「陛下、すぐに呪文を唱えるのをおやめください! 元の世界に帰すと言ったのは、らんか様を利用するための方便だったのではないのですか!?」
「もういいです、やめてくださいっ! 陛下……!」
文英とらんかがふたりで必死に懇願したそのとき、彼は呪文を唱え終わった。鏡がひときわ強い光を放ったところで、彼が言う。
「樹蘭は後宮に留まったばかりに死んだ。だからお前は絶対に、望む場所に返してやりたい。樹蘭のいないこの世に生きる理由を失っていた私に……もう一度人間らしい感情を与えてくれたのはお前だった。私はお前を……愛している。――らんか」
「…………!」
薄く形の整った唇が紡いだ言葉に、雷に打たれたような衝撃を受けるらんか。
孫雁は一方的に想いを打ち明けてすぐ、華奢な身体を引き剥がそうとする。しかし、らんかは彼に強く、強く抱きついて、離れようとしない。
「お、おい、何をしている!? 離せ、らんか!」
「嫌です! だって離したら、陛下は死んでしまうんでしょう!? 絶対に離しません……!」
「強情な奴め。術はすでに発動している。いいから離せと言ってるんだ。なんだこの馬鹿力は!?」
引き剥がそうにも全然離れないらんかに、苛立ちさえ覚える孫雁。額に怒筋を浮かべながら、強引に腰に巻きついた細い腕を解こうとする。
「嫌だって言ってるでしょうが! 私これでも……体力と筋力には自信が……あるので……ふぬぬ」
女優としてしゃかりきになって働いていたので、同世代の女性たちより心身ともに頑丈なのだ。抵抗して身じろいだ彼の首にしがみつくと、彼は首を強く圧迫されて息ができなくなり、顔を真っ青にする。
「っぐ……阿呆、私を殺す気か……っ」
するとその刹那、ふたりは言い合い、絡み合ったまま、一緒に鏡の中へと吸い込まれた。
執務室に取り残された孫雁は、主人の消えた室内を眺めて、茫然自失となっていた……。
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