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しおりを挟む『あたしは、大変なんてことは何も無かった。旦さん以外には誰からも干渉されないし、気楽なもんだったよ。身体が余り丈夫じゃない、っていう奥様だって、たくさんの使用人に指示出して自分も動いて、って日々働いてたのに、あたしは何もしてないからね。日がな一日、旦さんに教えてもらった手習いをしたり、音曲を楽しんだりしてさ。ほんとに呑気な暮らしだったね』
しみじみと言ったつやは、その頃を思い出したのか、やわらかに口元を緩める。
「ふうん。ね、手習いってなに?」
『文字を教えてもらうことだよ。言ったろう?あたしらなんて、ひらがなだって読めやしない人間がほとんどだったんだ、って。でも、旦さんは違ったからね。あたしにも丁寧に教えてくれて・・・そうだ。旦さんは、あたしの名前、艶、って漢字を当てられるよ、って言って書いてくれてた。凛が言ったのと同じだね』
嬉しそうに言ったつやは、またもグラスを、くいっ、と空ける。
「おつやさんって、響きも可愛いよね」
うっとりと凛が言えば、つやがにやりと意地の悪い笑みを浮かべた。
『そうかい?ありがとね。あたしも自分の名前、好きだよ。旦さんが幾度も呼んでくれたもんだしね。ただまあ、死んだ後は通夜も出してもらえなかったけどねえ。つや、って名前なのに』
自嘲気味に笑うつやに、凛は真顔になる。
「お通夜、してもらえなかったの?」
だから彷徨っちゃったのかな、と思いつつ、凛はつやの目を覗き込んだ。
『実のところ覚えちゃいないんだけどね。死に方が死に方だったから、多分してくれてないだろうな、ってのはある。旦さんは可愛がってくれたけど・・・まあ、義理も無いしね・・で!凛は?もう、自分を捨てた男に未練は無いのかい?』
無理に明るく笑うつやに、凛はそれ以上彼女の過去に触れるのはやめ、自分の身に起きたことを振り返る。
「未練、っていうか。夏は幸せだったなあ、とか、良かった時を思い出して胸が痛くなったりはするんだけど。今は、悔しい、って気持ちが強いのかな」
百歩譲って、破談になったのは仕方が無いと思う。
心が移った、というのを止めることは出来ないのだから。
しかし、仕事まで失うような精神的苦痛を凛が味わう、そこまでの道筋を意図的に作られていた気がしてならない。
そんな苦い気持ちに拍車をかけるように、元婚約者の隣で勝ち誇った目をしていた女の姿がよみがえった。
「わざわざ、私を障害として言う、なんてのが、許せないの」
凛を見下し蔑むように口角をあげ、意地の悪い笑みを浮かべていた彼女の姿を思い出し、凛は声を震わせた。
『怒りが向かうのは、凛を捨てた男じゃなくて相手の女、ってことかい』
そんな凛の前で、つやが遠い目をしてグラスを揺らす。
「そんなことも無い。彼女と一緒になって私を笑い者にしたことに変わりはないから」
多くの社員の前で凛を悪者にし、笑い者にした元婚約者を思い出し、凛は冷え冷えとした気持ちになるも、最後に凛に向けた瞳は何処か迷っているようにも見えたとも思う。
『そうは言ってもさ。その後に、でも・・って続くんじゃないのかい?でも、あのひとは、とかさ』
ほら素直におなり、と揶揄うように言われ、凛は言葉に詰まって顔を伏せる。
『それ見たことか。その目が、何よりの証拠さ。あのひとは優柔不断だから、あのひとは乗せられやすいから。いつだって女は惚れた男じゃなくて、男を自分から奪った女に敵意を持つ・・・ねえ、やっぱりあたしが憎かった?だから、わざと殺すような真似をしたのかい?』
「おつや・・さん?」
途中から、つやの声色がひどく冷たいものに変わったことを怪訝に思った凛が視線をあげれば、そこには先ほどまでの飄々とした明るさなど微塵も感じられない、冷たい目をしたつやがいた。
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